公認心理師 2019-98

問98はハーシの社会的絆理論に関してです。

社会的絆理論は、実は初出ではありません。
2018追加-114において「法務省式ケースアセスメントツール」の背景にある理論として紹介しております。

とは言え、ちょっと触れただけなので難しい部類の問題と言えるかもしれないですね。

問98 非行の要因に関するT.Hirschiの社会的絆理論について、正しいものを1つ選べ。
①個人に対する社会的絆が弱くなったときに非行が発生すると考える。
②親による子どもの直接的統制は、社会的絆の重要な源泉の1つである。
③社会的絆理論の基本的な問いは、「なぜ人は逸脱行動をするのか」である。
④友人への愛着が強い少年が、より非行を起こしやすいと考えられている。
⑤社会的絆の1つであるコミットメントとは、既存の社会的枠組みに沿った価値や目標達成に関わる度合いを意味する。

社会的絆理論はコントロール理論とも表現されております。

先述のように、過去問でちょっと解説していますが、しっかりとした説明はしていないので、良い機会ですから覚えておくようにしましょう。

理論の説明としてはそれほど難しい選択肢が並んでいるわけではないのですが、明確な知識をつけるためにもHirschi本人の著書を参考にしつつ解説を書いていきます。

解答のポイント

社会的絆理論の概要を把握している。

選択肢の解説

① 個人に対する社会的絆が弱くなったときに非行が発生すると考える。
③ 社会的絆理論の基本的な問いは、「なぜ人は逸脱行動をするのか」である。

「個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、人々はその集団に頼ることが少なくなり、結果的にその分自分だけに頼ろうとし、自己の私益に則った行為準則しか目をくれなくなる」
こちらが社会的絆理論(コントロール理論)の基本的な考え方です。

すなわち、社会に対する個人の絆が弱くなったり、失われる時に非行が発生すると見なすわけです(選択肢①の文章は「個人」と「社会」がテレコになっているのがわかりますね)。

それまでの多くの理論は「なぜ少年たちは非行をするのか?」という問いの上に構築されてきたものでした。

これに対して社会的絆理論では、非行への生来的衝動といったものを求めることはしておらず、そうした衝動やそこから派生するいかなる行動を罪悪と考えることもしません(罪悪となるのは法律がそれらを禁じるときである、としている)。

もちろん「なぜ少年たちは非行をするのか?」に関して説得的で、かつ社会的絆理論共総じて調和する説明は存在します。

しかし、それらは社会的絆理論と矛盾しなくても、決して社会的絆理論から論理的に導き出されたものではありません。

「なぜ少年たちは非行をするのか?」という問いは、社会的絆理論が回答を期待される類の問いではないとされています。

もしその気になれば、私たちは逸脱をするだろうという証左が十分にあることを踏まえれば、社会的絆理論の答えるべき問いは「なぜ我々は逸脱をしないのだろうか?」になることをハーシは指摘しております。

以上より、選択肢①および選択肢③は誤りと判断できます。

⑤社会的絆の1つであるコミットメントとは、既存の社会的枠組みに沿った価値や目標達成に関わる度合いを意味する。

社会的絆理論では「社会に対する」「個人の絆」という、それ自体が複雑な二つの概念を組み込んでいます。

社会的絆理論では、まず既存の社会へと人々がつながる絆の構成要素を分類して、記述しています。

そしてこれらの諸要素と逸脱行動との関連、ならびにこれら要素間の相互の関連について記述しています。

本選択肢の「コミットメント」とは、絆の構成要素の一つとして挙げられているものです。
以下では、社会的絆理論における「絆の要素」を挙げていきます。

【愛着】

Durkeimは「我々は社会的存在である分、それだけ道徳的存在でもある」と述べており、ハーシはこちらに対して「我々が社会の「規範を内面化」している程度に応じて道徳的存在でもある」と解釈しています。

すなわち、社会の規範は社会の諸成員により共有されているはずで、だからこそ規範の侵犯は他者の願いや期待とは相反する形で行為することを意味します。

もしも、他者の願いや期待に無頓着であるなら、それだけ規範に縛られないことになり、自由に逸脱することができると考えます。

このような理路をもって、規範や両親あるいは超自我の内面化の本質は、他者に対する個人の愛着にあると社会的絆理論では捉えます。

この他者への愛着は「個人的統制」の一側面でもあるが、社会的絆理論では愛着と非行の関連性を決定済みのものとして定義上の前提とはせず、愛着は他者への絆の中に位置づけるとしています。

【コミットメント】

人が法を侵犯したときのその結果に対する恐怖から、規則に従うことが多いものです。

同調行動を取る際の、こうした合理的側面の要素を社会的絆理論では「コミットメント」「生活上の投資」と呼んでいます。

人が逸脱行動をするかしないかを考えるときには必ず、逸脱がもたらすコスト、すなわちそうした社会の既存の枠組みに沿った行動を取ってきたこれまでの投資を失うかもしれないというリスクに、思いを巡らすだろうと考えます。

つまり、社会的絆理論の立場からは、犯罪を犯そうという決断は相当に合理的になされるものであり、彼が直面しているリスクとコストを考えてさえいれば、決して非合理的な決断ではないはずである、と仮定しています。

もちろん人は計算間違いをするものなので、社会的絆理論でも無知や計算違いとして逸脱行動を説明することは可能です。

【巻き込み】

日常にありふれている様々な活動に巻き込まれたり没頭するということは、社会的絆理論の重要な一面を構成しています。

これはすなわち、人は社会の既存の枠組みに沿った事柄に忙殺されている限り、逸脱行動にふける暇など無いという仮定を導きます。

日常的な活動に巻き込まれている人は、約束やら締切りやらに追われ、仕事や計画その他諸々のことに忙しすぎて、逸脱をする機会に滅多にお目にかかれないと考えます。

日常のありきたりの活動に忙しいほど、それだけ逸脱行動について思いを巡らすことさえないわけで、ましてやその思いを実行に移すことなど全くできないわけです。

多くの非行防止プログラムでは、このような考え方に基づいてレクリエーション施設の重要性が強調されたり、また高校中退者の問題に多大の関心が集まったり、さらには少年たちをトラブルの元から引き離しておくためには兵役に就かせるべきだ、といった提案がなされたりするわけです。

こうした日常的ないろいろの活動へと巻き込むことは、非行を防止する上で大変大きいとみるこうした考え方は、わかりやすく説得力があります。

青年たちの余暇から生じる一群の価値観が、結局彼らを非行に導いていくということですね。

【規範観念】

社会的絆理論では、ある社会や集団には広く行き渡った価値体系というものが存在し、そしてその規範が破られることを仮定しています。

仮に逸脱者が既存の社会とは異なる価値体系に準拠していると考える場合、非行という文脈に限って言えば、社会的絆理論にとって説明するべきことは何もないということになります。

つまり、社会的絆理論が説明しようとする問いは「自分が信じている規則は人はどうして犯すのだろうか」であって、「何が善なる行動であり好ましい行動であるかについての規範観念が、なぜ異なってくるか」についてではないということです。

すなわち社会的絆理論では、逸脱者に関して、現に犯しつつあるその規則を作った集団の中で社会化されてきたと仮定するのです。

そもそも逸脱の問題とは、ある集団がその規則を他の集団のメンバーに押し付けるということを問題にするものではありません。

言い換えれば、逸脱者はこれまでその規則の正当性を信じてきたということを仮定するだけでなく、現に規則侵犯しつつも、彼がなおその規則を信じているということを仮定するのです。

以上より、選択肢⑤の内容は社会的絆理論の「コミットメント」を表していると見て相違ないと考えられます。

よって、選択肢⑤が正しいと判断できます。

②親による子どもの直接的統制は、社会的絆の重要な源泉の1つである。

どこにも行き場のない少年は、より一層非行に走りやすいと社会的絆理論では考えます(一般的にもそうですよね)。

また、社会的絆理論で仮定するのは、既存の秩序の枠組みに沿って生活している人々に対する愛情の絆が犯罪を防止する上で重要な要因になるということです。

この絆が強いほど、犯罪の衝動に駆られたときにも、これらの人々のことを考慮に居る可能性が高くなると考えます。

この点を親との関係で置き換えると、両親への絆が弱くなれば非行行動が生じる可能性は高くなり、逆に強ければ、非行行動が生じる可能性は低くなると考えられます。

両親に対する絆には多くの要素が存在します。

ハーシの研究では、「あなたの親は、あなたが家に居ない時、どこにいるかを知っていますか?」という質問をし、その回答と非行との関連性が調べられています。

すなわち、親の監督状況と非行との関連を調べたということです。

この結果、少年たちが、親が自分の所在を知らないと思っている方が、はるかに非行行為の経験が多いという結果になっています。

ただし、実際には、子どもが非行を犯す可能性を低くするのは、親が行動を制限するからではなく、自分の行動を両親と分かち合っているという点にあると考えられます。

上記以外にも「コミュニケーションが親密であるほど非行が少ない(実際にはコミュニケーションの内容が重要)」「両親への同一化が強いほど非行が少ない」という結果が出ています。

つまりは、子どもと両親が親しい関係にあるほど強い愛着を持ち、同一化を示し、非行の機会も少なくなるということです。

このように、あくまでも親しい関係であるということが重要であり、直接的統制の度合いが重要なのではないことがわかります。

統制ではなく「親が行動を制限するからではなく、自分の行動を両親と分かち合っている」点にあるということですね。

以上より、選択肢②は誤りと判断できます。

④友人への愛着が強い少年が、より非行を起こしやすいと考えられている。

さまざまな研究から、非行少年は非行を犯したことのある友達を持っている傾向が非常に大きく、非行と無縁の少年はそのような友達を持っている傾向が非常に小さいとされています。

もともと友達への愛着が強い少年は、自分の両親に対しては同様の感情を持たない傾向があるという説があったが、ハーシの研究では、それは否定されています。

すなわち、友達に対して強い絆を感じている少年は、両親に対しても結びついている傾向が強く見られるということです。

また、友達の意見を「全面的に」尊重する者の23%が非行を犯しているのに対して、「ほとんど」あるいは「まったく」尊重しない者の56%が非行を犯しています。

友だちの評価を尊重する気持ちが低下するにしたがって、非行行為の件数が急激に増加するということですね。

この背景には「友達への愛着は、既存の社会秩序に従って行動する人々や既存の社会制度から遠ざかることを助長するのではなく、むしろそれらへの傾倒をもたらしている」という結論があります。

つまり、非行を犯す者たちはお互いを尊重し合わない傾向があり、非行ギャング集団の基底にあるのは、緊密な結束よりは不信と猜疑心であると言えるでしょう。

以上より、選択肢④は誤りと判断できます。

2件のコメント

  1. ①個人に対する社会的絆が弱くなったときに非行が発生すると考える。
    が正解ではないのは、社会的絆理論が「犯罪をしない理由」を考えるものであって、犯罪をする理由を考えるものではないから、と考察します。
    社会的絆が強いときには犯罪をしないでいられる、ということだけを述べる理論であって、社会的絆が弱いときに犯罪をするに至ると主張する理論ではありません。(社会的絆が弱いからといって、必ずしも犯罪をしてしまうわけではない。)
    また、「社会」と「個人」を文章中でひっくり返しても、概念的には同じ状況を意味してしまうと思います。(「社会的絆」という単語が崩れることで問題の意図も崩れて、なんだかしっくりこないと個人的には感じます。)

    1. コメントありがとうございます。
      お返事が遅れて申し訳ありません。

      >が正解ではないのは、社会的絆理論が「犯罪をしない理由」を考えるものであって、犯罪をする理由を考えるものではないから、と考察します。
      なるほど、そういう視点もありますね。

      ただ、私としては、
      「個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、人々はその集団に頼ることが少なくなり、結果的にその分自分だけに頼ろうとし、自己の私益に則った行為準則しか目をくれなくなる」
      という社会的絆理論の基本的な考え方があり、これをどう捉えたものかとも思います。
      後半の「自己の私益に~」という記述は、暗に絆が弱まれば非行に傾くとも読み取れるからです。

      ですので、この選択肢では単純に「社会」と「個人」のテレコが不適切の理由だと判断した次第です。
      お返事になっていれば幸いです。

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