インテーク面接に関する記述に対し、適否を判断する問題となっています。
毎度毎度言っていることですが、選択肢ごとに○や×の理由があります。
それを説明できることが重要で、決して「そりゃそうでしょ」「そんなの常識でしょ」などと曖昧な納得の仕方をしないように気をつけましょう。
本問の各選択肢は、見立てを行うにあたり欠かせない知見を背景にして設定されています。
非常に基本的なことではありますが、それ故に実践することが困難です。
臨床場面では常に意識しながら実践に励むことで、徐々に自分の身体に染み込ませていくことになるでしょう。
A.質問による聞き取りに加え、観察から得られる視覚的情報も有用である。
インテークに限らず、クライエントの情報はさまざまな水準で獲得していく必要があります。
本選択肢前半の「質問による聞き取り」は言語的情報ということになるでしょうか。
そしてクライエントが表現する情報には、他にも行動的情報や生理的情報などが存在します。
行動的情報ではどういった振る舞いをしているのか、例えば、荷物を横に置くか膝に置くか、腕組みをするかしないか等々などです。
生理的情報になると、発汗、涙、紅潮等々などになりますね。
さて、大切なのは情報の優先度・重要度に関する理解です。
仮に上記にある「言語的情報・行動的情報・生理的情報」を重みづけしていくと、「言語的情報<行動的情報<生理的情報」となります。
その基準は簡単で、生理的情報になればなるほどクライエント本人に操作しがたいという理由です。
ですから、いくら言語として「大丈夫です」と語っていたとしても、体全体に力がなく、青白い顔をしており、こちらの問いかけへの反応が遅いなどが見られれば、状態が良くないと見なすほうが適切なわけです。
また、例えば「笑う」という行動があったとしても、鼻から上が笑った際に動いていなければ「顔を作っている」という可能性も考慮に入れる必要があります。
こうした情報の優先度・重要度については、神田橋先生の「精神科診断面接のコツ」に詳しいので、興味のある方はご一読ください(支援者を志すのであれば、この本はmustですよ)。
上記のとおり、「質問による聞き取り」という言語的情報だけでなく、「観察から得られる視覚的情報」が有用であるのは疑う余地はありませんね。
以上より、本選択肢は○と判断できます。
B.対象が小学生の場合は、その保護者から先に話を聞く。
皆さんは支援の対象が保育園児や小学生の時に、安易に下の名前で「〇〇ちゃん」と呼んでいませんか?
私はそういう対応は避けた方が良いと思ってますし、せねばならない状況だった時には何が失われるのかを考えつつ行うことが大切と思っています。
なぜこういう対応が良くないと思うのかというと、その保育園児や小学生を「子ども扱いしている」「自分よりも未熟な存在だと見なしている」という姿勢が漏れ出ているように感じるからです。
また、目の前の人を「子ども扱い」することで、その人が実際よりも「子ども」のように振る舞ってしまうという懸念もあります。
この考え方は、本選択肢の判断のためにも用いられます。
支援の対象が小学生であっても、その人を「問題の渦中にいる人」と捉えて、最初にやり取りしようとすることが大切です。
それがクライエントを一人の人間として捉え、尊重するというカウンセラーの姿勢を示すことになります。
お医者さんが、小学生に質問した時に後ろにいる母親が答えたら母親を叱りつけるという話を聞いたことがありますが、これも同じような考えが背景にあるのかな、なんて思ったり。
もちろん、小学生では陳述能力等に問題があるという意見はあるでしょうが、それを補完するために我々はさまざまな知識や技術を磨いているのです。
小学生に限らずですがクライエントの陳述能力の多寡は、クライエントを尊重するという前提を崩す理由にはなりません。
ただし、上記の内容は「こういう姿勢でクライエントに関わる」ことが重要であって、必ずそうせねばならないといった類の話ではありません。
一対一を嫌がる小学生もいるでしょうし、保護者と同席の方が話しやすいという場合もあるでしょう。
そういう形式になったとしても、何も問題はありません。
結果として「本人から最初に話を聞く」ことができないということは少なからずあるでしょうが、その選択を常に頭に入れておくこと、その背景にある一個の人間として見なすという精神を持ち続けることが大切であるということです。
以上より、本選択肢は×と判断できます。
C.客観的情報を得るために、常に何らかの心理検査を行う。
客観的情報は重要であり、心理検査の結果があることで可能な支援もあるでしょう。
しかし、心に留めておかねばならないのは、心理検査がどのようにして情報を引き出すのか、ということに関する基本的な理解です。
心理検査に限らずですが、アセスメント全般は「刺激を与えて、その反応を見ることで、クライエントの状態に関する情報を取る」のです。
重要なのは「刺激を与えて」という点で、その刺激は良くも悪くもクライエントを揺さぶるものです。
例えば、ロールシャッハテストを統合失調症者に実施しにくい状況・病状があるのは、ロールシャッハ図版の刺激がクライエントの自我を揺さぶるため、といった説明がなされていますね。
心理検査はクライエントに刺激を加えるということ、しかもそれを自覚的に行うのですから、そのクライエントの状況や病状を踏まえて実施の適否をクライエントごとに考えるのが正着だと言えるでしょう。
ですから、「常に何らかの心理検査を行う」ということは、上記の刺激を与えるということへの無頓着さが感じられ、あまり適切なこととは思えません。
上記に対して「安全性の高い検査であれば良いのではないか」という意見があるかもしれませんね。
しかし、その機関が「来談者には全員に何らかの心理検査を行う」と定めていたとしても、それに同意しないクライエントもいるでしょうし、そうした一律の対応に拒否感を覚えるクライエントもいるでしょう。
カウンセリングは生身の人間を対象に行う営みですから、クライエントごとに検査の適否、実施するのであれば行う検査の選定、実施しないなら客観的情報の補完、などを考えていくことが肝要となりますね。
例えば、ある特定の問題だけを対象とした専門機関であれば、スクリーニングのために何らかの検査を行うと定めている場合はあり得ます。
ですが、それはあくまでも例外的状況と捉えることが大切ですし、クライエントの状況によってはやはり実施できないということも頭に入れておくことが大切でしょう。
以上より、本選択肢は×と判断できます。
D.明らかに現実と異なる訴えについても話を聞く。
まず、「外的現実」と「心的現実」という言葉があります。
前者は文字通り客観的な事実関係になり、後者は「心の中で現実となっていること」ということになるでしょうか。
ちなみに、心的現実は単に思い込みとかそういうレベルだけを指す話ではありません。
例えば、子どもの抱く母親イメージは、現実とは異なることがずいぶんありますね。
虐待された子どもの場合、過度にプラスのイメージばかりが示されることもあります(その機序はここでは省きますが)。
「心的現実」は、その状況や個人の認知の仕方等に影響を受けながら成立するものと言えますね。
さて、カウンセリングで重要なのは「外的現実」だけではありません(心的現実に偏って、外的現実を疎かにするのはもっての外ですが)。
その客観的現実をクライエントがどのように捉えているのか、すなわち「心的現実」についても捉えていくことが重要になります。
インテークでは、この「外的現実」と「心的現実」がどのくらい合致しているのかを評価するという作業も行い、このことを「現実検討力」と呼んだりもします。
クライエントによっては、この間のズレを修正していくということが目標になることもあるでしょうね。
いずれにせよ、「外的現実」と「心的現実」の両方を可能な限り把握し、その上でクライエントの心理的課題を見立てていくということが重要になります。
明らかに現実と異なる訴えとして浮かぶのが「妄想」です。
妄想がどのような機序によって生じるかは領域を超えてさまざまな意見があるので言及はしませんが、いま目の前にある現実とは異なる訴えであるとは言えるでしょう(そして、それが論理的説明で修正不可能であるというのも妄想と判断する要件ですね)。
中井久夫先生は妄想に対して「知りもしないことを間違いと断定するのは誤りであり、わかりもしないことをわかったように聞くのも不誠実」という意味合いのことをおっしゃっています。
その上で「不思議だね」という声掛けが重要であると述べておられますね。
こうした「心的現実」と「外的現実」を共に尊重するような言葉かけ、その言葉の背景にある精神が大切です。
以上より、本選択肢は〇と判断できます。