精神的成熟における「ずれる」ことの意義

強迫性障害の有名な論文として「強迫神経症についての一考察-「自己完結型」と「巻き込み型」について」があります。
成田善弘先生ら(1974)が提出した概念で、強迫症状を自分一人で悩み自分一人で行うタイプ(自己完結型)と、強迫症状の中に他者を巻き込むタイプ(巻き込み型)が示されています。

特に「巻き込み型」では、他者がはじめは確認や保証を与えることで不安を解消・軽減しているようにみえても、次第にこの他者の存在なしでは不安に対処できなくなるため、結果としてその他者を絶望的なまでに振り回すようになります。
こうした振り回し方は全能的コントロール(G.L.Grinberg)と呼ばれ、境界例との関連で語られることが多いです。

そもそも強迫とは、対処できない(ために意識化できていない)不安があり、より対処しやすい対象に「置き換え」が起こるために、本来ならそこまでの不安を感じなくてよい対象に過剰なまでの不安を示し、更にその不安を解消するための努力(手洗いや確認)を繰り返すその行為のことを指します。
当然ですが、置き換えられた対象への対処をいくら行ったところで、本質的な不安の軽減にはなりにくいです。

こうした解消なき不安軽減の努力に他者を巻き込むのが「巻き込み型」ですが、巻き込まれている側の人たちにもいろいろ特徴が見られます。

その一つが「ずれることがダメだと思っている」ということ。
強迫を示しているのが未成年の場合、巻き込まれるのは母親などの保護者が多いものですが、本人の望む対応をしてあげないといけないという思いを強く持っています。
本人からダメ出しされると「もっとこうしてあげればよかった」といった後悔を抱え、その繰り返しの毎日を過ごしていることも少なくありません(これ自体が暴力や洗脳の基盤となる状況なのですが、それはさておき)。

ここで強迫から離れ、親子の間のやり取りがずれることについて考えてみます。
親子のコミュニケーションの「ずれ」に価値を見出したのが、ドナルド・ウィニコットです。
彼は「ほどよい母親」という概念の中で、乳児の要請に100%応えなくても「ほどよい」くらいが重要であり、少々の「ずれ」によって生じる乳児の不満については現実適応を促す上で重要だと考えました。

ただし「ずれてもいいから、私の好きなようにするわ」というのはいただけません。
なぜならウィニコットの「ほどよい母親」概念では、母親が乳児の要請をキャッチしようと努めていることを前提としているからです。
要請をキャッチしようと努め、概ねの要請に応えてもらっているという前提があり、その上でずれることに価値が出てくるということですね。

むしろ「ずれる」ことを当たり前のものと考え、ずれが生じたときの当人の不満(もしくは喜び)をどのように扱うかが養育上重要と言えます。
たいていは怒ったり泣いたりして親に「手をかけさせる」のですが、多くの心理的不調を訴える子どもたちが回復過程で多少なりとも親に「手をかけさせようとする」のは、それが必要な体験であるからだと思います。
このことは不登校児の生育歴で「手がかからなかった」という訴えが多いことと無関係ではないかもしれません。

そのような前提に立つとき、先述の強迫症状に巻き込まれている側が抱くような「ずれてはいけない」という意識は、強迫症状を示している本人の現実感覚を育むことになり得ないということが導かれるように思います。
養育と強迫の治療とを同列に並べることに様々な意見はあると思いますが、児童期から出現する強迫症状を見て、その支援にあたっている身としては、「ずれ」をどのように生じさせ、そこにどうやって「留まる」「関わる」「反応する」のかが重要であるという点について譲ることはできないと感じます。

こうした「ずれ」に関する見解は当然のように思われるかもしれませんが、意外と見落とされがちです。
例えば、学校に行けない不穏感情を「宿題ができていない」という点に置き換えている場合、子どもは必死に「お母さん教えて!」と言ってくることがあります。
宿題ができてないから学校に行けないという状況では、しっかりと教えようとしてしまうのが自然ですが、いくら適切なアドバイスをしたとしても遅々として宿題は進みません。
それどころか「教え方が悪い!」などのように怒ってきて、母親がそれを反省するという事態も起こり得ます。

こうした状況で母親が反省してしまうと、子どもも「きちんと教えてもらえないから、私は宿題ができないし、学校にも行けない」という形で、母親を組み込んだ強迫が完成されてしまいます。
この仕組みに支援者は気づき、手を入れていくわけですが、支援者のもつ価値観(学校に行けるようにしたい、とか)によっては、アドバイスの仕方などに話が終始してしまう場合もあり得ます。
この場合、カウンセラーが「巻き込まれている」と表現されますね。

また、そうした「ずれ」が生じることで自傷や暴力のような行動化を示す事例も散見されます。
ですから、現時点ですでに巻き込まれている人には、カウンセラーがその仕組みに気づくこと、そうした仕組みをきちんと説明することから始めることが大切だと考えています。
そして、とりあえず現時点での関わり方を出発点として、それでも生じるずれにどのように関わるかを話し合うというスタンスが良いでしょう。

いきなり「巻き込まれていてはいつまでも良くならないから手伝わないように」と伝えることで改善する事例もあるのですが、事例によっては大暴れしたり暴力が激化するという事態にもなりかねません。
「ずれ」がいきなり拡大するのも危険ということですね。

さて、ここでぐっと視点を日常に戻して、こうした「ずれ」に寛容であるために何を日々していくのがよいのかを考えていきます。
それは先述の「ずれてはいけないと思っている親」への対応のヒントにもなるでしょう。

私からの提案は「サンタさんからのプレゼント」を活用することです。
クリスマスプレゼントには贈与論的な意義がいくつかありますが(内田樹先生著の「困難な成熟」)、その一つとして「欲しいもの」と「贈り物」に微妙なずれの存在があります。
欲しいものと微妙にずれるということが、実は非常に重要な意味を持っているのです。

この「ずれ」は子どもたちに「世界からの贈り物は、求めていたものとはちょっと違うものになる」ということを暗に示します。
親からの養育も、自然から与えられるものも、他者からのコミュニケーションも、自分にベクトルが向いている世界のあらゆるものは、その量や質を「思った通りにしてもらうこと」など不可能です。
大人になれば少々それを調節する力を持ち得ますが、それは物質的な部分に留まることが多く、世界からの贈り物は受け取るしかない、それが世界の前提なのです。
この前提には「自分の心身を馴染ませていく」しかないと私は考えています。

「世界からの贈り物」と「欲しいもの」のずれのふり幅に、心身を馴染ませていくこと。
それがすなわち「ずれ」に寛容になっていくということだと思います。

こうした「思ってたのとちょっと違う」という体験をポジティブに行えるという点でサンタクロース・システムは非常に優れています。
送り主が「サンタさん」なわけですから、子どもが気に入らなかった時でも親はその悲しみを支え、思いのほか喜んだときにもともに喜ぶということができます。
つまり「ずれ」によって生じるあれやこれやに親は子どもと同じ立ち位置で付き合い、寄り添うことがしやすいわけですね。

サンタクロース自体は年に1回ですが、ずれることによって生じる精神的成熟を認識していれば、日常的な場面でのずれへの対応が安定したものになっていくでしょう。
すなわち「ずれ」に対する親の拒否反応を減らし、そこで生じるあれやこれやに「反応」して、「付き合う」ことが親の役割だという認識に近づくことが可能になることが期待できます。

最近、子どもへのプレゼントを考えるときに、子どもに綿密なリサーチを行ったり、一緒におもちゃ屋で欲しいものの「下見」をしたり、酷い場合には現金を手渡すという話を聞きます。
欲しいものの「カテゴリー」くらいは良いと思うのです、大きなずれを防ぐためにも。
しかし、それ以上は手前勝手に選んで、どういう反応をするのか楽しみにしていれば良いのではないでしょうか。

現金を渡すのは「ずれるのが怖いから、あなたの好きなものを買いなさい」ということですよね。
それではサンタクロース・システムを使いこなせていないということになります。

近年、小学校から中学校に上がったばかりの子どもたちの不調が増えてきました。
彼らがよく口にするのが「みんないい加減だ」「周りがおかしい」ということです。
特にいじめなどの明確な侵襲行為が見受けられなくても、です。
周囲との「ずれ」が許容できない、周囲が自分の思うような「贈り物」を向けてこないということに対して許せない気持ちがある、ということかもしれません。

いわゆる「中1ギャップ」とは、こういう事態によって生じるのかもしれない、と最近思うのです。

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