臨床心理士 精神分析学:H20-28

臨床心理面接におけるエピソードに対応する防衛機制を選択する問題です。
防衛機制自体は精神分析学の枠組みになりますが、どの学派であっても重要な概念だと思います。
防衛機制という概念を知っておくことで「一見わけのわからないコミュニケーション」を向けられたときに、その仕組みを捉え適切な対応を産出しやすくなります。

時折、「一見わけのわからないコミュニケーション」に対して「理解していなくても適切に対応できる人」のことを才能があると称している場面を見かけます。
これは誤った認識です。
言外に「全然勉強していない人でもちゃんと対応できれば良い」という認識がありますね。

個人的な意見としては、こうした「理解していなくても適切に対応できる人」は確かにおりますが、それは「まぐれ当たり」に過ぎないと思います(まぐれ当たりも大切だけど)。
その人が備えていた元々のコミュニケーションパターンが、たまたま目の前に生じていることへの対応として「はまった」ということです。
となると、別の対応が必要な場面なのに、その元々備えていたコミュニケーションパターンが発動する可能性もあるわけですね。
ですから、上記のような認識を初学者に向けるのはお勧めしません、教育上。

プロであれば、どんな「わけのわからないコミュニケーション」であっても、専門性に基づき、それなりの理解を踏まえ、安定した対応することが重要です。
様々なクライエントと関わる我々のようなプロの仕事とは「100点を出すこと」ではなく、「アベレージで常に及第点を出せること」なんです。
カウンセラーが得意なニュアンスのクライエントだろうが、話していて疲れるクライエントだろうが、そこに専門的な理解を見出し、対応を取っていくことが重要です。
そもそも、「得意と感じるクライエント」が存在する理由を探索することは自己理解を深める上で大切ですし、「疲れるクライエント」に対してはその疲れの背景を理解することでクライエントの内情を把握しやすくなります。
「得意・不得意」「相性の良し悪し」はカウンセリングに資する情報として活用されるものなんです。

こうした専門的な理解を客観的に行う、その意欲を持ち続けるということが「プロ」と「自称カウンセラー」の違いかもしれません。
さて、では「プロ」になるためにも(なっている人も自分の鍛錬のために)、本問のような防衛機制もしっかりと理解しておきましょう。

A.Mはある回の面接で、自分がこれまで避けてきた課題に直面化させられた。次の回、Mは面接をキャンセルし、その直後、新たな面接を求めて別の相談機関を訪れた。

まずは「直面化」という専門用語を把握していることが大切です。
これはマスターソンが重視した技法の一つで、クライエントに心理的課題に向き合わせるという認識で使われることが多いです。
しかし、これをそのままの意味で捉えてしまうと実践ではうまくいきません。

「直面化」の目的として「その人の心理的課題、それによって生じている認識を揺らす」ということが挙げられます。
その人の認識を揺らし、いったん崩れて再構築される過程で、その人の心理的課題がやり取りされるわけですね。

面接場面で考えてみましょう。
クライエントがある心理的課題を前提とした認識を伝えてきたとします。
そのときに「それはあなたの○○という心理的課題からきているのだ」と伝えることを直面化と考える人が多いのですが、それだけではなく、「そういう認識以外にも、別の認識もあるよ」と何らかの形で伝えることも「直面化」となるわけです。
具体的には「不思議に思う」「頷きが少なくなる」「クライエントの言葉に対して、うーんと考える様子を見せる」などが、実は直面化として機能するわけです。

臨床実践においては、こうした「マイルドな直面化」がとっても大切です。
正面衝突のような直面化が重要な場面もありますし、それを恐れていては臨床家として未熟な面を残しているということになるかもしれませんけど、上手な人は「マイルドな直面化」を適切に使っているような気がしていますね。

さて、本選択肢では直面化を「させられた」ために、他の機関を探したクライエントの行動が描かれています。
直面化によって生じた心理的負担を「面接室外」で「行動」で表現したわけです。
こういう現象を専門用語で「アクティング・アウト」と呼びます。

ちなみに、心理的負担を「面接室内」で「行動」で表現することを、「アクティング・イン」と呼びます。
カウンセラーにむかついたときに、飛んできた虫をつぶす等ですかね。
本選択肢の内容は「面接室外」で行われているので、アクティング・アウトと捉えるのが適切ですね。

B.Nは面接の最中に「先生たち心理の人は、ただ、うなずいているだけじゃないか。クライエントのことなんて本当はどうでもいいんだろう」とまくしたて始めた。それを聞いているうちに、臨床心理士は次第に不快な気持ちになり、距離を取りたい感じが抑えられなくなってきた。

本選択肢で起こっていることを簡素化して表現すれば、「クライエントがネガティブな感情をぶつけてきて、カウンセラーがネガティブな感情を抱くようになっている」ということになります。
もちろん、嫌な言葉を投げかけられたら、不快になるし距離を取りたくもなるでしょう。
ですが、カウンセリングという枠組みでは、きちんと専門的な視点でこのコミュニケーションを理解することが重要です。

「どうでもいいんだろう」と言われて、元々はそんな気持ちはなかったのに「距離を取りたい感じ」が抑えられなくなっている。
言わば、クライエントはカウンセラーの内側に言ったとおり(どうでもいいんだろう)の感情を芽生えさせているということです。
こういう時には、「クライエントの感情を投影され、その感情を引き出されて、クライエントと同じ状態(同一化)になっている」と考えることが重要になります。

仕組みとしては、元々クライエントが「カウンセラーと話していて離れたい気持ちがあった」「しかし、その不穏感情を抱えておけるだけの精神的ゆとりがない」「抱えていると辛いので、その感情を「目の前の人のものである」と投影する」ということが言えます。
しかし、せっかく自分の不穏感情を投影しても、カウンセラーから向けられてくるメッセージに矛盾がある(つまりカウンセラーは離れたいと思ってない)と、その矛盾によって不穏感情が跳ね返されて自分に戻ってくるような苦しさが生じます。

この状態は不快なので、クライエントは無自覚ですが「本当にカウンセラーが離れたい気持ちを抱くように仕向ける」という関わりをしてきます。
だから、文句を言ってカウンセラーが離れたい気持ちを抱くように至ったわけです。

こういう一連の現象を専門用語で「投影同一視」と呼びます。
この現象は別に病的なものではありません。
「心理的負担を抱えておく力が未熟である」「他者との境界線が曖昧である」という特徴があれば、誰にでも生じうるものです。

うちの子どもがちっちゃい頃、「今日はもうDVD観ちゃダメよ」と怒らずに伝えました。
当然、うちの子は泣いて怒り、私に対して「お父さん、怒っちゃダメでしょ!」と叩いてきました。
この現象も「投影性同一視」です。
怒ったのは子どもですが、その怒りを抱えておくだけの精神的器が未熟だったため、それを「目の前の父親が持っている感情である」と認識したわけです。
そして「叩く」という行為を伴うことで、「本当に父親を怒らせる」という関わりをやってきたわけですね。

というわけで、本選択肢の内容は投影性同一視であると判断できます。

C.中学校までは優等生であったOは、進学校である高校に入学後、成績が急落したことを契機に不登校になり、ひきこもりがちの生活を送るようになった。Oは面接の中で、延々と日本の教育制度の矛盾について繰り返し批判を述べた。一方、日常生活にはまったく変化がなかった。

本選択肢の現象は不登校やひきこもり事例でよく見られるものとして、論文や教科書にも載っているようなレベルのものだろうと思います。
クライエントは不登校→ひきこもりという流れがあり、おそらくは自分の現状に心理的負担を感じていることが予測されます。
「なぜクライエントは自分の現状に心理的負担を感じていると読み取れるのか?」という質問に答えることが、本選択肢の解説になります。

クライエントはひきこもりがちの生活を送り、高校に通っていない状態です。
そんな中で「面接の中で、延々と日本の教育制度の矛盾について繰り返し批判」しているんですね。
つまり「自分が高校に通っていないのは、日本の教育制度に矛盾があるからだ」と明言はしていなくても表現しているわけです。
ですが、それは「高校に通えていないことを知的に後付けしている」状態であるのは理解できると思います。
防衛機制の「知性化」を使うことで、高校に通えていないという心理的負担に理由をひねり出して、心理的負担の軽減を狙っているということですね。

要は「言い訳」しているわけですが、知性化の使い手の知的能力の多寡によって、その精錬度が変わってきます。
知的能力が高いと「もっともらしい」感じの言い訳になりますし、それほどでもないと「言い訳するな!」と言われちゃうようなレベルになります。

「防衛機制(言い訳)」と「現実的な問題の指摘」は似ていますが、そのクライエントが語った内容の改善に努めているかどうかが、一つの鑑別点でしょうね。
防衛機制を使っている場合には、現実を変える努力をしているように見えないことが多いです。
現実的な問題の指摘の場合は、その改善に努めると言うことです(「太ってて恥ずかしいから学校に行きたくない」と言っている子が、実際にダイエットしているなど)。
ただし、上記の鑑別はすべての事例で当てはまるわけではないのでご注意を。

というわけで、本選択肢では「知性化」を使っていると判断できます。

D.空虚感、無力感を来談理由として面接に訪れたPは、面接が進んでいく中で「なぜか、わからないのですが、先生と話しているうちに、先生も実は孤独を抱え、人とのかかわりを強く求めているのではないか、という気がしてきました」と語った。

投影は「自分が持っているとこころ(専門的には自我)が揺さぶられるような感情・欲求を相手が持っていると思うこと」ですから、本選択肢の内容は投影と言ってよいでしょう。
「投」という字が使われているのは、文字通り「自分が持てない感情・欲求を投げつける」からです。
「影」という字には、目の前にいる人の影の部分に「自分が持てない感情・欲求」があると認識するということ、という捉え方でいいのではないかなと思っています。

投影という現象を支援に活かす場合、「投影」された感情・欲求は100%クライエントのものであるとは見なさない方が良いということが大切です(つまり、カウンセラーの内にその感情はないと見なすことは適切ではない)。
「クライエントは、目の前の私(カウンセラー)の内面に、投げつけてきた感情・欲求のニュアンスを感じ取ったからこそ、その感情を投げつけてきた(投影してきた)のだ」という理解をするようにしましょう。
なぜこのような理解が大切なのか?

投影をしてくる人は、自分の受け容れられない感情・欲求を「切り離して」「投げつけている」ということですから、自分の内側にそういう欲求があることを良しとしていないわけですね。
こうして投げつけてきた感情・欲求に対して、「そんな感情は持っていません」と対応するのは下策だろうと思います。
なぜなら、「認められなかろうが、その感情・欲求はクライエントのものであることに変わりはない」からです。
クライエント自身が認められない感情・欲求が、クライエントの問題を形作っている場合が多いですから、それを認めないというカウンセラーの姿勢はそれ自体が支援になりにくいだろうと言えます(カウンセラーが認めてくれてない感情・欲求は出しづらい、ということ)。

本選択肢に沿って述べるのであれば、「私は孤独ではありませんよ」と伝えることがそれほど適切ではなかろうと思うのです。
それよりも、カウンセラー自身が自分の内に孤独を感じる部分は確かにあるということ(人間には多かれ少なかれありますよね)、だからクライエントが言っていることは間違いではないこと、よく孤独を感じた内容を聞いた上でそれをカウンセラーの内面とすりあわせること、そうした作業を通してクライエント自身が自らの孤独感に気づき、受け容れられるようにすること、が大切です。

クライエントとの関係で生じるあらゆること、特にそれが面接の場で語られている場合は、その関係で生じたことを「目の前のクライエントとの関係に役立てる」ことが大切です。
本選択肢のように投影を向けられたなら、それをカウンセラーとの関係性で生じたことと見なし、それをクライエントとのやり取りに落とし込んでいく作業がカウンセリングと言えるでしょう。

さて、細かい話になりますが、本選択肢のクライエントの言葉に聡くなることが大切です。
「先生も実は孤独を抱え」の部分の、「も」が非常に重要です。
クライエントはこの「も」の一文字で、「私は自分が孤独であることを認めつつあるんですよ」「だけど、それを丸っと受け容れると大変だから、カウンセラーに投影しているんですよ」ということを伝えてきています(無自覚的とは言え)。
カウンセリングにおいて、接続詞や語尾に気を配ることができるかどうかで、クライエントの内面の読み取りの精度がずいぶん変わってきます。
ちなみに、クライエントの言葉に聡くなるためのトレーニングは簡単で、カウンセラーが普段から自分の言葉に細やかになるということに尽きます。

長くなりましたが、本選択肢の発言の背景には「投影」の防衛機制があると見て相違ないでしょう。
ちなみに投影を多用する人は麻雀が弱いですね。
自分が強い手を張っているときには「相手も強い手を張っている」と思ってオリやすく、自分が弱い手の時には「相手も弱い手だろう」と思ってガンガン攻めてくるので討ち取られやすいのです。

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