公認心理師 2019-105

問105は学校領域における危機介入に関する問題ですね。
SCとして緊急支援の経験がある人は比較的有利な問題だったかもしれません。
ですが、そこまで緊急支援の専門的な知識が問われているというわけでもないと思います。

問105 小学5年生のある学級の校外学習において、児童が1名死亡し、複数の児童が怪我を負うという交通事故が起こった。事故後4日が経過した時点で、学級会で公認心理師が話をすることになった。
公認心理師の行動として、最も適切なものを1つ選べ。
①全員から今の心境や思いを話してもらい傾聴する。
②全員が強いトラウマを受けていることを前提として話をする。
③悲しみや怒りが一定期間続くことは自然なことであると伝える。
④全員がこの悲しい出来事に対処できる力を持っていると伝える。
⑤軽傷で済んだ児童に、生きていて本当に良かったと言葉をかける。

この問題は「学級会で公認心理師が話をする」という状況の認識も大切になります。
個別対応なのではなく、傷つきの水準が異なる児童が混在しているという状況ということです。
求められるのは、そういった水準の異なる児童がいる中での全体的なアプローチを理解しているか否か、ということですね。

解答のポイント

状況を読み、求められている役割を認識できる。

選択肢の解説

①全員から今の心境や思いを話してもらい傾聴する。

この選択肢で思い起こされるのがサイコロジカル・ファーストエイドですね(過去問でいっぱい出ています)。
そしてサイコロジカル・ファーストエイドと併せて出題されやすいのが、心理的デブリーフィングに関してです。
外傷的出来事からそう時間が経っていない段階で、外傷的出来事について語らせることに関しての問題が指摘されています。
本事例でも、事故後4日という段階ですから、「今の心境や思いを話してもらい」というのは拙速な印象が強いです

また、本選択肢の問題はそれに留まりません。
「学級会」という場で「全員から」というのは、明らかに問題のある対応と言えるでしょう。
他の問題でも繰り返し述べていますが、外傷的出来事とは受身的体験であるという前提があり、その改善は受身が能動に変わっていく過程であると言えます。
外傷的出来事を能動的に語るための第一条件は「安全であること」ですから、学級会という場で全員からという状況設定は明らかに誤りと言えるでしょう

よって、選択肢①は不適切と判断できます。

②全員が強いトラウマを受けていることを前提として話をする。

外傷的出来事に対する反応は人によってかなり異なります。
実際に強いトラウマを受けている人もいれば、それほどのショックを受けていない人もいるでしょう。
そもそも状況が「ある学級の校外学習」ですから、全員がその状況を見たとも言えないでしょう。
つまり、その個人の反応性の違いと、外傷的出来事という状況の違いという2つの水準の違いが存在することになり、それ故に「全員が強いトラウマを受けている」という前提は現実にそぐわないものであると見なすことができます

そういう状況下において「全員が強いトラウマを受けていることを前提」とすると、「強いトラウマは受けていないけど、それなりにショックを受けている」という人たちへの対応を取りこぼすことになってしまいますね。
もちろん強いトラウマを受けている児童への対応は急務ですが、本問の状況は「学級会で公認心理師が話をする」というものですから、もっと全体的なケアに関する対応が求められるでしょう
この点については、他選択肢で詳しく述べていくことになります。

また、生き残った人たちには、彼らなりの苦悩があります。
いわゆるサイバーズギルトは、生き残ったということに対する罪悪感ですね。
児童の中には「自分のせいで事故が起こったのではないか」「自分が防ぐことができたのではないか」「助けを呼びに行けば良かったのではないか」などのように、非合理的な自責感を生じさせることもあります。

外傷的出来事に関しての心的被害は、本当に人によってさまざまです。
「全員が強いトラウマを受けていることを前提」とすることで、そこまでのショックを受けていない児童に疎外感・孤立感を生じさせます。
更に「ショックを受けているけど、そこまでではない」という児童が、「もっとつらい人もいるのだから」と自分の苦しさを押し殺してしまう可能性もあります
問題の状況では、もっと広い意味での心理的ケアが求められていると言えるでしょう。

以上より、選択肢②は不適切と判断できます。

③悲しみや怒りが一定期間続くことは自然なことであると伝える。

まず、「学級会で公認心理師が話をする」という状況から、何が求められているのかを考えてみることが大切です。
他の選択肢の解説でも述べていますが、こういう出来事による心的外傷の程度は児童によって様々です。
学級会で話をするということは、その場にはさまざまな傷つきの水準の児童たちがいるということになりますね。

傷つきの程度が強くない児童~非常に強い児童までいる状況では、そのいずれかの水準に限定したアプローチは不適切と言えます。
つまり「軽傷を負った児童」「無傷だったけどその現場を見ていた児童」「無傷でしかも現場を見ていない児童」などがクラスには混在しているはずであり、そのいずれかの児童に限定したアプローチを行う場ではないという認識が公認心理師には求められます

言い換えれば「軽傷を負った児童」「無傷だったけどその現場を見ていた児童」「無傷でしかも現場を見ていない児童」のいずれのパターンにも通用するようなアプローチが求められているということになります。
もちろん、心理的な観点からすれば、例えば「無傷でしかも現場を見ていない児童」だからといって心理的な傷つきが小さいと見るべきではありません。
亡くなった児童と親しい場合などもあり得ますし、心理的な傷つきは人それぞれで違うものですし、無傷であるということに関する複雑な心理もあります。
こうした様々な水準の傷つきに対応するような言葉かけが、学級会で話をする際には求められるでしょう

これらから導かれる対応は以下のようなものになると思います。

  • こうした状況による反応は人それぞれであること。
  • 哀しい気持ちになったり、怒りが出てくることもあり得るし、それは自然な反応の一つであり、そう感じることは何も問題ではないこと。
  • 担任をはじめとした教員や、スクールカウンセラーも皆さんをサポートしたいと思っているし、いつでも話をきく準備があること。

このように伝えることで、それぞれの傷つき水準の児童が、それぞれに相談したりサポートを受けるという体制を整えやすくなります。
また、自分たちに生じていることがおかしいことではないのだ、という認識を持つことで不要な自己否定などを防ぐ効果もあるでしょう。
できるだけ児童たちが援助希求行動を取りやすくすることが重要である、ということですね。

以上より、選択肢③が適切と判断できます。

④全員がこの悲しい出来事に対処できる力を持っていると伝える。

「全員がこの悲しい出来事に対処できる力を持っている」という考え方自体はレジリエンスを基盤としたものと考えられますが、この対応は選択肢②とは逆で、本当につらい人が声を上げづらくなってしまいます。
「対処できる力を持っている」という伝え方は、対処できないのはおかしいというメッセージにもなり得るためです。
言われた側からすれば「この苦しみを自分で対処しなければならないんだ」と思われる可能性もありますね

むしろ「学級会で公認心理師が話をする」を踏まえると、つらい人が声を上げやすい状況を構築することを目的として話す方が望ましいと言えます
外傷的出来事に対する反応は人それぞれですから、苦しくなった人がそれを保持しすぎて悪化する前に声を上げられるようにしておくことが大切です。
本選択肢の対応では、むしろ声を上げにくくしてしまう可能性がありますね

以上より、選択肢④は不適切と判断できます。

⑤軽傷で済んだ児童に、生きていて本当に良かったと言葉をかける。

そもそも、学級会という全体の場で「軽傷で済んだ児童」を対象とした言葉を伝えるのは問題です
もっと全体へのケアを考慮したアプローチが重要でしょう。

また、先述のように、生き残った人には生き残った人の苦悩があります。
軽症とはいえ、彼らの目の前には死があったわけです。
「生きていて本当に良かった」というのは自然な心情ではありますが、全体的な場で伝えるべきではないという点、生き残って「しまった」という状況に起因する罪悪感などに目を向けた支援が必要であるという点で、本選択肢の対応は不適切と言えるでしょう
個別の支援であれば「生きていて良かった」と伝えること、生き残るということによって生じる苦しさもあることなどが共有できるかもしれませんが、本問の状況は全体的なアプローチですからね。

また、軽傷を負った児童は、自分が死ぬかもしれなかったという恐怖、実際に怪我を負った際の記憶、怪我を負って苦しいけど死んだ人がいるという状況では言いづらい、などの複雑な思いがあるものです。
これらを細やかにケアしていけるような状況につなげるための全体的なアプローチが公認心理師には求められています。

以上より、選択肢⑤は不適切と判断できます。

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