尽力的態度と真の治療的態度の違いについて

時々、重要だと思う論文や書籍の紹介を行っていこうと思っています。
初回は「尽力的態度と真の治療的態度の違いについて」です。

こちらは1983年の京都大学教育学部心理教育相談室紀要に掲載されています。
1970年代、まだ「事例研究」が一つの論文として認知される以前から京都大学では上記の紀要として「臨床心理事例研究」を発刊していました。
紀要ですから公に見ることは難しいですが、古い大学の図書館にはあるかもしれないですね。

こちらの紀要のスタイルとして、大学院に入ってクライエントを担当し始めた学生が症例報告を書き、それに対して指導者的立場の人たちがコメントを書くという形式になっています。
コメントを書いている方々は当時、そして今でも代表的な臨床家であられる方ばかりという豪華な顔ぶれになっています。

今回ご紹介する「尽力的態度と真の治療的態度の違いについて」ですが、山中康裕先生が事例論文に対するコメントのタイトルとして掲げられたものになります。
事例を踏まえて述べられているので、事例の内容を読まなくてもわかるところだけ抜き出しつつ。

彼女なりに一所懸命、いわば「尽力的に」関わっているのである。にもかかわらず、それらを、真の意味で、治療的に活かしていないのである。すなわち、彼女の関わりを、「治療」と捉えると、大きな疑問をさしはさまざるを得ないのだ。

一所懸命やることと、治療することは違うよ、と明確に述べておられます。
決して「一所懸命に尽力すること」で治療が成立するわけではないと。

この点については、事例報告者が何回となく編み物をしてやり、プレゼントをあげ、一所懸命、相手をしてあげる「よいお姉さん」に徹している感があることを踏まえ、以下のように指摘しております。

治療場面において、この「Aggression」が表出され、十分に表現されることこそが、「治療」の一つの眼目となるはずであろう。なのに、治療者が「よいお姉さん」であり、かつ、それを維持することに専心している場合、どういうことが起こるか。クライエントの方としては、Aggressionを出したくとも、この「場」、この空間では、どうしても出せなくなってしまうのである。

一所懸命であることによって、クライエントの変容につながるようなAggressionの表出が起こりづらくなっている、つまりは、一所懸命であることが治療を阻害することになっているということです。

「尽力的」な配慮が、えてして、クライエントにとって重荷になるのは、こういった事情によるのであり、単なるvolunteerと、専門家としてのtherapistとの差は、こうした点にこそあるのだ。

山中先生はその項を上記のように締めくくっておられます。

一所懸命な人は世の中にたくさんいます。
挙げられているボランティアの方もそうでしょう。
しかし、一所懸命なだけで治療が可能なのであれば、私たちのような専門家は不要なはずですが、そうはなりませんよね。

そもそも、カウンセリングは「楽になる」「癒される」といった類の経験が主ではありません。
そういう経験が無いとは言いませんが、やはりそれは中核ではない。

カウンセリングの目的は「その人が、その人の悩みを、自分のものとして悩めるようになること」です(少なくとも私はそう思っています)。
悩みを悩めるようになるには、精神的成長や変容が必要です。
しかし、「それまで見ないようにしていた何か」を自覚し、何かしらの形で関わるようになっていくためには痛みが伴います。
身体に成長痛があるように、こころの変容にもそれがあるのです。

我々はこの痛みについて「あたかも同じ経験をしているかのように」ともにいることが求められます。
そうすることが、その苦しみを抱えるクライエントを支える器としてカウンセラーが機能するために必要なことです。
こうした作業はとても大変です。
だから、カウンセラーという専門家が、多くの場合は報酬をもらうことによって行うわけです。

また、よく「傾聴」という言葉が使われますが、真にクライエントの気持ちを汲み、クライエントが自身の問題を消化していくことが可能になるべく、話をひたすら傾聴するのは並大抵のことではありません。
クライエントの問題に対して、現実的・社会的に支援するのではなく、ただ聴くことに徹する。
本来はそれが何よりの、時には唯一の支援となるのですが、クライエントの問題に対して何もできないという無力感を生じさせることもあるでしょう。

こうしたクライエントの苦しみと共にいることの大変さや、カウンセラー自身の無力感のアクティングアウトとして「一所懸命」「尽力的」という態度は大いにあり得ます。
実は多くの「一所懸命な」「尽力的な」かかわりの裏には、こうした共苦や無力感に耐えかねてというパターンも少なからず見受けられるのです。
一所懸命に尽力していると、なんだか相手のためになっているような錯覚を抱き、多少とも支援者側が救われるわけです。

このように「一所懸命な」「尽力的な」態度には、その割合は人それぞれでしょうが、「カウンセラーが自分自身のために行っている」という面が含まれる可能性があります。
ただ、滅私で臨めと言いたいのではなく、そうした「自分のため」ということが混じっているということ、時には混じらざるを得ないということも、どこかで自覚しておくのが専門家であると思うのです(少なくとも「私は100%相手のためを思い、相手のために行動しています」と言う人って信用できないですよね)。

…という感じの連想が、山中先生の「尽力的態度と真の治療的態度の違いについて」を読んで生まれました。
興味のある方は是非ご一読ください。
手に入らないかもしれないものを紹介して申し訳ありませんけど。

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