心理的アセスメントに関する問題です。
かなり基本的な内容ですから、感覚的にも解きやすいと思います。
専門家ですから、しっかりと正誤判断の理由を説明できるようにしておきましょう。
問94 心理的アセスメントに関する説明として、最も適切なものを1つ選べ。
① 心理的側面だけでなく、環境を評価することも重要である。
② クライエントが物語を作る心理検査全般をナラティブ・アプローチという。
③ 医師の診断補助として行う際は、客観的な心理検査のデータだけを医師に伝える。
④ 目的は、初期に援助方針を立てることであり、終結の判断材料とすることは含まない。
⑤ テスト・バッテリーでは、検査者が一部のテストに習熟していなくても、他のテストによって補完できる。
関連する過去問
解答のポイント
検査の基本的理解、運用の仕方などに関する理解があること。
選択肢の解説
① 心理的側面だけでなく、環境を評価することも重要である。
こちらは当然適切な内容と言えるのですが、その根拠をどこに持っていくかで工夫してみましょう。
一般的には生物心理社会モデルを根拠に解いていけば問題ないと思います。
生物心理社会モデルは、健康状態を生物・心理・社会的な要因のシステムとして包括的に捉えようとする考え方を基本とします。
人間の疾患(disease)あるいは病い(illness)を、病因→疾患という直線的な因果関係ではなく、生物・心理・社会的な要因のシステムとして捉えようという提言ですから、このモデルに基づけば「社会的な要因」である環境を評価することも重要になってきます。
こちらをもう少し具体的に述べていこうと思います。
例えば、PTSDが生じるような惨事に出会ったとき、常に「最もショックを受ける場所や立ち位置にいた人」に精神症状が生じるわけではありません。
人によっては「そういう話を聞いただけ」でもひどい反応を生じさせる人もいるわけです。
そうすると、事故を見たとか怪我をしたなどということは、それぞれの人の状況因(環境因)であって、状況因がイコールとして心因や症状になるというわけではありません。
状況にプラスしてそれを受ける個体の資質・特性の組み合わせによって、そうした心因や症状は生じてくるわけです。
そして心理療法では、状況因を何とか良くしていくように話し合っていくということが重要になってきますが、個体側の特性が大きいせいで起こってくる心因反応もあります。
そういう個体側の特性が大きい問題としては、かつての境界例と呼ばれていた病態や、発達障害の二次障害も含まれる可能性がありますね。
しかし、この「個体側の要因」については生まれ持った固定したものと見なすか否かについて様々な意見があり、私は以下のような考え方を採用しています。
すなわち、今現在の個体の特性は、もう一つ前の時代の状況因とその問いの個体の特性との関係によって様々な心理的変化を被り、今の個体の特性ができたと見なします。
そして、もう一つ前の時代の個体の特性とは、それもまた、そのまたもう一つ前の時代の状況因とその時の個体の特性とによって生じた…という風にだんだん遡っていくと、これは主として遺伝子によって規定される生来性の資質と、それに状況因が加わって、ある個体の特性が作られるということが次々に連鎖的に起こって、現在のこの個体の特性ができたという捉え方が当然成り立つわけです。
このように捉えておくと、今の状況因、その前の状況因、またその前の状況因と遡っていくことによって、相当なところまで、この個体の特性も変化・修正・補正することが可能なのではないかという考え方が出てきて、それに基づいて重要なパーソナリティ障害に対する心理支援・心理療法というジャンルが生まれてきたわけですね。
この「昔からのたくさんの状況因が、今に影を投げかけているから、それを取り扱うという考え方とやり方」は、現在の様々な心理療法の技法の考え方の根底にあるものになっています。
このように、簡単に「個人の特性」とか「状況因(環境因)」と言われがちですが、これらは複雑に絡み合って現在の問題や症状を形成しているということがわかると思います。
ですから、アセスメント場面においては「心理的側面だけでなく、環境を評価することも重要である」のは当然であり、その環境も現在のものだけでなく、過去の環境に関しても見立て上必要という判断の中で情報を取得されるべきものと言えますね。
よって、選択肢①が適切と判断できます。
② クライエントが物語を作る心理検査全般をナラティブ・アプローチという。
ナラティヴ・アプローチとは、問題を抱える当事者へのケアやカウンセリングを「ナラティヴ(語り、物語)」の視点から捉え直すムーブメントの総称を指します。
ナラティブの特徴等については「公認心理師 2022-53」に詳しく述べておりますが、ここではナラティブを中核に据えた「ナラティブ・セラピー」について解説をしておきます。
ナラティブ・セラピーは、人々に内在化され抑圧的に働く、社会的な知としての物語(ナラティブ)の影響から離れて、自分の経験を十分に表す物語を紡ぎ直すことを目指し、White&Epston(1990)が開発した支援法です。
技法的には、問題と目されてきたことが人生に与える影響をクライエントが表現(言語化)し、問題を外在化させることを促す「影響相対化質問」や、セラピストとの間で新たに語り直した人生の物語を日常生活に波及させて定着を図る手紙の活用などがあります。
より広義には、社会構成主義に基づくAnderson&Goolishian(1992)によるコラボレイティブ・アプローチも含まれ、こちらではセラピストに対して、具体的な技法ではなく先入観を排した「無知の姿勢」を推奨しています。
これらの共通するのは、社会に流布した言説が自分に浸透したドミナント・ストーリー(支配的な物語)に対抗して、オルタナティブ・ストーリー(代わりの物語)の構築を目指す点にあります。
上記はやや具体的な心理療法に関する解説ですが、要するにナラティブの視点から捉えた支援全般を「ナラティブ・アプローチ」と呼んで問題ないと言えます。
さて、本選択肢の「クライエントが物語を作る心理検査全般」とは何を指すのかというと、代表的なのがTATになるでしょう。
TATでは特定の図版について、被検査者に「物語ってもらう」ことを通して得られた情報を解釈し、人格特性を把握していくことになります(図版によって得られるテーマが異なる。例えば、銃らしきものが出てくる図版では攻撃性のテーマが出やすい等)。
ただ、こうした「物語を作る心理検査」だからと言って、クライエントの言葉からクライエントの解釈を理解するために(=ナラティブ・アプローチの姿勢ですね)行われるというわけではなく、そうした物語を通してクライエントの客観的な状態を理解するために行われるという点ではナラティブの考え方とは異なる面が大きいと言えるでしょう(もちろん、ナラティブの視点がないとは言えないが、それが主になっているというわけでもない)。
また、ドミナント・ストーリー(支配的な物語)に対抗して、オルタナティブ・ストーリー(代わりの物語)の構築を目指すという視点を前提にして検査が取られるというわけでもないので、やはり「クライエントが物語を作る心理検査全般をナラティブ・アプローチという」というのは無理があります。
結局はそこで得られた「物語」をどのように捉え、関わっていくかでナラティブ・アプローチであるか否かが異なってくると考えられ、物語る検査だからナラティブ・アプローチという論理は成り立たないと見なすのが妥当ですね。
以上より、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 医師の診断補助として行う際は、客観的な心理検査のデータだけを医師に伝える。
まずアセスメントを行うにあたって、「診断補助」として行う場合というのは確かにあり得ます。
例えば、知的障害の診断をする際は「知的機能の欠陥」を知能検査のIQで判断することが最も多くなり、これに「自律的な日常生活活動機能」の程度を評価と併せて判断していくことになります。
この際、知能検査を取るのが心理師(士)の役割になるのが一般的であり、最も重要になるのが検査の客観的なデータ(この場合はIQの数値)になります。
ですが、こうした状況であっても「客観的な心理検査のデータだけを医師に伝える」というのは不適切な考え方になります。
心理検査であろうが発達検査であろうが、何かしらのアセスメントツールを用いてアセスメントを行う場合、そこには必ず「やり取り」が生じることになります。
その「やり取り」を通して得られるクライエントの情報が、検査で得られた客観的なデータと矛盾しない場合はそれほど難しくはないのですが、重要なのがそれらに矛盾があった場合です。
この際「客観的なデータ>やり取りで得られるクライエント情報」という図式で考えるのは誤りであり、こうした状況で求められるのが「これらの矛盾を説明する論理をもって、検査結果の解釈を行う」ということになります。
例えば、IQの数値と、やり取りで感じられる能力に差があるなら、その差はどこから生じたのか、対人関係が苦手という結果が出ているのに検査者とのやり取りはスムーズなのはなぜか、などについて説明可能な理屈を述べていくことが大切になるわけです。
この「対人関係が苦手という結果が出ているのに検査者とのやり取りはスムーズ」な場合には、年上とのやり取りは大丈夫な可能性、同年代との関わりに限定して苦手である可能性、役割分担が明確な場合にはやり取りがしやすい可能性、などを考えて、本人の話や保護者等との話を聞いていくことが求められます。
そうやって得られた「客観的なデータとやり取りで得られた情報との総合としての「検査結果」」は、実際の支援につながる可能性が高いものであり、それは医師が診断を行う上でも有用な情報になるはずです。
私にとって(というか、多くの心理職にとって)の「検査結果」とは、上記のようなものを指すのであり、単に「客観的なデータ」だけを示せばよいというのであれば専門的な技術というのはそれほど必要がないのです。
「客観的なデータとやり取りで得られた情報との総合としての「検査結果」」を安定的に示すことができるからこそ、専門性を備えた心理職であると言えるのですから、「医師の診断補助として行う際は、客観的な心理検査のデータだけを医師に伝える」というのは専門性の放棄になるわけです。
以前、勤めていた病院で「あなたの検査結果報告は、その人だけのための検査結果になっているからすごく良い」とDrに言ってもらえたことがあり、そういうことをきちんと評価してくれるDrにキャリアの最初期から出会えていたことは非常に幸運でしたし、私の中のDr全般に対するイメージが良いのはそういうことがあったためだろうと思います。
いずれにせよ、医師の診断補助としてアセスメントを行う場合であっても、客観的な心理検査のデータとやり取りから得られる総合的な検査結果を示すことが重要であると言えますね。
よって、選択肢③は不適切と判断できます。
④ 目的は、初期に援助方針を立てることであり、終結の判断材料とすることは含まない。
こちらは当然「終結の判断材料として、各種アセスメントを用いることは多い」というのが解答になるので、不適切な内容と言えます。
それだけでは味気ないので、2つほどパターンを考えておきましょう。
まずは「支援のところどころで検査を行っており、その検査結果に改善が見られた」という場合ですね。
こうした場合は、何か特定の問題や症状(例えば、対人不安があったり強迫症状があるなどですね)があった際に行われることが多いように思います。
こうした特定の症状がある場合には、その強度を査定できるような検査を行うことも多く、また、支援を継続する中で時々同様の検査を行って、その症状の強度に変化が出ているかを調べるという手順を踏んでいきます。
そういうアプローチをしている場合には、当然ながら検査結果から症状の軽快が見えるわけで、そのことを話題にしてクライエント本人の軽快感も共有していくことになりますね(数値が下がったから大丈夫だろう、というのは軽率な判断になりますから気をつけましょう)。
そうした状態の共有を通して、終結についての話し合いになっていくのは、終結へのルートの一つとして見て良いでしょう。
上記は、あくまでも検査結果を通して症状を評価するというパターンですが、心理検査の中には心理療法と混ざり合ったものもあります。
具体的なもので言えば、風景構成法や箱庭療法などが該当し、これらは評価的に見るということもできる一方で、それ自体が心理療法であるという側面を持っています(箱庭療法に関しては、その名の通り、心理療法の一つと見た方が自然であり、解釈をしない姿勢の重要性が指摘されているくらいです)。
こうした技法・療法においては、それ自体を心理療法の経過の中で一貫して行う場合もあれば、時々実施するというパターンもあり得ます。
その中で「これはクライエントが成長して、カウンセリングの場からの卒業が近いな」と感じさせるような表現に出会うこともあり、そういう時には言葉を交わすことなく終結が当然の帰結として了解されているということも少なくありません。
ある風景構成法ですが、最後には枠を車窓の窓枠に見立て、そこに止まっていた蝶が飛び立つ様子を描いたという事例がありました(その方面では有名な事例なので、知っている人は知っていると思います)。
こういう場合は、前者のパターンのように数値で示されないことも多いですが、カウンセラーとクライエントの間で終結が既に了解されているという形になるというのが特徴と言えるかもしれませんね。
いずれにせよ、このパターンも「終結の判断材料とすること」になっていると言えるでしょう。
上記のような、特定の検査を用いる場合であっても、検査と療法が一体化したものを使うにしても、それが困難な状況・現場も多いでしょう。
事実、カウンセリングの終結は「データ」だけで括ってよい話ではなく、クライエントの体感と併せて語られるべき事象であると考えておくことが大切です。
とは言え、特定のアセスメント等が初期に援助方針を立てるために用いられるに留まらず、終結の判断材料とすることもよくあることだというのは間違いありません。
以上より、選択肢④は不適切と判断できます。
⑤ テスト・バッテリーでは、検査者が一部のテストに習熟していなくても、他のテストによって補完できる。
こちらは当然「検査者が一部のテストに習熟していなくても、他のテストによって補完できる」という点が不適切なわけですが、その理由をいくつか述べていきましょう。
まず最も大きなポイントが「習熟していないテストをテストバッテリーに組み込んではいけない」ということになりますね。
心理検査であろうが発達検査であろうが、心理職が扱う検査には(というかあらゆる検査には)共通の特徴があり、それは「相手に侵襲的な刺激を与え、その刺激に対する反応を評価することで検査結果を得る」ということです。
つまり、検査とは「クライエントへの侵襲」を前提とした行いであり、もちろん検査によってその侵襲具合は様々ではあるものの、一般には侵襲度が高い検査ほど得られる情報も深く・多いとされています。
検査が侵襲である以上、それを行うことで何かしらのダメージをクライエントに負わせることになりますから、当然その運用は慎重になるのが心理職の倫理と言えます。
優れたテスターというのは、こうしたテストによる侵襲性をよく理解しており、そのケアも行いながらテストを実施しているものです。
本選択肢のように「検査者が一部のテストに習熟していない」というのは、そうした侵襲性のあるものを無自覚に振り回すことを意味していますし、そこまでして得られたデータをクライエントの利益に還元できない可能性まであるわけです。
ですから、本選択肢の不適切なポイントとして「そもそも習熟していないテストを入れてはいけない」ということになります。
もちろん、クライエントの状態に応じて必要とされた検査に習熟していないという場合もあるでしょうが、そういう時にはそもそも「習熟をそれほど要しない検査」を選定するというのも一つの手段ですし(習熟を要しない検査は、たいてい侵襲性も低い)、検査の練習を同僚などにさせてもらうということもあって良いでしょう(こういう「悪あがき」は大切だと思います。普段から使用する可能性のある検査に習熟しておくことが基本ではありますが)。
他にも「他のテストによって補完できる」という箇所もいかがなものかですね。
そもそも「他のテストによって補完できるのであれば、習熟していない検査をわざわざ入れる必要はない」ということになります。
先述のように、検査というのはクライエントへの侵襲を前提にしていますから、もっとも好ましいのは「検査を取ることなく、クライエントの状態を正しく評価することができる」という形です。
ですが、社会的な要請もあり(例えば、何かしらの制度を利用する際に必要とか)、検査をせずに評価するということが難しい場合も多いので、きちんと習熟した検査を持っておくことが大切になりますね。
以上のように、そもそも習熟していない検査をテストバッテリーに含めることはあり得ませんし、他の検査で補えるのであれば習熟していない検査を含める理由もありません。
よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。