臨床心理士 バウムテスト:H19-40

本問はバウムテストの問題ではありますが、解くためには不登校という現象の理解、心理臨床で暗黙の了解とされている種々の考え方について理解しておくことが求められています。
その辺も交えて解説していきましょう。

 C君は、入学したばかりの中学校で、クラスになじめず不登校となり、ある相談室に来談した。初回面接で臨床心理士が心理検査を提案すると「ぜひやりたい」と興味を示し、2回目に実施することになった。ところが、まず最初にバウム・テストをしようとしたところ、「どうしても描けない」と言い、結局、心理検査の導入はできなかった。3回目を約束していた日の朝、母親から電話があり、「体調が悪いので休む」とのこと。その後、面接は中断になった。担当者は、心理検査の導入と面接中断の関連について、次のような推論を行った。

この問題、要は「クライエントが検査をすると言ったのに、結局、導入できなかったこと」「その後、キャンセルになり、結局は中断になったこと」という事態についてどう理解するかという問題です。
カウンセリングにおける独自な文化を知っていないと理解しがたい選択肢に含まれているので、その辺の文化も併せて説明していくことにしましょう。

a.初回で「やりたい」と答えたのは、相手の期待に合わせようとする傾向であった。

こちらは不登校児の特徴について理解していることによって解きやすくなります。
不登校児には様々な特徴があり、その特徴の偏りによってタイプ分けをすることもできますから、不登校児と一括りにすることは好ましいやり方ではありません。
ですが、多くの不登校児が有している特徴については、やはり理解しておくことが臨床実践では大切と言えるでしょうから、まずはその辺の説明を行っていきます。

近年の不登校児には減ってはきていますが、かつてから「優等生の息切れ型」と称されるような不登校児がおります。
正確には「減っている」のではなく、別の特徴を備えた不登校児が増えてきた、「優等生の息切れ型」に別の特徴が入り込んできた、ということになりますが、その辺の話はまた別の機会に。
「優等生の息切れ型」の不登校児は、幼少期から「いい子」「手がかからない子」という生育歴が目立ち、成績優秀で模範的な存在として生きてきた場合が多いです。

彼らの中核的な問題は何なのか?
それをしっかりと考えておくことが大切です。
これは私見ですが、私は彼らの中核的な心理的課題を以下のように捉えています。
彼らは確かに「いい子」「手がかからない子」として生きてきた歴史があります。
そして、「いい子」「手がかからない子」として生きることを可能にするためには、いくつかの才能が必要です。

まずは「空気を読む才能」です。
「いい子」「手がかからない子」として生きるには、周囲が求めている在り様についてしっかりと把握することが求められます。
そのためには周囲の細かな言動、社会的な風潮から「どういった姿であることが求められているか」を読み取る力、すなわち「空気を読む才能」が重要になってきます。

ちなみに、よく発達障害児に「空気を読む才能」がないとする知見を耳にしますが、これは誤りです。
発達的な課題の有無にかかわらず、「養育者から置き去りにされないための空気を読む才能」は程度の差はあれ有しているとみなすのが適切です。
彼らも養育者の微妙な変化にはきちんと気づき、反応します(反応の仕方が変わっているために、養育者の変化への反応とは気づかれないことも多い)。
ここで述べる「空気を読む才能」と、暗黙のルールを読み取るなどの力とは別物と考える必要があります。

さて、不登校児が有しているのは「空気を読む才能」だけではありません。
せっかく空気を読んでも、自分の我を優先させることも多いし、本来はこちらの方が精神健康は保たれます。
しかし、多くの不登校児は空気を読んで「自分を抑える才能」が強い場合が多いようです。
自分の感情や内面からの突き上げを抑え、周囲から求められている在り様でいようとする。
その様子が「いい子」「手がかからない子」として認識されるというわけです。

誤解してはならないのが、この「空気を読む才能」も「自分を抑える才能」も社会的な人間であるためには欠かせないものであるということです。
社会で生きていくうえで大切な才能ではありますが、やはり程度が問題なのです。

それ自体は問題がない「空気を読む才能」と「自分を抑える才能」ですが、これが幼少期より強く存在することで「自分の思いに気づきにくくなる」という状態が生じます(自分の思いを抑え込むという精神生活が日常になっているため)。
この「自分の思いに気づきにくい」という状態は精神健康において良くないものです。
例えば、仕事でも学校でも「行きたくない」という思いはあって当然ですが、不登校児の多くはそういった社会的に受け入れられないような思いを押し殺して生きてきたため、それが生じても実感として持つことが難しい場合が多いのです。

10歳前後を境に不登校がぐっと増えるのは、こうした「自分の思いに気づきにくい」という特徴と関連があります。
10歳前後になると、それまでの借り物の価値観を自分なりに作り替え、未熟ながらも自分なりの価値観を構築して、それを信頼する周囲にぶつけるようになります。
これが一般的には「反抗期」と呼ばれている現象です。
このように10歳前後は、自分なりの価値観・自分なりの考えというのが、自分の内側から湧いてくるのが当然の時期と言えるのですが、「自分の思いと気づきにくい」という特徴を持つ不登校児の場合、気づかないうちに内的緊張を高めていきます。
要は、これまでの精神生活のパターンとして社会的に受け容れられないような思いを抑え込む傾向があるが、内面から様々な突き上げがある発達段階であるという矛盾する傾向があることになるということですね。
このことは子どもたちの幼い精神世界に、強い緊張状態を招くことになります。

私はこうした一連の流れが不登校という事態とかなり関係が深いと思っています。
このストーリーの正誤については、個々の事例によっては反証もあり得るでしょう。
ですが、多くの不登校児が「自分の内にある自然ではあるが、社会的には受け入れられにくい思いを抑え込んできた歴史を持つ」という点については、頷首かれる方も多いでしょう。

さて、問題に戻りましょう。
本選択肢では、「初回面接で臨床心理士が心理検査を提案すると「ぜひやりたい」と興味を示し」というのが、クライエントがカウンセラーに忖度したのはないか、と考えているわけです。
クライエントは検査を受けることに否定的な思いがあったにも関わらず、それを表現せず(もしくは自覚できず)、カウンセラーの望む姿でいようという特徴(上述の「空気を読む才能」が出た)が前面に出た可能性があるということであり、これはかなりあり得る話だろうと言えます。

ある程度以上のカウンセラーであれば、不登校児にこうした特徴(空気を読み、自分を抑え、人に合わせる)があることを実感や知的に理解していることが多く、「忖度しなくても大丈夫な関係の構築」「カウンセラーは特定の社会的な姿を望んでいるのではないということがクライエントに伝わること」「断ることができる関係の構築」を目標に置く場合が多いだろうと思います。
端的に言えば、クライエントは「嫌と言えない人」である可能性が高いわけです。
そういうクライエントに対して、例え専門的には適切であろうとも、何かを提案するというアプローチはもっと慎重である必要があります。
特に、カウンセラーが会っていて「年齢以上に疎通性が高いと感じるクライエント」であるほど、何かを提案するのは保留にすることが大切です。
社会的に好ましい特徴であっても、それがクライエントの問題を生じさせている可能性があることを常に忘れてはいけません。

もう一つ重要なことを。
カウンセリングにおける(カウンセリングに限った話ではないけど)、「言葉」と「行動」の優先度について理解しておくことが重要になります。
クライエントが発した「ぜひやりたい」という「言葉」と、バウムテストを描けなかった・結局中断になったという「行動」をどう重みづけしていくか、ということですね。
クライエントを見立てていく上で、重要な所見になるのは「生理>行動>言葉」の順番です。
端的な言い方をすれば「嘘をつけない順番」ということですね。

本事例で言えば、「ぜひやりたい」という「言葉」よりも、バウムテストを描けなかった・結局来中断になったという「行動」を重視した見立てが重要になるということです。
つまり、クライエントの「描けなかった・面接に来なかった」という行動の背景にあるだろう、検査(やその延長線上にあるカウンセリング自体)に対して拒否的な思いを有していると見立てることが大切です。

そして、この言動の不一致は、そのままこのクライエントの支援方針にもつながっていきます。
すなわち、「検査を受けると言ったのに、拒否している」という有り様と、「学校に行こうとしているけど、行けていない」という事態が、構造的に同じであるという理解です。
いずれも、クライエントが拒否的な思いを有しているのに、それを表現できないこと、表現できないという状態を構築してきた「何か」があること、それは何なのか、と言うことを明らかにしつつ、その辺が動き出すようなアプローチを仕立てていくことが求められると言うことです。

本選択肢が「見立てとしてあり得る」という理由は、上記の通りとなります。
不登校児の特徴をしっかりと理解していること、見立てにおける言葉と行動の価値づけなどをクレバーに理解していることが重要な問題と言えるでしょう。
以上より、選択肢aはあり得る内容と言えます。

b.2回目の開始直後にバウム・テストを行ったので緊張してしまった。

まず、この選択肢に対してエビデンスのある解説は不可能です。
「2回目の開始直後に心理検査を行うとクライエントは緊張しやすい」というエビデンスはないでしょう(あるのかもしれないけど、少なくとも私は知りません)。
ですから、この選択肢は理論的にというよりも、常識的な人情を基盤に考えていくことになろうかと思います。

まずカウンセラーとクライエントは、まだ会って2回目ということになります。
先述した不登校児の特徴も踏まえると、「学校に行くことへの不穏感情」を抱えているだろうという理解と共に、「相談室に来ることへの不穏感情」も存在するのではという推測が専門家として重要になりますね。
学校に行けていないという状況について相談する場に不登校児が訪れるわけですから、多少なりとも葛藤的であろうと見なすが自然な理解と言えましょう。
しかも、「相談室に来ることへの不穏感情」は表には出ない形で有されているだろうと考えるのが妥当です。

上記の通り、クライエントは意識的か無意識的かの違いは多少あるとはいえ、相談室は緊張感のある場であるという理解は大切ですね。
続いては、そうした緊張感のある場において「2回目の」「開始直後に」「バウム・テストを行う」ということの是非を考えてみましょう。

余談ですが、私は特に初回でクライエントとお会いするときには玄関までクライエントを迎えに行くようにしています。
決して相談室で待機してクライエントが来るのを待つということはしない。
想像してみるとわかりやすいのですが、ホラー映画などの恐怖心を煽るカメラワークとして、主人公目線でドアを開けるようなものがあると思います。
ああいうふうに新しい場所に入っていくという状況は緊張感を生むのです。
ですから、こちらから迎えにいくことで、そうした緊張感を防ぐことが可能です。

クライエントが抱いている緊張感、カウンセリングという場への不安な感情は当然のものではありますが、上記のような非特異的な工夫によって、それらをずいぶん軽減することができます。
これを軽減せずにカウンセリングに入ることで、初めの10分くらいをその緊張感を緩めることに使うことになり、長期的に見れば大変な損失になってしまいます。

何が言いたいのかというと、クライエントが慣れないカウンセリングの場に臨むということは、それなりに緊張するのが自然であるということ、その緊張感はカウンセリングの時間帯の最初が強いだろうということ、ですね。
本事例では、そういう緊張感が最も強いタイミングで心理検査の導入を行っているわけです。

心理検査自体が緊張感を生むというお話は次の選択肢の解説に譲るとして、明らかに緊張感が高いだろうと予想される場面で心理検査を実施するのは、その結果の信頼性の面から考えても、その実施は適切とは思えません。
もちろん、緊張感のある状況で心理検査を行うことで得られる情報もあるのでしょうけど、それはクライエントに与えるプレッシャーと引き換えにしても得たい情報であるか、その情報を得ることで結果としてより大きな利益をクライエントにもたらすことができるという公算が高いか、という視点と天秤にかけて考える必要があるでしょう。
現時点の事例の情報からは、そこまでの必要性を感じないというのが私の印象ですね。

以上より、選択肢bもあり得る内容と言えるでしょう。

c.「心理検査」に対して、不安や恐怖を感じていた。

心理検査に限らずですが、クライエントから情報を得るという行為は、クライエントに心理的な圧迫感を与えることになります。
もちろん、それが悪いというのではなく、得られた情報によってクライエントが受益をできれば良いのです。

さて、考えておかねばならないのが、得られる情報が大きい手法ほど、一般にクライエントに与えるプレッシャーが大きいということです。
ロールシャッハなどの投影法が、精神病圏のある種のクライエントには実施の適否を慎重に判断する必要があるのはそのためです。
得られる情報が大きい手法には「曖昧な刺激を用いている」という特徴があります。
投影法はその最たるものであり、バウムテストもそのひとつですよね。

先述の通り、これは心理検査に限ったことではありません。
クライエントに向ける質問の形式(5W1H)でも同様です。
「いつ」「誰が」「どっちが」という質問は答えやすい反面、得られる情報が少なめです。
一方「なぜ」「どうやって」という質問、特に「なぜ」という質問は、答えにくい反面、得られる情報が豊かになります。
この質問への答えやすさ、答えにくさが、クライエントに与えるプレッシャーの強弱と比例するわけです(当然、答えにくい方が与えるプレッシャーは大きい)。

神田橋先生は「いつ、誰が、どっちが、などの質問を工夫することで、「なぜ」という質問をした時と同様の情報を得るようにすることが、カウンセラーの質問の力を高める」といった趣旨の主張をされていますし、その通りだと思います。
カウンセラーを目指す人は、「なぜ」という質問を封印し、それ以外の質問の仕方を工夫することで、その資質向上に寄与することになるでしょう。

さて、本事例に戻ると、心理検査はそれなりに心理的プレッシャーを与えるというのは持っておいて良い認識だと言えるでしょう。
特にカウンセラーに対して慣れていない状況で、心理検査の必要性に対するきちんとした理解がない状況では、「自分の情報が相手に筒抜けになる」という不安・緊張を生む可能性があるということも理解しておきたいところです。
よって、クライエントが心理検査に対して不安や恐怖を感じていたということはあり得る見解だと言えるでしょう。
以上より、選択肢cはあり得る内容と言えるでしょう。

d.心理療法を担当していない別のスタッフが心理検査を担当していたら、抵抗が少なかった。

まずこの選択肢の背景にある「カウンセリングの常識」について説明しましょう。
カウンセリング、特に臨床心理士のトレーニングの中では、「査定と面接の担当者を分ける」という考え方が言われてきました。
それは、面接担当者が査定を行うことで、関係性という因子が検査内容に影響を受けて、検査結果の信頼性が揺らぐという理由が主なところです。

これは一部の状況では正しいと言えるでしょう。
例えば、発達障害児に知能検査を行う場合、面接担当者と別の担当者が行う方が純粋なデータを得ることができるでしょう。

しかし、以下のような状況もあります。
大学附属のカウンセリングセンターでは、「インテーク面接担当者と、その後の担当者を分ける」というやり方をしている場合があります。
これは、インテーク面接(査定面接)にそれなりの習熟が求められるため、経験豊富なカウンセラーが行い、面接担当者はその見立てに応じた人をつける、ということです。
私はこのやり方には反対の立場です。
なぜならこの方式は、「カウンセラー志望の学生を担当にするための仕組み」というカウンセラー側の都合が大きいからです。
クライエントの心理的揺らぎが大きいほど、担当者の変更はクライエントの負担となります。
100%クライエントファーストで考えるのであれば、本来は避けるべき仕組みでしょう。
もちろん、私も次世代のカウンセラーを育てていくことが必要なのはわかっているので、絶対にダメとは言いませんが、「カウンセリングの申し込みがあった段階で、ある程度クライエントの状態像を見立てて担当者をつける」くらいはやって良いのではという考えを昔から持っています。

いずれにせよ、本選択肢は、こうしたカウンセリングの文化・常識を踏まえて設定されています。
さて、次は、このクライエントが「検査担当者と面接担当者を分ければ大丈夫だったのか?」という点の検証が必要ですね。

他の選択肢でも述べている通り、不登校児に見られる「合わせる」という特徴、まだ2回目の面接という慣れていない状況、などクライエントがバウムテストをできなかった理由は他にもありそうです。
「検査担当者と面接担当者を分ける」という仕組みの要因に帰すのではなく、当該カウンセラーができる工夫をまずは考えていくことが大切ですね。
そもそも、多くの相談機関で「検査担当者と面接担当者を分ける」という実践は不可能です。
私がこの仕組みにあまり賛成できないのは、教育と実践との乖離がこの仕組みには潜んでいるという理由もあります。

以上のように、担当者を分けたからと言ってクライエントの抵抗が少ないとは言い切れないと考えられます。
よって、選択肢dは誤った内容と言えるでしょう。

e.バウム・テストが「描けない」ことについて、話し合うことは大切である。

これはカウンセリングという営みの暗黙のルールを知っておくと理解しやすい選択肢です。
クライエントは様々な思いを抱え、しかしそれを真っ直ぐ表現することができないでいることが少なくありませんね(表現しすぎて困っているクライエントもいるでしょうけど、そういうクライエントも「本当に表現したいこと」からずれている場合が多い)。
まっすぐ自分の思いを表現できない場合、それが種々の行動となって現れることがあります。
小さい子どもの反応を見ていると、それがよくわかりますね。

そうした「自分の思いをまっすぐ出せず、別の行動で表現している」ものが、実はクライエントの問題行動として周囲から認識されていることも多いのです。
伝統的なカウンセリングの理論では、こうした「行動」をいったん止めて、その奥にあるものを認識・表現することによって改善が進むと考えます。
もちろんこれが可能なクライエントは限られるという面はあるでしょうけど、やはり有用な視点だと言って良いでしょう。

つまりカウンセリングという営みには「いろんな行動をいったん止めて、その奥にあるものを話し合う中で見ていこうね」という暗黙の約束事があるわけです。
よくカウンセラーがいう「アクティング・アウト」という概念があります。
これは、「本来、言語的に表現されていれば何らかの展開があっただろう事柄を、カウンセリング以外で行動で表現してしまったために、それをカウンセリングの場で扱うことができなくなった」という現象を指した概念です。
カウンセリングにおいてアクティング・アウトが良いものと見なされないのは、こう言った事情があるわけです。
ただし、それはあくまでもカウンセリングという枠組みから見て好ましくないだけであって、現実世界では当たり前のことであるという常識的な認識もカウンセラーには必要です。
カウンセラーの行いがクライエントのアクティング・アウトを招いている場合も少なくないので、それを責めるような言動をカウンセラーは取るべきではないと認識しておきましょう。

さて、事例に戻しますと、「描けない」というのはクライエントの「行動」ですね。
好ましいのが、カウンセリング外で行動として表出される「アクティング・アウト」と違って、カウンセリングの中で「描けない」と表現されている点です。
この「描けなさ」の背景に何があるのかを、カウンセラーとクライエントの共同作業として探っていく、もしくは探っていく意欲を高めることが、カウンセリングという営みなのです。
クライエントから「描けない」という信頼に基づいた表明(ネガティブな表現がカウンセリングでなされるのは、「それを表現しても捨てられない」という最小限の信頼がある証拠です)がなされているわけですから、その点をテーマとしてやりとりを重ねるのがオーソドックスな手法と言えるでしょう。

以上より、選択肢eはあり得る内容と言えるでしょう。

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