価値感の違いを許容する「懐の深さ」はいずこへ

参院選が近いですね。
私は北陸の保守王国に住んでいるので自民党が強いです。
自民党の応援演説の内容に違和感を覚えたので、そこからの連想を。

応援演説では「選挙のときにだけ力を合わせるような野党に、この国を任せていいのでしょうか」と問いかけていました。
私は良いと思っています。
野党がというよりは、「必要なときだけでも力を合わせる関係」がです。

なぜなら、選挙のときだけでも力を合わせるということになっていれば「普段からあんまりけちょんけちょんに言うと、後々都合が悪いかもな」といった抑制が働きやすくなることが期待されます(たぶん)。
こういう抑制は会社でも家庭でも自然に見られるものであり、こういうことがあるから他者との折り合えるポイントを探し、共存の道を模索するのです。
少なくとも、絶対的強権を持つものが「従わなければ排除するぞ」という姿勢でいるよりは、ずっと好ましいと思っています。

会社でも家庭でも、価値感が違うもの同士、考え方が違うもの同士が潰しあわずに一緒にいられることは大切なことです。
例えば、その家の中の全員が阪神ファンで、阪神ファン以外は非国民だという家の子どもは「巨人が好きなんだけどな…」とは言いづらくなります。
逆に、父親が阪神ファン、母親が巨人ファンだと、どちらかを選ぶこともできますし、もしかしたら「私はヤクルト」「やっぱりパリーグですよ」「野球よりサッカーでしょ」など言い易くなるでしょう。
なぜなら、そこには、その場に価値観が異なるものが居て、なおかつ互いを排除していないという構図があるからです。
それはその空間そのものが、多様な価値観を認めているということとイコールです。

多様な価値観を備えていることは、生きていく上での安全弁となります。
単一の価値観で生きている場合、例えば「勉強できることが人の価値」という価値観だけで生きていたら、自分が勉強できなければ無価値な人間という自己認識に押しつぶされるでしょうし、そうでなくても他者を容易く見下すことにもなるでしょう。

父親から「出ていけ!」と外に出された子どもが、母親に勝手口を開けてもらって家に入る。
星一徹が飛雄馬を厳しく指導している時に、お姉ちゃんが心配そうに電信柱から見守っている。
こうした情景は、実は、家庭内に多様な価値観があったことを背景に描かれているのです。

近年、こうした情景が失われ、父親が怒るときに母親が一緒になって怒る、両親ともが必要な制限を行うことができない、「父親が見えない家庭」に出会うことが増えました。
これらは価値観が単一化しやすい家庭環境であるという点で共通しています。

「イクメン」も、時と場合によっては考えものです。
本来、子育てに対する考え方は夫婦であっても違うのが自然です。
しかし「イクメン」をしようとすると、多少なりとも夫婦で子育ての考え方を合わせようという力動が働き、これは価値観の単一化に近づきます。
もちろん夫が育児に参与することは大切なことです。
大切だからこそ、その際には「互いのやり方を尊重する(とまではいかなくても、文句は言わない)」「違いがあること自体に価値があると思っておく」「互いのやり方を押し付けるのではなく、折り合えるポイントを探すようにする」ということを旨としておくと良いのではないかと思うのです。
もちろん、それが大変ムズカシイことも身をもって知っているのですけど。

いずれにせよ、家庭でも政治でも、考え方の違いを許容・内包できない「懐の狭さ」を感じることが増えました。
私はこの「懐の狭さ」がこの国の将来を担う子どもたちにどのような影響を与えるかを考えると、ちょっと暗い気持ちになってしまうのです。

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