公認心理師 2022-147

リストカットをしている生徒への初期対応に関する問題です。

事例の状況を踏まえた自傷行為への対応ということが主題となっている問題ですね。

問147 14歳の女子A、中学2年性。元気がないAの様子を心配した担任教師BからスクールカウンセラーCに相談があった。Aは、おとなしく目立たない性格であり、成績は中程度である。学校生活では自信のない様子が目立つ。CがAと面接を行ったところ、次のことが分かった。中学2年生でクラス替えがあり、女子生徒の間ではすでにソーシャル・ネットワーキング・サービス〈SNS〉のグループが複数できていた。Aは孤立を感じ次第に登校が苦痛になってきた。厳格な親からSNSを禁止されており、いらいら感が高じ、自室にこもって、カッターで手首を傷つけるようになったという。
 Cの初期の対応として、最も適切なものを1つ選べ。
① 希死念慮の有無についてAに問うことは控える。
② Aが手首を傷つけないようBに指導を依頼する。
③ 直ちにAを精神科に紹介し、主治医の指示を待つ。
④ Aの自傷行為の習慣性についてのアセスメントを行う。
⑤ Bと連携してAがSNSのグループに入れるよう、親に働きかける。

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なし(どこかに書いた気はしますが…)

解答のポイント

事例の状況を踏まえた自傷行為の対応を導くことができる。

選択肢の解説

① 希死念慮の有無についてAに問うことは控える。
② Aが手首を傷つけないようBに指導を依頼する。
⑤ Bと連携してAがSNSのグループに入れるよう、親に働きかける。

まず選択肢①については、リストカットという状況に限らず、中高生に対して自殺予防の話をするときなども考えねばならない事項であると思います。

つまり、自殺予防やリストカットなどの状況において、「自殺」や「死にたい」といった言葉を使って良いか否かということです。

もちろん、状況によっては避けることが望ましいという場合もあるでしょうが(例えば、支援者がその後も継続的に支援することができないなど、支援者としての責務を果たすことができない場合もある)、基本的には「死についてやりとりすること」を避けるべきではありません。

その理由はいくつかありますが、それを挙げていきましょう。

まずはリストカットがどういう行為であるかを考えてみましょう。

私のようなスクールカウンセラーは小中学生の支援を中心に行っており、リストカットをはじめとした自傷行為の「出始め」に遭遇することの多い立場としては、この「出始め」だからこそ見られる「リストカットの意味」を考えやすい状況にあると思っています。

リストカットの支援において、学校以外の機関では基本的にある程度期間が経ってからの来談・来院が多いので、その「リストカットの意味」が複雑になっていることが多いように感じています。

自傷行為の「出始め」を見ていると、自傷行為の傷は「彼女らが抑え込んでいた思いの顕在化」という意味があるように感じています(一般的に女性が多いので、彼女らという表現を使っていますが、男性にももちろんいますから「彼女ら」には「彼」も含むと考えてください)。

「抑え込んでいた思い」には様々なものがあり、単純に言えば怒りや寂しさといったものが多いように感じますが、そういった思いが「表現を憚られる」「表現しても受け取ってもらえない」「出しても困らせる」などのような環境との相互作用で抑え込まれることになっているように感じます。

もちろん、深刻な事例では明らかに受け取り手である環境側(大体は家庭)に問題がありますが、本人らが「思いを抑え込む」に至った経路は様々であり、悲しいすれ違いの連続で「思いを抑え込む」状態になってしまったと思える事例も多いです(この辺の感覚が、重篤な事例を見ることが多い医療とは異なるところかもしれませんね)。

例えば、夫婦で妻の方が「皿洗いをしてほしい」と思ったけど、「言ってもどうせ受け取ってもらえない」と考えて、「皿洗いをしてほしい」と言わなかったとします。

この時、妻は「皿を洗ってほしい」とは言ってないわけですが、妻の心中は「「皿を洗ってほしい」と伝えたけど洗ってくれなかった」という状態とほぼ同じになるんですね(想像してもえるとわかりやすいと思います)。

こういうことがあると、次の「皿を洗ってほしい」という状況でも言わないことになりやすいだけでなく、他のことにも波及してしまって「どうせ言ってもやってくれない」「わかってくれない」という思いになりやすくなります。

やや単純に述べましたが、こうしたことがリストカットをする人が「思いを抑え込む」という形になった状況とも関連があるように思うのです。

当人の空気を読む力が強いと、親が困っていたり大変な状況を読み取りやすく、何かしらの欲求を感じたとしても自然と「抑える」という判断になりやすいです。

これを「気付けない親に問題が」というのはあまりに酷だと感じる事例もあるほど、当人の「抑え込む才能」「内側に抱えておく力」「抑え込んでいることを気取られないように振る舞う力」が高い場合も多いです。

このように様々な経緯の中で「思いを抑え込む」という形になるわけですが、当然のことながら、当人には「抑え込んだ思いをわかってほしい」という欲求も存在します。

こうした思いが強く出たり、リストカットによって周囲が反応するという体験が重なると、傷を見せつけるような行動を取ることも出てくるわけですが、こうした行動を見て「構ってほしいだけ」「どうせ死なない」などと否定的に解釈するのは表面的過ぎるし、陰性感情に流されすぎなように感じます(もちろん、こうした言動に困るのは現場で対応する人たちなので、その陰性感情は理解できるものではあります)。

ただ、自傷行為の場合、本人が「わかってほしいという思いを抱えている」ということを認識していないことも多いので、それを単純に解釈するなどをしたとしても不毛に終わることが多いように思います。

リストカットは「抑え込んだ思いの顕在化」であり「そうした思いをわかってほしい」という面があると同時に、本人がこれまで抱え込んでいた苦しさを「目に見える形にする」という意味も有しています。

これを「よくわからない苦しみを、目に見える苦しみに換える」と表現されたりしますが、それは納得できる考え方であり、経過が長いほどに「抑え込んだ思い」が折り重なり、混ざり合って「何がなんだかわからない苦しみ」「実体のない苦しみ」になっていることが多いものです。

人は「実体のない苦しみ」よりも「目に見える苦しみ」の方が対処しやすいものであり(これはヒトという種の特徴であると思います。一方、理性で「曖昧性に耐える」ということができるのも人の力だと思います)、そういう意味では、自傷行為は彼女らが「少しでも苦しみに対処しようとしている」という対処能力の現われであると言えます。

さて、このように自傷行為にはいくつかの意味が含有されていますし、上記以外にも複雑で個々の事例で特有の思いもあり得るでしょう。

ただ少なくとも自傷行為には様々な思いが含まれているということは間違いなく、そして、自傷行為があるということは「それなりの苦しさの歴史」があると言うこともできます。

つまり、自傷行為を客観的に捉えると「苦しさの経緯が長い」という意味も付与されると考えてよく、こうした「苦しさの経緯が長い」状況では、「死にたい」と思うこともなんら不思議ではありません。

この「死にたい」という思いの背景には、自分一人で抱えてきたが限界を迎えている、どう頑張っても状況が変わらないという諦観、否定的感情を自分のうちに抱えてきたことによって生じる否定的な自己認知、などが複雑に絡み合っており、それ自体が当人の苦しみの歴史を表しているとも言えます。

ですから、選択肢①のように「希死念慮の有無についてAに問うことは控える」のではなく、その「死にたい」という思いを自然なものと見なし、その背景にあるAの歴史に思いを向けながらやりとりすることが重要になります。

「希死念慮について話題にすること自体が死を近づけるのではないか」という恐れを多くの人が持つようですが、希死念慮を話題にしないということはAの上記の苦しみに「触れない」ということであり、そうした「触れない」というスタンスは、過去のAの周りにいた大人たちがAを孤独にしたスタンスと重なるものになる恐れもあります。

ですから、Aの「死にたい」の奥にあるだろう様々な思いをやりとりするという支援者としてのスタンスを示す意味で、きちんと「希死念慮の有無についてやり取りする」ということが重要になるわけですね。

また、こうした自傷行為に含有されている意味を踏まえれば、選択肢②の「Aが手首を傷つけないようBに指導を依頼する」というのもあり得ないことがわかりますね。

そうした表面的な対応は「問題の出口」を塞ぐだけであり、問題の出どころにアプローチしていませんから、結局は「他の出口」が出来上がるだけというリスクもあります。

重要なのは「問題の出どころ」を認識し、そちらにアプローチすることと言えます。

これは選択肢⑤の「Bと連携してAがSNSのグループに入れるよう、親に働きかける」というのも同じく表面的な対応に過ぎず、問題を浅く捉えすぎですね。

Aのリストカットは「Aは孤立を感じ次第に登校が苦痛になってきた。厳格な親からSNSを禁止されており、いらいら感が高じ、自室にこもって、カッターで手首を傷つけるようになったという」とされておりますが、重要なのは「SNSを巡る孤立感が、これまでAが感じ続けていた孤立感と相似形を成しており、積み重なった孤立感が噴出し、その対処としてリストカットが行われた」という認識だと思います。

「親が厳格である」という記述がありますが、その中でAがどういった体験をしてきたのか、厳格さの中でAが自分の思いを受け取ってもらえず孤立を感じていたのではないか、その孤立感がSNSを巡る出来事をきっかけとして噴出したのではないかという考えを持っていれば、SNS云々の対応に力を注ぐのは「問題の見立て」として不適切であると言えます。

ちなみに「厳格である」ということ自体は、少なくとも言葉だけを捉えれば問題ではありませんが、重要なのはその中で「Aがどういった体験をしてきたか」になりますね。

以上を踏まえれば、選択肢①、選択肢②および選択肢⑤は不適切と判断できます。

③ 直ちにAを精神科に紹介し、主治医の指示を待つ。
④ Aの自傷行為の習慣性についてのアセスメントを行う。

どのタイミングで精神科を紹介するかは明確な線引きが難しいところですが、少なくとも現時点では「リストカットをしている」という事実しかわかっていません。

Aのリストカットやその背景にある精神状態を把握し、判断すべき事項であると言えます。

ですから、選択肢④の「Aの自傷行為の習慣性についてのアセスメントを行う」というのは、そのままスクールカウンセラーが対応できるか、それとも別機関を紹介する方が望ましいかを考える上で重要な情報と言えます。

一般的に自傷行為をしている頻度が多く、期間も長い方が重症であると言えますし、自傷行為と関連しやすい解離の機制も出やすくなっている可能性もあります。

それ以外にも、自傷行為をしている場所、傷のつけ方(整然と並んでいるか、衝動的な傷跡か、何を使っているか等)やその他さまざまな事柄(親は自傷行為を知っているのか、知っているうえでカッターなどを持たせているのか、周囲に見せているか等)などを複合的に考え、見立てていくことになります。

ですから、現時点では選択肢③のように「直ちにAを精神科に紹介し、主治医の指示を待つ」とするほどの情報がない状況ですし、そもそもスクールカウンセラーとの面接になっているわけですから、Aの状態を見立てることが優先的に行われるはずです。

精神科を紹介するかどうかは、その見立て次第で考えていくべきことであり、「自傷行為をしているから精神科」というのは単純すぎます。

自傷行為であってもスクールカウンセラーとのやり取りで対処できる場合も少なくありませんし、特に自傷行為のエピソードが単発的であり、何かの事情と絡めて起こっていると見なせれば、とりあえずは本人へのカウンセリングと保護者への助言で改善することも少なくありません。

とりあえずは現時点では、Aのアセスメントを優先するということになりますね。

以上より、選択肢③は不適切と判断でき、選択肢④が適切と判断できます。

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