公認心理師 2019-62

問62は臨死の体験をした人の心理状態を理解した上で、その対応を問う内容になっています。
どうやってこのクライエントの心理状態を描き出すか、ということが大変でした。
そもそも「どんなに言葉を尽くそうが描き出せない世界にクライエントは居るのかもしれない」と思うのですけれども。

問62 31歳の女性A。身体疾患により一時危篤状態となったが、その後回復した。主治医は、再発の危険性はないと説明したが、Aはまた同じ状態になって死ぬのではないかと不安を訴え、ベッドから離れない。病棟スタッフからはリハビリテーションを始めるよう勧められたが、かえって不安が強くなり、ふさぎ込む様子がみえたため、主治医が院内の公認心理師に面接を依頼した。
 公認心理師がまず行う対応として、最も適切なものを1つ選べ。
①心理教育として死生学についての情報提供を行う。
②不安を緩和するためにリラクゼーションを行う。
③再発や危篤の可能性が少ないことを引き続き説得する。
④面接の最初に「あなたの不安はよく理解できる」と言う。
⑤死の恐怖とそれを共有されない孤独感を話してもらい、聴く姿勢に徹する。

こういう設問では、「その対応を採るということは、背景にどういう見立てがあるのか」を考えておくことが大切になります。
見立てには、そのカウンセラーの知識・経験・現在のクライエントへの理解という、いわば「カウンセラーとしての力量」が現れます。
そのことを自覚しつつ、日々の見立てを行っていきたいですね。

解答のポイント

クライエントに起こっていることを考えられること。

選択肢の解説

①心理教育として死生学についての情報提供を行う。

この対応はどういうときに採られるものかを考えてみることが大切です。
この状態のクライエントに「死生学についての情報提供を行う」ということは、それをすることで現在の強い不安、ふさぎがちでリハビリにも向かない状況が好転すると見立てているわけです

まずは死生学という学問についてです。
死生学は死生観を哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教・芸術などの研究を通して、人間知性に関するあらゆる側面から解き明かし「死への準備教育」を目的とする学際的な学問です。
クライエントにこの死生学に関する「情報提供」を行うことで改善すると捉えているということです。

これは明らかに事例の状態を見誤っていると言えますね。
他の選択肢にも共通して重要なことですが、まずはこのクライエントに生じていることは何なのかを推測してみましょう。
心理療法という営みに限らず、多くの人がより良い未来を望み生きています。
その中ではしばしば、限りない未来が想定され、死は無視されています。
しかし、本事例では臨死の体験をしたことで、その死が無視できない形で眼前に迫ってきたわけです

それはたとえ今は生きていても、いつかは死ぬということ、それが1秒後ではないという保証はどこにもないこと、死は常に傍に居るということを生身の実感として、このクライエントは体験したわけです。
クライエントは、これまで強固な地盤を有していると思っていた世界が、足元から崩れるような、文字通り世界が揺さぶられるような体験をしていると思われます
これらはいわば「これまで生きてきた世界を喪失した体験・実感」であり、そういう体験・実感に伴う諸々の感情が「また同じ状態になって死ぬのではないか」という不安として事例では顕在化していると考えられます

こうした実感は論理を超えたものであり、決して「情報提供」という対応で抱えられるようなものではありません
医師の「再発の危険性はない」という説明も実感から遠いものだったでしょうし、病棟スタッフによるリハビリの勧めは、自分だけを置いて世界が先に進んでしまっているような感覚を生じさせたかもしれません。

ただ、こうした「これまで生きてきた世界を喪失する」という体験は、死に際した場面でしか生じないかと言われれば、それは誤りです。
大小深浅の差はあれ、心理療法のあらゆる場面で、実はこれと類似したことが生じます。

例えば、心理療法における洞察の過程も、実は喪失体験です。
洞察は「これまでの自分」に対する絶望と喪失とを体験することです。
洞察では「そんな自明なことをわかっていなかった」という思いを生じさせ(カウンセリングにおける洞察とは「自明なことに気づいていなかった」という体験です)、それはすなわち「そんなことにさえ気がついていなかった自分」への絶望とこれまでの自分との別離とが同居した体験となるのです。
(ちなみに私は夜寝て朝起きるのも「死と再生」だと思っていますよ)

いずれにせよ、こうした「世界の喪失」に際しては、大きなもがきの過程が伴うだろうと予測されます。
ここで起こるクライエントのもがきは、怒りを含めた感情(例えば、何でこんなことになったのか、どうして自分にこんなことが起こるのか、など)の表出と、非喪失状態への未練(例えば、前まではこんなじゃなかったのに、など)から構成されています

こうした状態に対しては、支え・抱えられることが支援の100%近くを占めることになるはずであり、情報提供といった「揺さぶり」は不要です
※情報提供は心理療法において「刺激物」であり「現状を揺さぶるもの」です。新しい情報を入れるのは、現在とは異なる状態を指向するためなわけですから。それがどんなに「優しい情報」であっても「刺激物」であることには変わりません。

十分に支え・抱えられることで、噴出する感情の的の役を引き受け、未練に付き合い、浮き出てくる無力状態を抱え、気力の自然回復までの時間稼ぎの役を引き受けるのが、ここで支援を依頼された公認心理師の役割です

以上より、死生学に限らず、情報提供という対応自体が本事例のクライエントの状態にそぐわないものと見なすことができます。
よって、選択肢①は不適切と判断できます。

②不安を緩和するためにリラクゼーションを行う。

こちらの対応は以下の2点から除外されます。

まず1点目は、リラクゼーションをはじめとした心理療法の技法に関する根本的な見誤りがあるということです。
本事例のクライエントが示している不安は、そんなに不合理なものでしょうか?
この状況でクライエントが事例のような反応を示すのは、いわば「異常な状況下での正常な反応」とは言えないでしょうか(ここでの「異常」は文字通り、常と異なる、という意味です)

クライエントの反応が正常なもの、「こころという側面」から見て合理的なものであれば、心理支援で求められるのは「変えようとすることではなく、その状態に付き合い、抱える環境の一部となる努力をすること」です
正常な反応を変えようとすることは、それ自体がクライエントの命を歪める行為であり、心理支援とは逆のベクトルの行為になりかねないと自覚しておきましょう。

そして2点目は、選択肢①で示したような心理状態と考えられるクライエントに「リラクゼーション」を提案することの意味を理解していないということです。
リラクゼーションの提案は「不安を緩和していきましょう」「あなたの不安はネガティブなものだよ」という、こちら側の意図があって行われるものです。
しかし、それは先述したようなクライエントの「もがきの過程」に付き合おうとする姿勢の欠如を暗に示しており、クライエントの孤独感を深める結果になると考えられます

以上より、選択肢②は不適切と判断できます。

③再発や危篤の可能性が少ないことを引き続き説得する。

この対応は「クライエントが再発の危険性はないという医師の説明を、きちんと理解できていない。だからそれを細やかに伝えることによって、今の状態の改善が狙えるだろう」という見込みのもと行われるものです。
既に示した通り、このクライエントは「自分の状況を理解していない」ために現状のようになっているのではなく、むしろ「自分の状況をよく理解している」ためにこのような状態に至っていると見るのが適切です

また臨死の体験によって生じた種々の心理的混乱に対して、正しい知識や見解による「説得」という形で鎮めようとしても勝ち味は薄いものと思われます(そもそも人の精神を不用意に「鎮めよう」とするものではない)
どんなに「あなたは再発の危険性はない」と言われたとしても、クライエントは実際に死の淵に立ったわけです。
その実感に勝るものはないでしょう。

更に、クライエントの反応は「身体疾患による死」によるものではなく、「自分が死ぬということ」に関連していると考えられます。
クライエントがより広範な死のテーマに向き合っていると捉えると、いつまでもそのきっかけとなった身体疾患に対する「正しい見解」に終始するのは、見かけ上は正しくても、内的・心的な側面から見ると全くかみ合っていない行為であると言えます

以上より、選択肢③は不適切と判断できます。

④面接の最初に「あなたの不安はよく理解できる」と言う。

この対応は「クライエントは理解されたいと思っていて、理解されることで改善するだろう」「「理解しているよ」と言えば、それが伝わるだろう」という見解のもとで行われるものですね。
この2点について考えていきましょう。

まずはクライエントは「理解されたい」と思っているかどうかです。
そもそも、死のテーマはその人の自己の起源に関する神話と抱き合わせで進行します
神から生を授かった人は神に召され、土から生じた人は土に帰り、海から来た人は海にまかれ、一族の末端として生きた人は一族集団と合体し、無が起源の人は無に帰ります。
人は死に際して、こうした自己の起源と自己の生の意味とに関する神話を完成させようとします。

こうした自己の起源は、完全にその人オリジナルのものであり、また、どんな人とも簡単に理解し合えるような類のものではありません
このような内容に関する「理解」を「面接の最初」に伝えるというのは、あまりにも死(もしくは生)に対して軽く見た対応のように思えます。
また、多くの人は死のテーマに関しては「そう簡単に分かり合えないものである」という論理を超えた実感を持っているものです(それが「死ぬ時は一人だ」「死は孤独だ」という認識とも繋がっていきます)。
そういう「本質として分かり合えないものを「理解している」と伝える」という点で、まずこの選択肢の対応は不適切と言えると考えられます。

また、「理解してる」と伝えることで、それが本当に伝わるものでしょうか。
そもそもクライエントの内面に対する理解の深さ・適切さは、わざわざ言わなくてもカウンセラーの「言葉の内容以外」から必ず伝わるものです
それは「理解していれば言うはずのない質問・言葉を、確かに言わないでいること」「クライエントの語りのどの部分に反応するか、またはその仕方」「触れるべきことに触れ、そうでないことには触れないでおける態度」などから伝わります。

ある母子の会話。

  • 母:あなたのことを理解している。
  • 娘:お母さんは全然わかってない。
  • 母:いや、ちゃんとわかってるよ。
  • 娘:そんなふうに簡単に「わかってる」と言えること自体、わかっていない証拠。
このように、「理解している」という言葉は、時に「無理解の表明」となるのです。
逆説的ですが「本当に理解しているならば、「理解している」などという言葉を簡単に言えるはずがないということがわかるはず」なんです
このように簡単に「理解を表明しよう」とする心理の背景には、カウンセラーとして何もできないという無力感に耐えられない、無力であるとクライエントから見限られてしまうという不安、などがあるように思えます。
その無力感を払拭し、クライエントを引き留めるために「私はあなたを理解している」という不適切な言葉を言ってしまうのではないでしょうか。

「優れたカウンセラーは「わからない」という言葉で勝負する」というのは河合隼雄先生の言葉です
これは「わからない」と連発すれば良いというわけでは当然ありません。
カウンセラーとして間断なく学び、研鑽を積み、目の前のクライエントの内面を理解しようと努め、それでも理解できないという事実に向き合い、絞り出すように「わからない」と伝えることが大切です。

クライエントは「簡単に理解されてなるものか」という心理を持ってます。
それは「自分の悩みは自分固有のものである」という、ある種のアイデンティティと絡む心理ですから、本質としてはネガティブなものではありません。
上記のようなカウンセラーの「わからない」という表明は、クライエントを一個のアイデンティティを持つ人間として認めていることになると同時に、わからなくてもクライエントの悩みと一緒に居ようとするカウンセラーの人としての強さの表明になるのです。

以上より、選択肢④は不適切と判断できます。

⑤死の恐怖とそれを共有されない孤独感を話してもらい、聴く姿勢に徹する。

クライエントは、自身に起こったことをきっかけに「これまで生きてきた世界を喪失する」=「死の恐怖」を体験しています
また、こうした「死の恐怖」は、本質として簡単に理解できるようなテーマではありませんから、基本としてクライエントは「孤独感」を抱えています
病棟スタッフのリハビリの勧めは、ごく一般的な対応であり責められるものではありませんが、結果として「わかってもらえない」という孤独感を高める結果となったでしょう。
「共有されない孤独感」とありますが、実は「共有されない」ことが基本なんです、こういうテーマに関しては。

こうしたテーマと向き合うクライエントへの支援では、支え・抱えられることが支援の100%近くを占めることになるはずであり、情報提供といった「揺さぶり」は不要です
価値観の修正や、カウンセラーの意見を差し挟むことは、決してクライエントの支援にはなりません。
十分に支え・抱えられることで、噴出してくる死の恐怖と孤独感にまつわる種々の反応を引き受け、付き合い、抱え、気力の自然回復までの時間稼ぎの役を引き受けるのが、ここで支援を依頼された公認心理師の役割です
言葉で示すなら「聴く姿勢に徹する」ということになるのでしょう。
しかし「聴く姿勢に徹する」ということは、無力感に耐えうる肺活量を持つか否かによってその成否が決まることを理解しておくことが大切です。

以上より、選択肢⑤が適切と判断できます。

ちょっと引っかかるのが「死の恐怖とそれを共有されない孤独感を話してもらい」という部分です。
もちろん「死の恐怖」や「共有されない孤独感」を持っているだろうという見立てをしていることは重要ですが、クライエントが話す内容はこちらが決めるものではありません。
ベッドサイドでクライエントが語る中で、自然と表現されるべきものです。
とは言っても、不適切となるほどの問題ではないでしょうし、他の選択肢との比較でも、本選択肢が最も適切と見なすのが妥当ですね。

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