臨床心理士 精神医学:H17-13

本問は境界性パーソナリティ障害に関する問題になっています。
DSMなどで境界性パーソナリティ障害の特徴についてはある程度把握できると思います。
しかし、臨床家として大切なのは「なぜそのような基準が設けられているのか」について、自分なりのストーリーや理解を持つことです。
その辺も踏まえて解説していきましょう。

本問は、境界性パーソナリティ障害に関する文章が示されており、抜けている語句を選ぶという方式を採っています。
その文章は以下の通りです。

境界性人格障害にはいくつかのパーソナリティ特徴が認められる。その一つには A ことを避けようとするものすごい努力がみられ、 B とこき下ろしとの両極端を揺れ動く不安定で激しい対人関係様式が認められる。また C を傷つけることを抑制するのが困難な場合が多い。あわせて慢性的な D を認めることができる。

上記のA~Dに入る語句を選択する問題となっています。
このくらいの問題であれば、選択肢を見なくても解けることが大切ですね。
マスターソン、カーンバーグなども併せて覚えておきたいところです。
では解説に移りましょう。

パーソナリティ障害という概念について

かつてから精神医学の世界では「心因反応」という言葉を使います。
まずは何かしらの「状況因」があります。
PTSDだと誰かが事故に遭った場面を見るとか、自分自身がそれを体験するとか。
間違ってはいけないのは、こうした「状況因」=「心因」と思わないことです。

よく巷では「それはトラウマになる」などと軽々しく使われていますが、それは誤った捉え方です。
心因反応とは、「状況因」とそれを受け取る個体側の資質との組合せによって生じるものです。
ある状況でも、心因反応を示す人と示さない人がいるのはそのためですね。
ですから、心因反応は状況因+個体の資質という捉え方をするのが適切なわけです。

既にDSMからは撤廃された診断名として「神経症」があります。
神経症は、いわば心因反応によって起こった種々の反応のことであり、これが一定期間長引いている状態を指します。
ですから、神経症の治療では、この心因についていろいろ話し合うこと、悩みを聴き、受けとめることが重要になってきます。

しかし、そういうアプローチを行っても良くならない一群が認識されるようになってきました。
一般的には、悩みを聴いていくことで整理されたり、捉え方が変わったり、支えられたりして安定していくものなのに、かえって悪くなる、混乱するという事例が多くの臨床家から報告されました。
こういう人たちに対して「神経症だと思っていたけど、実はその下に精神病的な問題が隠れていて、そうした精神病的な問題が表出する前触れというか、予兆として神経症の症状が出ていたんだ」と考えるようになったんです。
よって、これらの問題は神経症と精神病の境界にある人たちが示しているということで「境界例」と呼ばれるようになってきました。

その後、境界例の概念は様々な拡がりを見せましたが、基本的には共通した見解がありました。
上記で述べたとおり、状況因+個体の資質→心因反応が出てくるわけですが、この「個体の資質」の要因が大きいために起こってくる問題があり、それが境界例の問題であるということです。

さて、こちらについてはいわゆる「パーソナリティ障害」全般の理解と言えます。
では、「境界性パーソナリティ障害」について詳しく見ていきましょう。

境界性パーソナリティ障害について

境界性人格障害がある人に対してカウンセリングを行ってきた先人たちの知見より、彼らに特定の性格的な反応パターンがあることが明らかにされてきました。
それが「重要な他者との関係の不安定性」です。

仕事はしっかりとできるけど、恋愛関係になると急に不安定になったり、ケンカばっかりしたり、すぐに別れたり、揺さぶってきたりということが見られます。
恋人との関係だけでなく、カウンセラーとの間でも、カウンセラーにしがみついたり、揺さぶってきたり、厳しいことを言われると自傷行為をするなど、色んな反応が見られます。
こうした他者との関係の不安定性を精神医学ではどう理解してきたのか。

心理学の世界には「二者関係」と「三者関係」という言葉があります。
説明が難しいのですが、三者関係は「間に話題がある関係」であり、二者関係は「私とあなたの関係」と考えておきましょう。
例えば、お見合いでは「ご趣味は?」などとやり取りするので三者関係になりますが、縁談がうまくいってお付き合いを始めると「私とあなた」だけで成り立つ関係になり、これが二者関係と言えます。
余談ですが、恋愛関係においてこの三者関係と二者関係の変わり目はひとつの危機と言えるでしょう。
その変わり目は関係が変わる瞬間と言えますから、関係の継続が困難になりやすいのです。
私は、恋愛、結婚、妊娠、出産、子育てなどを順に行った方が良いだろうと考えていますが、その一因としてこのことがあります。
つまり、二者関係・三者関係の移り目を同時期に行うことは関係の継続を困難にさせることがあるので、順序よく行っていった方が関係の崩壊を招かなくて済むということです。
もちろん、それでも関係が壊れるとは限りませんから、当人たちがそれで良いと言えば良いのですが。

境界パーソナリティの人は、この二者関係の部分に傷つきがあるとされています。
だから、三者関係(仕事の関係など)では安定したやり取りができても、二者関係(恋人関係など)になった瞬間に、その傷つきが表面化し、不安定になると考えられています。

彼らの不安定性には特徴があります。
その一つは「激しく求める」ということです。
一旦二者関係に入ると、もっとと求めます。
もう一つは「疑う」ということです。
激しく求めるので「週に1回しか会わなかったのを毎日会うことにした」ら安心するかと言えば逆で、むしろ7倍不安になるのです。
しょっちゅう会っていると「自分から気が逸れた」という瞬間が見つかりやすくなり、どんどん「疑う」ようになっていきます。
そのため、どんどん「こっち向いて」という風になり、ますますくっつくようになりますが、そのためにどんどん疑いが増えるという悪循環になります。

なぜこういうことが起こるのか?
多くの理論家は幼いころの母子関係に起因するとしています。
子どもの頃に母親を求めても、母親からきちんと反応がなかったり、他のことに目を向けていると、大人になったその人の内にある「子どもの心」は誰かを求めるという欲求が満たされないまま残ることになり、それが二者関係の対象に向けられることになります。

また疑うのは、上記と似ていますが「信頼したいはずの人が信頼できなかった」という体験によるとされています。
急に梯子を外されるような体験を繰り返し行っていた、例えば、安心してやり取りしていた時にいきなり不意打ちを食らうような切り捨てられ方をするなどです。
こうすることで「安心できる」「信じられる」「頼りたい」と相手に依頼する気持ちが出てきた瞬間に「切り捨てられる」「外される」「安心できない」という経験が湧きあがってくるようになります。
これが恋人やカウンセラーなど、いわば「信頼したい人」であるからこそ生じる不信感の正体と言えます。

先日、あるラーメン屋に言ってお腹を1週間ほど壊していました。
その後、そのラーメン屋に再び行ったのですが、別メニューでもおいしく感じません。
実はそれと同じです。
境界パーソナリティの人も、幼いころの経験が現在に及んでいるということです。
問題は、その傷つきが言語化以前であるということです。

こういう言語化以前の体験による傷つきは深い空虚感を生みます。
「何かが足りない」「何かが満たされていない」という感覚ですが、その「何か」がわからないのです。
ただし、その「何か」はわからなくても、安心できる対人関係が重要であることは何となくわかっている場合もあり、よって二者関係を求めることも多いです。
そして現実では安定した二者関係を求めますが、しかし、上記の理由で安定しようとすればするほどに不安定性が同じ大きさで体験されるという結果になります。
彼らの苦しみは深く、まさに「生きていることが苦しい」とも言えるでしょう。

見捨てられ不安について

境界例の中核的な問題として「見捨てられ不安」を挙げたのは、ジェームズ・F・マスターソンです。
これは現在のDSM-5にも明記されている項目ですね。

マスターソンの理論も大枠では上記と同じです。
彼は、「近づけば報酬を与え(WORU)、遠ざかれば罰を与える(RORU)」ということによって、安心できる対象から離れれば恐ろしいことが起こるという認識が生まれるとし、これによって見捨てられ不安が生じると考えました。
境界例の人たちは、人とは異なる主体性を作ろうとするとき、見捨てられ不安や抑うつが、心の深層から思わず湧き上がると考えたのです。
マスターソンの理論の背景には、マーガレット・マーラーの考え方があり、その辺は割愛しますが興味のある方は理解しておくと良いでしょう(分離-個体化などが有名な概念でしょう)。

ちなみに、見捨てられる不安というのは正常なものです。
そもそも子どもにとって最大の不安は「置き去りにされること」です。
子どもは自分だけで生きることができませんし、そのことを実感として理解しています。
置き去りにされれば生きていけないので、当然相手にすがりついたり、優れた自分でいようとするというパターンも出やすいものです。
それを健康な形で軟着陸させていくために必要なのが、子どもが自分から離れたり悪いことをしたりしても「安定して関わり続ける」ということです。

これを「叱るとダメなんだ」と思わないでください。
むしろ叱るという体験は不可欠なものです。
「叱られるけど、大切にされる」という相反する体験を何度も積むことが、子どもが社会化していくために欠かせない体験です。

また、子どもが失敗したときに「そんなあなたが大好きだ」と言えるかが大切です。
どうやって子どもの内に「優れていなくても愛される」という思いを入れ込んでいくか、それは子どもが失敗したときが大きなチャンスと言えるでしょう。

理想化とこき下ろし

メラニー・クラインは、ポジションという概念を提出しています。
まずはこれをざっくりと説明します。

赤ちゃんにとって、外界はぶつ切りであり、自分の一部と認識されています。
つまり、泣いたときにやってくるお母さんの顔も手も乳房も、すべて一つの対象としては見なされていません(これを部分対象と呼びます)。
この部分対象には、赤ちゃんにとって良いことをしてくれる良い対象と、自分の要求とはずれたことをしてくる悪い対象があり、これらも別々のものと認識されています。
しかし、赤ちゃんが成長してくると、こうした外界にある部分対象は、どうやら一つの母親という人間であると認識されてきます。

このとき、子どもがそれまでに重ねてきた体験がどのようなものであったかによって、部分対象を一つにまとめることが可能か否かが分かれます。
部分対象を一つにまとめる(まとまると全体対象と呼びます)ためには、赤ちゃんが積み重ねてきた体験が「良い>悪い」となっていることが求められます。
良い体験だけで構成されている世界は完璧で、自分の要求を100%満たしてくれるわけですが、どうやら実際はそうではないらしいと子どもが感じます。
この自分にとって100%の世界(ある種の妄想的な世界)を崩すためには、「基本的には良い体験で満たされていて、悪い体験もないわけではないけど、このくらいなら混ぜてあげてもいいかな(本当は嫌だけどね!)」というくらいに「良い体験>悪い体験」になっていることが重要なのです。

そこそこ「良い体験>悪い体験」となっていれば、完璧な母親に完璧でない母親を混ぜ込んで「大体は自分にとって良いことをしてくれるけど、ちょっとはずれるお母さん」といった感じに母親のイメージが移行することになります。
これが「全体対象」になるということです。
メラニー・クラインはこの段階のことを「抑うつポジション」と呼んでいますが、なぜ抑うつなのかというと、完璧な母親に不完全な母親イメージを混ぜ込むことは、要は母親に対する幻滅が生じるわけです。
その幻滅を「抑うつ」と表現しているわけですね。

こうした「抑うつポジション」に移行できれば良いのですが、先ほど述べたように「悪い体験>良い体験」となっていると、そううまくはいかなくなります。
悪い体験(自分にとって不適切なことばかりしてくる母親という部分対象)が沢山ある中で、ちょっとしかない良い体験を混ぜたとしても、その子どもにとって「僕の母親は基本的に自分にとって良い体験をもたらしてくれない」わけですから、良い対象と悪い対象を混ぜたくないわけです。

こういう時に子どもが精神世界で何を行うのか?
良い体験をもたらす対象と、悪い体験をもたらす対象をすっぱりと切り離すという心的戦略を無意識に行うとされています。
これはスプリッティング(分裂)と呼ばれており、これによって「理想化とこき下ろし」が生じると見られています。
良い対象と悪い対象がすっぱり分かれており混ざっていない状態ですから、目の前の人を良い人と認識すれば「100%良い人」になり、神様のような全能的な存在として見なすということもあります(これがいわゆる理想化ですね)。
しかし、そのように見える人でも自分の思い通りにならない瞬間が見えてくるわけであり、そうすると「良い人にも欠点はあるよな…」とはならず、「この人は100%悪い人だ」とスパッと逆に振れることになりこき下ろすという行為になるとされています。

子どもは、こういうやり方によって「僅かしかない良い体験」を守っていると言えます。
しかし、その良い体験を親の全イメージとして見なすには無理があるのが客観的な見方であることはわかると思います。
そのためメラニー・クラインはこの状態のことを「妄想-分裂ポジション」と呼んでいます。
妄想は「自分にとっての100%の存在を信じている」ということであり、分裂は「僅かしかない良い部分を守るために、悪い部分と良い部分を分裂させている」ということを指しています。

こういう現象は児童養護施設にいるとよくわかります。
酷い虐待を受けた子どもたちが、親のことを悪く言うかと言われれば、必ずしもそうではありません。
むしろ「僕のお母さんは遊園地に連れてってくれた!」などのように、競うように自分の親がしてくれた「良い部分」を主張します。
こういう現象はまさに悪い対象と良い対象を混ぜないことによって「僅かしかない良い部分」を守っている、ということなのです。
やはり悲しいのは、被虐待児が語る親の良い部分は、あくまでも断片的であり、一回限りの体験が多いということですね。

このような事態が境界性パーソナリティでも生じるとされています。
見捨てられ不安が生じる流れを示しましたが、それはこのような「妄想-分裂ポジション」が生じる状況とも重なることがわかると思います。
カーンバーグは境界性パーソナリティ障害の診断基準として「内的対象関係の病理」を挙げており、これはこの項目で述べた内容のことを指しています。

自己を傷つけること

境界性パーソナリティ障害では、確かにリストカットのように自分を傷つける行為が多いように感じます。
ただし、そこにはさまざまな意味が含まれており一義的に捉えるのは難しいでしょう。
思いつく意味を挙げていくと以下の通りです。

まずは「しがみつき」の方法として生じる場合です。
自分が誰かから見捨てられないように、自分に焦点が向くようにするために自分を傷つけるという行為に走ることがあるでしょう。
強い見捨てられ不安がある場合、視野狭窄が起こりますから「今ここ」だけでも自分に注目されるならばそれでよいという刹那的な行動になりがちです。

また、長いストレスフルな生活を送っていると、解離という対処法が採用されている場合が少なからずあり、解離は自傷行為を生じやすくさせます。
解離は「現実を他人事として捉えることによって、心的衝撃を軽減する」という機能ですから、それ自体が悪いわけではありません。
しかし、解離という対処法があらゆる場面で出現するようになると、その人が自分の人生を生きている感覚や、過去の自分と今の自分の連続性が失われてしまいます。
自傷行為には、こうした解離状態からの離脱という意味も含まれており、生体にとってはインスタントな治療法の一つと見なすことも可能です。

その他にも葛藤耐性が低かったり、フラッシュバックが生じやすいなど混乱する状況に出会うと自傷が出るということもあります。
こうした様々な状況で自分を傷つける行為が生じやすく、また、それを抑制する力も育っていないことが多いとされています。

終わりに

以上で本問の解説をし終えたかなと思います。
見捨てられ不安、理想化(とこき下ろし)、自己(を傷つける)、空虚感などは、境界性パーソナリティ障害を理解する重要な概念ですから、その構造についてきちんと理解しておくことが大切です。

なお、こちらでは主に精神分析的な見解を中心に行いました。
ここでの説明は他派の説明を妨げるものではありません。
各自が「治療」に中核を置いて、一番役立つストーリーを自分の内に持っておくことが重要だろうと思います。

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