公認心理師 2022-53

ナラティブの概念に関する問題です。

ナラティブについては、これまでしっかりと解説してこなかったように思うので、整理も兼ねてまとめておきました。

問53 ナラティブ・アプローチで用いられるナラティブの概念の説明として、適切なものを2つ選べ。
① ABCシェマの形式をとる。
② 内容であると同時に行為も意味している。
③ 人間の認識形式の1つに位置付けられる。
④ 一般的な法則を探求するための手がかりとなる。
⑤ 語り手や環境とは切り離された客観的な現実を示すものである。

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解答のポイント

ナラティブ・セオリー・エビデンスの違いと相互作用について理解している。

選択肢の解説

① ABCシェマの形式をとる。

ABCシェマはエリスの提出した概念になります。

エリスは、カレン・ホーナイの研究所で精神分析のトレーニングを受けていましたが、1955年ごろに精神分析から離れて行動療法や一般意味論、実存主義などの影響を受けながらABCシェマという独自の理論を構築し、論理療法を創始しました(なお、論理療法はその後、論理情動行動療法と呼ばれるようになります)。

論理療法は、出来事(A)そのものが悩み(C)を引き起こすのではなく、出来事に対する物事の受け取り方(B)が悩みを引き起こすと考える、いわゆるABCシェマ(モデル)によってクライエントの悩みを説明しようとします。

この出来事に対する受け取り方を「信念」と呼び、この信念に変化をもたらすことで悩みを和らげようとします。

このように論理療法では、ABCシェマの構造を学び、非合理な信念を見出して、それに代わって問題を軽減させる思考、すなわち「合理的な信念」を使用するよう勧めます。

信念の変更に抵抗がある場合は、論駁(要は論破すること、説得すること)を行います。

認知的構えを変更させる手法が主体であり、そのことで行動の変容を図っており、認知行動療法の発展に大きな影響を与えています。

このように、ABCシェマはナラティブ・アプローチで用いられる概念(及びナラティブの概念)ではなく、エリスの論理療法で用いられている概念となります。

よって、選択肢①は不適切と判断できます。

② 内容であると同時に行為も意味している。
③ 人間の認識形式の1つに位置付けられる。
④ 一般的な法則を探求するための手がかりとなる。
⑤ 語り手や環境とは切り離された客観的な現実を示すものである。

まず最初にナラティブという表現について確認しておきましょう。

ナラティブは通常、「語り」または「物語」と訳され、「語る」という行為と「語られたもの」という行為の産物の両方を同時に含意する用語です。

ですから、「語り」と訳せば「物語」という意味が抜け落ち、「物語」と訳すと「語り」という意味が抜け落ちてしまう恐れがあるので、意味の両義性(語るという行為と、語られたものそのもの)とその連続性を表現するため「ナラティブ」と呼ばれています。

なお、こうした両義性を踏まえれば、選択肢②の「内容であると同時に行為も意味している」に関しては適切であると見なすことができるわけです。

さて、この「ナラティブ」ですが、その反対語は「セオリー(theory)」という言葉が当てはまります。

具体的で個別的な時空を超えて、一般的に妥当する明言を「セオリー」と呼びます(例えば「ここでは〇〇がセオリーだが、あえて△△を行った」と言うように、セオリーと具体的な出来事を区別して語っています)。

具体性や個別性を抹消した一般的言明がセオリーであり、ナラティブは具体性や個別性を要件として成立すると見なします。

この事実から、我々は現実を理解する際の「セオリー」と「ナラティブ」という2つの重要な認識形式を区別することができます。

Brunerはこれらをそれぞれ「論理科学モード」と「ナラティブモード」と呼び、それぞれが全く異なる形で人間を描き出します。

White&Epstonによると「論理科学モードは、個人を受身的なアリーナとして、すなわち、非個人的な力、動因、衝撃、エネルギー移動等に対して反応する場として表現する」とし、「ナラティブモードは、人を彼・彼女の世界の主人公又は参加者と見なす。それは解釈行為の世界であり、そこではストーリー全ての語り直しは新しい語りとなり、人々は他者とともに再著述に関与し、それゆえ、彼らの人生や関係をも作っていくことになる」というものです。

すなわち、この2つのモードが単なる説明形式の違いではなく、それが人に及ぼす影響、効果の面で大きな違いがあることがわかります。

「論理科学モード」は人が何らかの法則のもとに生きる存在であることを教え、「ナラティブモード」は人が多様な可能性に開かれた存在であることを教えます。

この2つの認識様式は、どちらも人間の生にとって重要な意味を持っており、一方のみが強調され、他方が見えなくなれば、我々の生はきわめて限定されたものになってしまうと考えられます。

以上のように、ナラティブもセオリーも人間の認識形式の一つと言え、ナラティブが出来事や経験の具体性や個別性を重要な契機にして、それらを順序立てることで成り立つ言明の一形式であるということであり、それはまた、我々の生きる現実を組織化するための一つの重要な形式であるといえます(この点から、選択肢③の「人間の認識形式の1つに位置付けられる」というのはナラティブの特徴を述べたものとして適切であると言えるわけですね)。

これに対してセオリーは、一般的な法則を導くものであり、複数の出来事の必然的関係、因果的関係を明確に述べようとするものになり、選択肢④の「一般的な法則を探求するための手がかりとなる」のはセオリーの特徴を述べていると考えられます。

さて、こうしたセオリーとナラティブの区別に加えて、もう一つ重要な形式があり、それは「エビデンス」という形式です。

ここでのエビデンスとは「統計的データに基づく」という意味であり、複数の出来事の相関関係を統計的に述べたものを指しています。

科学という営みは、こうしたエビデンスを発見し、それをセオリーにまで高めること、あるいは逆に、あるセオリーから出発してそれを裏付けるエビデンスを示すことで成り立っており、この時、ナラティブはエビデンスやセオリーを生み出すためのデータとして位置づけられます。

ナラティブはそれ自体単独では意味を持たず、それらを大量に集めて統計的分析を施してはじめて意味を持つものとして意味づけられます。

これらを踏まえれば、選択肢⑤の「語り手や環境とは切り離された客観的な現実を示すものである」というのは、エビデンスの特徴を示したものであると考えられますね。

なお、こうしたエビデンス・ナラティブ・セオリーの区別は、あくまでも論理的な区別であって、現実の世界ではセオリーがナラティブのように語られたり、逆にナラティブがセオリーのように語られることも多く、セオリーもまたナラティブの一特殊形式と見なすべきではないかという議論もあるくらいです。

以上のように、ナラティブの形式的特徴を踏まえれば、選択肢②および選択肢③がナラティブの概念の説明として適切と判断できます。

一方、選択肢④はエビデンスかセオリーか迷いましたが「手がかりとなる」というところがセオリーよりの考え方に近いように感じますし、選択肢⑤はエビデンスのことを指していると見なせると考えれば、これらの選択肢は不適切と判断できます。

上記がナラティブの形式的特徴になりますが、以下ではナラティブが我々に何を伝えているのか、ナラティブという形式を使って何を表現し、そこから何を読み取っているのかについて述べていくことにします。

この点についてEliottが以下のように述べています。

  1. 時間性:ナラティブという形式は出来事の時間的順序を伝える。ある出来事Xが起きた、そして次に出来事Yが起きたという順序を伝える。そしてこの時、XがYの原因であると明確に語られれば、それはプロットを得てストーリーに近づいていく。また、そこに一見因果関係がなさそうに見えるが、実は因果関係があることが後から判明するという形のプロットもある。いずれにせよ、我々は出来事の連鎖を語りながら、ある連鎖には因果関係を見出し、ある連鎖にはそれが無いと見なすことで、それぞれのナラティブを構成する。こうすることで我々は「生きられた時間」を他者に伝えようとする。
  2. 意味性:上述の通り、ナラティブはプロットを得ることで意味性を伝える。例えば、2つの出来事が「しかし」という接続詞で結ばれることで、そこに意外性という意味が付け加えられる。また同時に、行為者の独特の意図もそこに表現される。いつもとは違う意外なことをするに至った行為者の意図がそこに暗示される。更に、その行為の結果、他者にどのような影響がもたらされたのかという他者にとっての意味も伝えられる。ただし、何を意味として捉えるかは、聞き手の側の想定や聞き手が置かれた文脈によって異なる。そもそも、何を意外と感じるかは、聞き手が語り手に対して持っている知識によって変わる。したがって、ナラティブが伝える意味は一義的には確定できず、聞き手によって異なる意味を伝える可能性を常に含んでいる。
  3. 社会性:ナラティブは通常、具体的な誰かに向かって語られる。その聞き手が誰であるかによって語り方が変わる。聞き手にとって意味があるように語るには、聞き手の関心や知識を前提に語り方を変える必要がある。また、聞き手の反応によっても語り方を変える必要がある。思わぬ反応にあって、最初のナラティブは途中で終わり、全く別のナラティブに移行し、その後に、また最初のナラティブに戻ってくることもある。ナラティブな聞き手と語り手の共同作業によって成立する社会的な行為であり、社会的な産物である。したがって、聞き手として誰が想定されるかはナラティブの重要な要素である。日記のように自分を聞き手に想定したもの、ブログのように不特定の誰かを想定したものなど、想定された聞き手との関係において個々のナラティブを考察する必要がある。

こうした三つの特徴は、ナラティブが社会生活において重要な役割を果たすものであることを示しています。

人は時間という秩序での生活を送っており、その秩序に整合するように私たちの経験を組織化する必要があります。

その際に、ナラティブという形式は最も基本的な形式となるわけです。

ナラティブは時間の流れを意識させ了解させる道具として重要な役割を果たし、また、意味あるものと意味のないものを識別させる道具としても役立っています。

更に、時間の流れや出来事の意味を他者に伝え共有することによって、社会生活は可能になるわけです。

上記のように、人が生きる現実を構成するナラティブですが、具体的にどのような形を取っているかについて、いくつかの見解をまとめておきましょう。

  1. 「大きな物語」と「小さな物語」:Lyotardが提唱した区別。
    「大きな物語」とは、様々な物語を背後から正当化する物語という意味であり、近代という時代を支えてきた「解放の物語」「進歩の物語」などがそれに該当する。
    「小さな物語」とは、そのような「大きな物語」の支え無しに成り立つ物語で、そうした正当化とは無関係に新しいアイデアを生み出すことそれ自体を目的とするような知の在り方がその代表例とされる。
  2. 「ドミナント・ストーリー」と「オルタナティブ・ストーリー」:White&Epstonのナラティブセラピーによって一躍有名になった区別であり、もともとFoucaultの知と権力に関する議論に由来する。
    「ドミナント・ストーリー」はある状況を支配している物語という意味で用いられ、ある状況において自明の前提とされ、疑うことのできないものである。「夫は外で働き、妻は家庭を守る」のようなものだが、これが疑われたときに現われるのが「オルタナティブ・ストーリー」になる。「夫婦の役割分担は、夫婦ごとに決めればよい」という代案であり、概ね、今度はそれが「ドミナント・ストーリー」になっていく。
  3. 「ファースト・オーダー」と「セコンド・オーダー」:誰が誰について語るかによっての区別であり、Eliottが示した。
    個人が自分や自分の経験について語ったものを「ファースト・オーダー・ナラティブ」と呼び、それに対して、主に研究者などが社会的世界を理解するために語ったものを「セコンド・オーダー・ナラティブ」と呼んで区別できる。

このような様々なナラティブの組み合わせで社会的現実は成り立っており、これらの組み合わせの在り様やこれらの相互作用のプロセスを見ていくことは、ナラティブ・アプローチの重要な課題の一つとされています。

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