公認心理師 2018追加-149

15歳の女子Aの事例です。

事例の内容は以下の通りです。

  • 最近、成績が下がっているため中学校の相談室の公認心理師に初めて相談に来た。
  • Aは成績低下の理由として、「集中力が落ちて勉強が手につかず、塾に行ってもほとんど頭に入ってこない」と話した。
  • 次第に口数が少なくなり、「両親が離婚を話し合っているため、自分の将来が不安で仕方ない」と絞り出すように言って涙をこぼした。
公認心理師のAへの言葉として、最も適切なものを1つ選ぶ問題です。
スクールカウンセラーの事例ということになりますね。
教育領域の基本的な立場として、当たり前ですが、家庭内の出来事に対して軽々に手を加えることはできません。
本問で言えば、両親の離婚それ自体について口出しすることはできないのは自明ですね。
臨床実践全般に言えることですが、今置かれている状況を適切に認識し、その中で自分の責任でできることを考え、その中で最も支援につながると見立てられる対応を採っていくことが重要になります。
本問においては、どういったことが公認心理師の立場でできることなのかを考えつつ解いていきましょう。

解答のポイント

事例Aの悩みについて適切に捉えること。
選択肢一つひとつの是非について、自分なりに説明できること。

選択肢の解説

『①勉強が手につかないことは、辛く苦しいですね』

この対応は明らかにAの苦しんでいるポイントを見誤っています。
Aが苦しんでいるのは成績の下降ではなく(もちろん、それもないとは言いませんが)、両親の離婚やそれに伴う将来への不安ですね。
Kannerの症状の意義を振り返っておきましょう。
症状には以下のような意味があるとKannerは述べました。
  1. 入場券としての症状
  2. 危険信号としての症状
  3. 迷惑事としての症状
  4. 問題解決の企図としての症状
このうち、第1項の「入場券としての症状」とは、映画の入場券を見ても映画の内容がわからないのと同じで、その症状だけを見てもどういう問題であるかを把握することは難しいということです
「成績が下がっているため」という理由は典型的な「入場券」であると言えます。
本選択肢の対応は、クライエントAが「映画の中身(本当の悩み)」を話しているにも関わらず、カウンセラーは「映画の入場券(いわば建前上の悩み)」にアプローチしてしまっているという両者のコミュニケーションの齟齬が目立つ対応ということになります
余談ですが、今はあんまりKannerの症状の意義などは教えないのかもしれないですね。
(教えているけど覚えていないということもあるのでしょうけど…)
古典的な概念ではありますが、それは言い換えれば人間という存在に関する共通した面を概念化したという見方もできるでしょう。
10年後も通用する概念は50%程度しかないという話ですが、ずっと残り続ける概念もあるだろうと個人的に思っています。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。

『②両親のことをここで話すことは勇気がいることでしたね』

本選択肢の対応が適切なものであると言えます。
それは「他の選択肢が適切でない」という消極的な理由ではなく、こういう対応をすることの重要性が明確にあります。
まず悩みを話すことは、かなり勇気がいることであると知っていることが重要です
「何でも話して」「悩みがあったら話してください」と軽々に言えるのは、悩みを話すことへの怖さについての思慮が足りないと思います。
自分の悩みを話すということは、自分の内にある無防備な部分を見せることになります
それは「自分の思いを受け容れてもらえなかったときの苦しさ」が強いことを意味します。
例えば、「そういうこともあるから仕方ない」「でもあなたの人生なんだから」などと言われてしまうことだって考えられるわけです(そんなことを言う人がいるのか、と思うようなことですが、そういうことを言う人はいます)。
悩みを話すということは、自分を無防備な世界に置くことですから、話すことにはかなりの葛藤があって当然です。
また、自分の悩みというのは、どこか汚いもののように感じてしまい、それを見せるのが申し訳ないという気持ちになる場合もあるでしょう。
本事例のような離婚の問題については、世間的に言うことが憚られるというのも中学校3年生の思考としては当然あるでしょう。
いずれにせよ、Aにとって両親の離婚やそれに伴う不安を表現したのは、かなりの葛藤の末に生じたことであると見なすことができますね
さて、こうした悩みが表現された際に、よくやるのがすぐにその中身を話題にしてしまうことです。
もちろんそれもあり得るのですが、もっと丁寧にAの不安を汲み取っていくことが適切です。
それは「悩みを話す」ということに関しての葛藤・戸惑いなどを理解するように努め
、その上でそれらを汲み取ることであり、具体的には本選択肢の「両親のことをここで話すことは勇気がいることでしたね」という言葉になると思います
こういうアプローチをしておかないと、Aは「悩みについて話すかどうかの葛藤があるまま」に悩みの内容を聞かれていくことになる可能性があります
そうなると、Aが自身の悩みを細やかに表現することがしづらくなることも考えられます。
Aにとっての「今ここ」での葛藤は、「悩み自体を表現するか否か」ということであると考えられますから、まずはそこに関わろうとするのが精神的なアプローチの順序と考えられます
神田橋條治先生の「治療のこころ 巻二・精神療法の世界」の中に「入口でのためらい」という箇所があります。
これはカウンセリングへのためらいをきちんと共有しなかったために、見かけ上はさまざまな生活上の向上は生じても、根本的に完成に向かっていないような感じをカウンセラーとクライエントの両者が持ち続けているという内容です
クライエントの治療に入っていこうかな、止めようかな、ちょっと怖いな、受け容れてもらえるかな、という気持ちを持っています。
これはリアリスティックな迷いですが、クライエントによってはここに病理的なものが加わります。
リアリスティックな迷いにアクセプトしていく中で、この病理的なものにアプローチすることが可能になるとも言えますね。
神田橋先生はこれらをまとめる形で「here and now, now and hereを無視して行われている治療というものは、統合のための核を、分析成果が凝集していくための核を、あらかじめ失っているということです」としています。
このようなことから、選択肢②にある言葉は公認心理師のAへの言葉として適切なものであると言えるわけですね。
よって、選択肢②が適切と言えます。

『③成績は落ちても努力すれば、またすぐに上がってきますよ』

選択肢①でも述べたように、Aは両親の離婚や将来の不安によって勉強が手につかなくなっています
成績の下降はその結果であって、あくまでも悩みの中核は別のところにあることはわかるでしょう。

もちろん中核的な悩みに触れることが適切でないクライエントやタイミングもあります。
しかし、Aは「絞り出すように言って涙をこぼした」と悲壮に訴えているように読み取れます。
こうした場合に、成績に関するやり取りに終始するのはAの思いに報いる対応とは言えないでしょう

本選択肢の対応は、Aが成績が落ちて苦しんでいる時にする検討する助言になるかもしれません。
ただし、たとえAが成績の下降で落ち込んでいたとしても、本選択肢のような安易な慰めはしないと思います
そもそも「すぐに上がってきますよ」という根拠はどこにもないわけですから、専門家はそんな無責任なことを言ってはいけませんね。

ちなみに「慰め」「励まし」という行為は、心理的支援においてはそれほど力を発揮するものではありません。
健康な人であれば慰められることで元気が出ることもありますが、多くの心理的問題を抱えている人は慰めによって改善することはありません。
そもそも「慰め」「励まし」には、心を鎮めようとする、なだめて落ち着かせる、元気をつけようとする、という意味がありますが、いずれも「現在の状態から別の状態へ移行させようとしている」というアプローチです。

それは突き詰めれば「現在のあなたではない状態のあなたを望んでいる」ということです。
それよりも、いま現在のその人の姿を受け容れること、認めることの方が困難ではありますが大切なことだと思われます。

以上より、選択肢③は不適切と判断できます。

『④自分もまったく同じことを経験して苦しみましたが克服できました』

まずは「自分もまったく同じことを経験して」ということはあり得ないということがわかりますよね
出来事が類似したように見えても、その前後関係や実際に話し合われている内容、そしてその場にいるA本人の感じ方は「まったく同じ」というわけがありません。

こういうことを伝えるマイナスとしては、参っている状態の人を過度に依存させる可能性があること、そして関わっていくうちに「同じ体験なんてしていないじゃないか」ということがやり取りの齟齬で見えてきてクライエントが傷つくこと、それによって心理的支援に全般に対する拒否感が生まれかねないこと、などでしょうか

ただし、クライエントとの同型的体験の重要性は、成田善弘先生が「精神療法家の仕事」の中で示されています。
「患者の経験と同型の経験を自分の中に見出した時に、はじめて患者の気持ちがわかったと感じられる」としており、更にこうした「同型的な経験」については「治療者が自分の心をよく耕していれば、患者の話をきくうちに同型的な経験がおのずと連想されるようになる」としています。

このように、類似な体験を自分の内に見つけること自体も、カウンセラーとしての修練が必要であることがわかります。

クライエントの体験と同型的な体験を自分の内から探し出そうとすること、クライエントとそれこそ同じように感じることやそれを目指すことは大切ですが、同時に「まったく同じ体験ではあり得ない」という思いを持っているからこそ安易な当てはめに走らずに済むのだと思います。

また、自分がクライエントと同じ経験をしていることを明示するだけならともかく、それを「克服できた」と言うことに何の意味があるのか疑問です
その言葉を口にした瞬間、「現在苦しんでいるクライエント」と「その苦しみを克服したカウンセラー」という平等とは程遠い関係性を生じさせるように思います
端的に言えば「克服できた私と、できていないあなた」という上下関係を連想させるような言い方であると考えられます。

以前、後輩に資格試験の勉強を教えているとき、しかもこれから半年間ほどの勉強をしていくという4月の段階で、とある先生が「私は試験前1週間の勉強で受かりましたよ」と話されました。
「あなたたちがこれから半年かけて勉強するようなことを、私は1週間で何とかできるんですよ」というメッセージですよね。

こういうメッセージって受け取る側からすると、とてもエネルギーが奪われてしまうものです。

言う側は「励ますため」「自分もできたからあなたもできる」という意味を込めていると主張するでしょうが、どのように受け取るかは相手次第なわけです
内田樹先生はハラスメント的発言をする人たちについて「彼らは問題が起こると必ず「そんなつもりで言ったんじゃない」という言い訳をします。なんでそんなひねくれた解釈をするのだ、と驚いてみせる。でも、そういう解釈可能性があるということを勘定に入れずに、あるいはそうと知りながら、人を傷つけかねない剣呑な言葉を口にしたわけですから、そういう人は明らかにコミュニケーション能力に欠けている」(内田樹講演集 日本の覚醒のために)と述べておられます。

このことは別にハラスメント加害者だけでなく、人とのやり取り全般に言えることだと思います。
相手がネガティブに解釈する可能性がある言葉を言ったわけですから、それは言った側に責任がある。
人とのやり取りを通して支援を行う専門家には、こうしたコミュニケーション能力がきちんと担保されていないといけないですね。

話を事例に戻すと、「あなたが今感じている苦難を、私は既に克服してますよ」ということを言う必要は全くないと言えますね

以上より、選択肢④は不適切と言えます。

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