心理的支援活動を概念化、理論化し、体系立てていくために必要となる公認心理師の姿勢として、最も適切なものを1つ選ぶ問題です。
これまで心理学、特に臨床心理学の世界では、多くの支援理論が構築されています。
それらの支援理論は、さまざまな批判にさらされ、そのたびに理論を改変・洗練させ、また分化することで新たな学派が生まれるなどの発展をしてきております。
余談ですが、創始者が「決定版」を作ってしまうと、それ以上の発展が停滞することもあるようです。
いくつかの心理検査がその憂き目にあっております。
それを逃れているのがロールシャッハテストで、こちらはヘルマン・ロールシャッハが早世したためです(ロールシャッハテストが出版された2年後くらいだったような。確か盲腸で)。
創始者が不在のため、他分野の研究者たちが、それぞれの視点で多くの知見を提出し、非常に有用な心理検査として築き上げられていったわけですね。
「決定版」を意識的に作らなかったのが風景構成法です。
創始者の中井久夫先生は、上記の流れを把握していたので、風景構成法のまとめとなるようなものを出していません。
風景構成法の研究者としては、皆藤章先生などが有名なところですね。
解答のポイント
支援理論がどのような過程を経て洗練されてきたのかを理解しておくこと。
知性的な学問への接し方を心得ておくこと。
選択肢の解説
『①実際のデータよりも、予想と仮説を重視する』
臨床実践においても研究においても、予想と仮説を立てることは重要です。
また、実際のデータも同様に重要な情報です。
しかし最も重要なのは、予想と仮説を実際のデータと照らし合わせていく過程になります。
予想と仮説を実際のデータと照らして仮説が証明されたのであれば、それがどのような論理的道筋を辿るのかを細やかに記述していくことが重要になります。
更に、すでに存在する理論との比較を行い、その弁別点を明示していくことによって、自身の理論体系のオリジナリティをより強調することが可能です。
また、実際のデータと予想と仮説に矛盾があれば、その矛盾がなぜ生じたのかを考えていくことがより理論体系を洗練させていく契機になるでしょう。
多くの場合、こうした矛盾をどのように理論に取り込んでいくかによって、理論が洗練・拡大されていくことになります。
この際、予想と仮説に誤りが無いように思えるのであれば、実際のデータの収集方法や分析方法を見直すという手順を採ることもできますね。
上記の通り、「実際のデータ」も「予想と仮説」のいずれもが重要なものであり、いずれか一方を重視しすぎるのは問題と言えます。
大切なのは、その2つを照らし合わせ、そこで生じる矛盾も含めてどのように向き合い、論理的に消化していくのかということです。
よって、選択肢①は不適切と判断できます。
『②想定される結論に合致するようなデータを収集する』
本選択肢のデータ収集のやり方は、そこにすでにバイアスがかかっていることがわかります。
想定される結論に合致するようなデータを収集するということは、それ以外の「想定される結論と矛盾するようなデータを価値あるものと見なさない」ということになります。
大切なのは想定した結論と合致しないデータをどのように取り入れていくのかということ、もしくは、それを除外するにあたって論理的根拠を示すことです。
前者の姿勢を持つことによって、自分の想定していた結論の視野が狭いことがわかり、その視野を拡大することで合致しなかったデータを組み込んだ論理を再構築できる可能性が高まります。
Aという結論を想定していたところ、not-Aというデータが出てきたので、Aとnot-Aの共通項を更に高い水準で発見し、それをもとにBという結論を導き出す、というイメージです。
後者の姿勢によって、自身の想定した結論の限界を示すことができ、それによって適切に自らの結論を運用することが可能になります。
こちらはAという結論に対して出てきたnot-Aについて、それぞれ別の枠組みとして考えAとC(not-A)に分けて、その弁別点の論理的根拠を示すということになります。
いずれもデータを収集する上で大切な姿勢であり、こういう姿勢の背景には「自身の結論が未熟である可能性」を常に自覚しておくという構えがあります。
そして、こうした「自身の結論が未熟である可能性」への認識がなければ、自分の結論に合わないデータを「選択的無視」という機制を使って排除することが多くなります。
こういった構えは反知性的であり、知的な成熟が生じなくなってしまいます。
すでに述べたとおり、「自身の結論が未熟である可能性」を認識していれば、矛盾するデータを採りいれ、現在の狭い枠組みをブレイクスルーしてより高次の枠組みで物事を捉えることや、自身の結論を活用できる場をより明確に示しやすくなります。
以上より、選択肢②は不適切と判断できます。
『③自らが立脚する支援理論と整合するデータを基に理論化する』
こちらは選択肢②と同じ理由で不適切と言えます。
自らが立脚する支援理論と整合するデータを基に理論化するだけでは、元々の理論の範囲を超えることは不可能です。
むしろ、自らが立脚する支援理論とは整合性が取れないようなデータを積極的に取り入れ、それを含めて元々の支援理論の不十分な点を指摘し、それを取り込んだ理論体系を再構成することが重要になります。
選択肢②でも似たようなことを述べましたが、自身や自身の理論体系が不十分である可能性を想定しないということは「自らの理論体系と矛盾するデータをゼロ査定する」ということにつながります。
ゼロ査定すれば、それは「価値が無いデータ」として「選択的無視」されてしまします。
そうならないためにも、「自らが立脚する支援理論」と整合性が取れないようなデータに対して、積極的に関わり、説明するための論理を構築するということが重要です。
以上より、選択肢③は不適切と判断できます。
『④クライエントの支援に有用でなければ、理論を修正することを検討する』
こちらは、外科手術で言えば「手術は成功したが、患者は亡くなった」ということです。
支援理論とは、クライエントの支援に有用であることによって価値が生じます。
もちろん、あるクライエントに有用でないからといって理論全体が無価値ということにはなりません。
しかし、目の前のクライエントに有用でないと見なせるのであれば、理論的な正しさにしがみつくのではなく、理論の修正を検討していくことが重要です。
本選択肢がなぜ「検討する」という表記になっているかというと、例えば、トラウマ治療が必要だと思ってEMDRを用いたが有効でなかった場合、EMDRの理論の修正が必要というよりも、トラウマ治療が必要であるという判断が適切だったかを見直す可能性があります。
その場合、間違えていたのは理論の方ではなく、その理論を適用した判断が誤りであったということになりますね。
そういった見立ての誤りによって有用でなかった可能性などが棄却され、理論に課題が見つかるようであれば、クライエントに有用になるように理論を修正していくことが重要になります。
そして、そうやって理論は洗練化されていくのです。
支援理論が何のために構築されたのか。
それはクライエントの支援に有用であるために作られたということが第一義です(他には、例えば教育のためや、専門家間の共通用語となり得る、などの意義がありますね)。
本選択肢は「クライエントの支援に有用>理論的な正しさ」という認識ができているか問うていると思われます。
理論を絶対普遍のものと見なしてはいけませんね(軽視するのも同じくらいダメですけど)。
以上より、選択肢④が最も適切と判断できます。
『⑤支援の事実を記述する場合は、クライエントの発話に限定して詳細に記載する』
コミュニケーションにおける言語的メッセージの割合は3割程度ということはよく言われることです。
事例研究などで、発話に限定して詳細に記載することは必要ですが、どういった表情、しぐさ、音調で言っていたのかによって、その発話の意味がまったく異なってきます。
例えば、悲惨な内容の話を「笑顔」でしていたならば、クライエントが解離機制を用いている可能性、苦しさを出しても受け取ってもらえないと思っている可能性などが浮かびます。
このようなときに発話のみの記述であれば、その面接過程は発話の「内容」によってでしか判断できないことになってしまいます。
しかし上記の例からもわかるとおり、発話という言語メッセージの意味を決定づけるのは発話の「内容」ではなく「構造」です。
「何を話すか(内容)ではなく、いかに話すか(構造)」に注目したのがジェンドリンであり、フォーカシングは体験過程に沿った話し方を身につけるための練習です。
ジェンドリンは、クライエントの「話し方」によってその予後の見極めができることを発見し、そこからフォーカシングを編み出しました(良い予後を示すクライエントの話し方を「練習させよう」という発想ですね)。
またロールシャッハ・テストでも、「何を見たか」(反応内容:内容)も重要ではありますが、それにも増して重要なのは「いかに見たか」(反応決定因:構造)です。
反応決定因から、その人の内的資源、愛着、感情反応などの大切な情報を読み取ることが可能です。
このように多くの心理療法やその近隣理論・技法の様々なところに、こうした「内容」よりも「構造」を重視するという知見が見受けられます。
クライエントの発話を記述する場合でも、それがどのような形でなされたのか、例えば、泣きながらなのか、震えながらなのか、ためらいながらなのか、笑いながらなのか、堰を切るようになのか、一言ひとことなのか、などの「構造」の記述が重要になります。
これらと併せて大切なのは、それを聞いているカウンセラーがどのように感じたか、です。
これを主観と切り捨てることは、臨床実践上でも理論構成上でもあってはならないことです。
サリヴァンの関与的観察概念を持ち出すまでもなく、カウンセラーはクライエントに影響を与えずにはおれないことを知っておくことが大切です。
こうしたカウンセラーの内的体験をもとにクライエントを理解するという試みは、精神分析の世界で以前からなされています。
サールズの逆転移の活用はその代表的な例ですね。
また、メラニークラインの投影性同一視も、カウンセラーの内的体験を通したクライエントの理解とも言えますね。
以上より「支援の事実を記述する場合は、クライエントの発話に限定して詳細に記載する」だけでは不十分であることがわかります。
もちろん、発話を分析するという研究手法もありますから、発話自体の価値が低いというわけではありません。
ただ、臨床実践を通した支援理論を構築するのであれば、こうした主観的なものを理論的に組み入れていくことが少なからず求められるでしょう(それも理論によるのでしょうけど)。
よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。