公認心理師 2020-37

 ヴィゴツキーの発達理論に関する理解が問われている問題です。

各概念をぶつ切りで覚えておくのではなく、相互に関連し合ったものとして包括的に理解する方が覚えやすいかもしれません。

また、他の理論家との相違についても把握しておくと、より立体的な理解になるでしょう。

問37 L. S. Vygotskyの発達理論に含まれる概念として、不適切なものを1つ選べ。

① 内言

② 自己中心性

③ 精神内機能

④ 高次精神機能

⑤ 発達の最近接領域

解答のポイント

ヴィゴツキーの発達理論に関して理解している。

ヴィゴツキーとピアジェの理論的相違を把握している。

選択肢の解説

① 内言

ヴィゴツキーは、言語は社会的な意味をやり取りする主要な手段であるので、言語発達を認知発達の中心的課題と考えました。

事実、彼は言語習得を子どもの発達の中でも最も重要な側面として見なしています。

ヴィゴツキーは、言語を内言と外言に分けました。

簡単に言えば、内言は自分への言語であり、外言は他人への言語であるというのがヴィゴツキーの主張です。

ただし、発達の初期からこうした弁別があるのではなく、子どもが最初に用いるのは外言だけであるが、そこから自分への言語と他人への言語とが独立してくるのです。

内言は、音声の伴いを必要としない自分自身のための内的言語であり、主として思考の道具としての機能を果たしています。

何かの問題について解決の糸口を掴もうとするとき、新しい仕事のプランを立てるとき、昨日の出来事の意味を考えるようなとき、内言による思考が展開しているわけです。

またこの他の内言の重要な特徴として、述語主義的傾向であることが挙げられます。

内言は、他者に発する言語表現のように文章にはならず、述語のみで構成されており(○だ、来たなど)、内言の場合には必ず現れる傾向とされています。

即ち、内言では外言に比べ単語の省略や短縮が起こるが、それは単なる省略や短縮ではなく、述語主義的傾向への変化であるとヴィゴツキーは見なしました。

外言とは他人に向かって用いられる音声言語であり、主として伝達の道具としての機能を果たします。

従って、外言は、その構文や意味内容に関して常に相手にわからせるための配慮が払われているのに対し、内言では文章が著しく圧縮・省略されていて、その内容を第三者が理解できない場合が多いとされています。

このように、内言はヴィゴツキーの発達理論に含まれる概念と見なすことができます。

以上より、選択肢①は適切と判断でき、除外することになります。

② 自己中心性

まずはなぜこの選択肢が設定されたのかを説明しましょう。

ヴィゴツキーの理論の中には後述する「自己中心語」という現象があります。

この「自己中心語」について、ヴィゴツキーとピアジェでその発生過程に関する考え方が異なっており、その点を理解しておくことが学ぶ上では大切です。

また、本選択肢の「自己中心性」はピアジェの示した概念ですが、ヴィゴツキーの「自己中心語」と似通った表現なので、この辺の弁別ができていることが求められているということでしょう。

つまり、本選択肢を知的に除外することができるということは、ヴィゴツキーとピアジェの意見の相違についても理解しているということであり、その点を狙った選択肢であろうと考えられます。

このことを前提として、ヴィゴツキーとピアジェの理論の相違を以下に示していきましょう。

外言と全く違った内言の構造的特質の研究でヴィゴツキーが鍵と見なしたのは「自己中心語」でした。

彼は子どもの観察や実験を行った結果、自己中心語の特質として以下の三つを挙げました。

  1. 自己中心語は子どもが一人でいるときではなく、同じような活動をしている児童集団の中で現れる。子どもを一人だけにしたり、見ず知らずの児童集団の中に置くと自己中心語は著しく減少する。
  2. 自己中心語が社会的言語を思わせる外言の性格をもっており、決して自分自身に向けて発語しているのではない。これは言葉の音声化を制限した条件での観察で、自己中心語が著しく減ることで確認された。
  3. 子どもは、自己中心語が周囲の人にも理解されているかのように信じ、考えている。子どもを聴覚障害児や外国の子どもと一緒にすると、自己中心語はほぼゼロになることから推定されている。

これらのことからヴィゴツキーは、自己中心語が外言から内言への移行過程であると位置づけました。

つまり、言語はまずコミュニケーションの道具(外言)として発生するが、人間の成長・発達の過程で思考の道具(内言)の働きを獲得すると考えたのです。

従って、外言から内言が派生する過程で、外言の形を採りながらも機能としては内言の働きをする言語が出現することがあるということです。

硬い言い方をすれば「自己中心語は、機能的には初めから社会的である言語が次第に個人化する過程で、まだ十分に個人化されていない時期に現れる現象」ということになります。

よく幼児が示す「独り言」のような発話がこれに該当しますね。

こうした自己中心語は、発達が進むと次第に観察されなくなりますが、その裏には「死滅ではなくて新しい言語の誕生が隠れている」とヴィゴツキーは述べており、自己中心語を言語機能の発達の重要な転換点を示す現象として位置づけています。

ではここからは、ピアジェの内言に関する考え方を詳しく見ていきましょう。

ピアジェは前操作期に見られるような集団の中にいても他者とのやり取りに無関係な発話を「集団的独語」とよび、「自己中心性」の現われと考えました。

前操作期では、物事を相手側の視点に立って捉えるという認識の仕方が育っておらず、物事を自分とは別の位置から見ている人にも、自分が見ているのと同じように見えていると考えてしまいます。

このように視点の移行ができず、自分の側からしかとらえられない現象をピアジェは「自己中心性」と名付けました。

一般的に理解されるような利己主義という意味ではなく、幼児が自分自身を他者の立場に置いたり、他者の視点に立つことができないという、認知上の限界を示す用語が「自己中心性」になります。

よって、ピアジェにとっての内言は他者に伝達するという機能をもたないものでした。

このように、ヴィゴツキーは幼児期の内言の発達の過程では、未分化で不完全な内言が発声され、これを「自己中心語」としたのに対し、ピアジェは、自己中心語は子供のひとり言であり、内言が漏れたもので非社会的言語と見なしました。

この違いは、ピアジェは構成主義の立場で個々人の頭の中の認知的発達に着目しているのに対し、ヴィゴツキーは社会構成主義の立場で社会的な交流を通しての発達に着目しているという立場の相違から生じているのかもしれません。

ピアジェが子ども自らが成長していくという面を強調したのに対し、ヴィゴツキーは外部の刺激を取り入れ自分の内に融け込ませるという外的要因を強調しているのです。

おそらくピアジェが子ども自身の成長を強調したのは、ピアジェ自身が非常に高い能力を備えていたことと無関係ではない、と私は考えています(ピアジェは10歳で白スズメの観察論文を寄稿し、15歳で軟体動物の研究論文を出すなど、非常に早熟な動物学者だった。おそらくは、自身の発達によって様々な事柄を成し遂げてきたという感覚が強かったのではないか)。

上記の通り、「自己中心性」はピアジェの概念であり、これに基づいてピアジェは内言や自己中心語の意味を定めましたが、そこでの意見の相違がヴィゴツキーとの間にあったということになりますね。

以上より、選択肢②は不適切と判断でき、こちらを選択することが求められます。

③ 精神内機能
④ 高次精神機能

ヴィゴツキーの心理学を貫く人間観の中心的思想は、だいたい以下の三つにまとめられます。

  1. 人間の発達は外の世界との社会的相互干渉による。
  2. 人間の高次精神機能(思考や言語がその代表)は記号を媒介とした間接的活動としての特徴をもつ。
  3. 人間が発達する環境は歴史的=社会的な環境である。

このような観点から、ヴィゴツキーは高次精神機能の社会的起源とその構造の被媒介性についての研究を集中的に行いました。

彼は、人間の高次精神機能を生物学的ファクターと、文化的ファクターとの複雑な相互作用の結果だと考えていました。

文化的ファクターの中でもとりわけ重要だと考えていたのが言語であり、ヴィゴツキーの研究の中で言語に関する部分は重要な位置を占めていました(この辺は選択肢①にも示してあると思います)。

ヴィゴツキーはさまざまな実験を経て、子どもの発言は他人の注意を引こうとする内容から自分に向かう言葉、自分の知的活動を先導する内容に変化することを明らかにしました。

ヴィゴツキーは、この考え方を、心理機能は最初は精神間機能として現われ、その後初めて精神内機能になり得るという、更に一般化された理論として仕上げられています。

つまり、子どもは母親との会話や社会的な状況としての精神間機能を内化させ、自分自身への問いかけや指示出しなどの精神内機能へ転化させることで、高次精神機能としての思考などを行うようになると考えました(この説明として用いられるのが「内言」の発達変遷ですね)。

よって、思考はそもそも言語使用する場面で起こる相互作用と切り離せないものであり、「まず個人間で交わされる外言(精神間機能)から始まり、その痕跡が個人内に内化されることで内言(精神内機能)へと転化する」ということになりますね。

このように、「精神内機能」も「高次精神機能」もヴィゴツキーの発達理論に含まれる概念と言えます。

よって、選択肢③および選択肢④は適切であり、除外することになります。

⑤ 発達の最近接領域

ヴィゴツキーは発達を評価するときに大切なことについて以下のように述べています。

自分の果樹園の状態を明らかにしようと思った園丁が、成熟した、実を結んでいるりんごだけでそれを評価しようと考えるのは間違っている。それと同じように、心理学者も、発達状態を評価する時には、成熟した機能だけでなく、成熟しつつある機能を、現下の水準だけでなく、発達の近接領域を考慮しなければならない。

現在、知能テストによって子どもの知的発達水準を測定することがごく普通に行われていますが、ヴィゴツキーは発達過程と教育の可能性との関係を規定するためには、ただ一つの発達水準を明らかにするだけでは不十分で、少なくとも子どもの発達の二つの水準を明らかにすべきだと主張しました。

通常、発達水準の決定の指標になるのは、子どもが自主的に解いた問題であることが多いですが、これによって知ることができるのは、子どもが今日できること、知っていること、今日の子どもが既に成熟しているものだけです。

しかしながら、発達状態というものは、その成熟した部分だけで決定されるのではない、というのがヴィゴツキーの主張の一つです。

何もヒントを与えない状態で2人の子どもに知能検査を行い、知的水準が同じ8歳だとしても、彼らに問題に関するヒントを与えたら2人の解ける範囲が変わってきて、1人は12歳水準まで、もう一人は9歳水準まで解けるということが起こったとします。

こういうことはままあることでしょうが、このときにこの2人が同じ発達状態にあると見なすのは何か違う感じがあるでしょう(ヒントがあれば12歳級まで解ける方が、発達水準が高いと見なせる)。

ヴィゴツキーは、子どもが「自主的に問題を解いたときの水準」と「援助を与えて問題を解いたときの水準」との相違が「発達の最近接領域」を決定すると説明しています。

この「発達の最近接領域」を知るための一つの方法としてヴィゴツキーは模倣の意義を示しました(ケーラーのチンパンジーの実験を引用しながら)。

子どもは共同の過程では常に自分一人でやるよりも難しい問題を解くことができますが、すべての問題を解けるというわけではありません(説明やヒントを得てもわからない問題はわからない)。

つまり、子どもが解くことができるのは、子どもの発達状態や知的能力によって決まる一定の範囲内に問題がある場合ということができます。

子どもは模倣を使って難しい問題であっても自分の発達水準に近いものであれば解くことができますが、問題の難易度がこの水準から離れていけば模倣によっても解けなくなります。

ヴィゴツキーは、こうした「模倣を使うことによって、子どもができなかったことができるようになるとき、その問題は「発達の最近接領域」に該当する」と考えました(ここではヴィゴツキーの研究に即して「模倣」としましたが、これはヒントや説明を与えることも含みます)。

このようにヴィゴツキーは、子どもの発達を「教えなくても理解できる(実際に顕現している発達水準)」「教えれば理解できる(より知識の多い仲間の援助によって問題が解決される潜在的な水準)」という2つに分け、「教えれば理解できる」という課題について子どもの「発達の最近接領域」に該当したものと見なしたわけです。

現在の発達段階から遠くなればなるほど解けなくなるわけですから、教えれば解けるような問題は現在の「発達」段階に「最」も「近接」した「領域」と言えるわけですね。

ヴィゴツキーは、教育の本質的特徴は、教育が「発達の最近接領域を作り出すという事実にあると断言しています。

ヴィゴツキーのこの考え方には批判もありました。

例えば、ヒントや説明を与えることで「発達の最近接領域」がわかるわけですが、その子ども個人で見た場合には、その子の「発達の最近接領域」が把握できるのは「教育を施した後」ということになりますね。

言い換えれば、ヴィゴツキーの主張している「子どもの発達の最近接領域に働きかけることが教育では重要である」というのは、構造的に不可能であるということです(働きかけてからじゃないと発達の最近接領域の把握ができない、ということですね)。

これに対しては以下のような反論が可能でしょう。

まず、ある子どもの「発達の最近接領域」がわかれば、同じような発達の程度の子どもたちに「教育を施す前」に活用することができます。

また、「発達の最近接領域」の把握ができなくても、その考え方を知っていれば、発達段階の近い子ども同士の意見の出し合いが、自然と「教えればわかる段階」へのアプローチになることが理解でき、教師が高度すぎる質問やヒントを与えて停滞させるという無駄を抑えることが可能です。

更に、教育では「発達の最近接領域」を知ることによって、授業外の研究会等で整理してその結果を教科書という形に仕上げていきます。

こうした教科書などによっても、教師は子どもたちの「発達の最近接領域」を知ることができるということですね。

このように、「発達の最近接領域」はヴィゴツキーの発達理論に含まれる概念であることがわかります。

よって、選択肢⑤は適切と判断でき、除外することになります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です