公認心理師 2021-86

認知言語学に関する問題になります。

ブループリントには記載がありましたが、問題として出題されたのは初めてということになりますね。

問86 認知言語学の説明として、最も適切なものを1つ選べ。
① 生成文法理論をもとに構築されている。
② 言語習得における経験の役割を重視する。
③ 言語に特化した認知能力を強調する立場をとる。
④ 言語的カテゴリーには、明確な境界線があるとみなす。
⑤ ゲシュタルト心理学でいう「図と地」の概念には、否定的である。

解答のポイント

認知言語学の成立の経緯や、理論的基盤について把握している。

選択肢の解説

① 生成文法理論をもとに構築されている。
③ 言語に特化した認知能力を強調する立場をとる。

1950年代末からチョムスキーの提唱する生成文法法が中心になってきます。

生成文法の功績は、第一に、言語は刺激‐反応のような条件によって発せられるのではなく、ヒトの内面にある知識に支えられていると主張したこと、第二に、文の構造を規定するための数理モデルを体系化したことです。

そして言語理論の目標は、限られたデータの分類から、無数の文の生成を説明するための規則への重点が移されてきました。

1960年代~70年代にかけて、文の構造についての理論は大きく進歩し、研究の視野も広がりましたが、同時に研究の発展によって生成文法の限界も明らかにしていきました。

言語の働きを詳しく分析していけば、出来事の捉え方がどのように反映されているかを考えに入れるのは当然ですが、生成文法の「設計思想」では、言語が作り出す世界の豊かさを適切に取り扱うようにはできておらず、言語を自律的な対象と捉えていました。

一方で、意味の問題への関心が強く、自律性の立場に否定的な言語学者たちは主流から離れていき、後に認知言語学の推進役を務めることになります。

認知言語学という学派を代表する学者としてはLangacker(ラネカー)やLakoff(レイコフ)になりますが、前者はこの理論の厳密な体系化を成し遂げた人物であり、後者はカテゴリー論やメタファー論によってその一翼を担っています。

この二人は共同して認知言語学を創始したわけではありませんが、両者とも初期は生成文法学者でした。

レイコフが1960年代の半ばにチョムスキーに反旗を翻したとき、チョムスキーは「レイコフたちの主張は構造主義的経験論への悪しき先祖がえりである」という趣旨のことを述べたことに象徴される通り、生成文法と認知言語学は対極的な前提に立っています。

生成文法が言語機能(普遍文法)という、言語獲得という領域に特定的に奉仕する生得的モジュールを策定しているのに対し、認知言語学は言語現象を一般的な認知能力のあるいは認知プロセスの反映として説明しようとする言語理論と言えます。

上記の通り、認知言語学は「生成文法理論をもとに構築されている」のではなく、生成文法理論が主だって取り扱わない領域を重視したり、その限界を説明するための理論として示されていることがわかります。

また、認知言語学は「言語に特化した認知能力を強調する立場をとる」のではなく、言語現象を一般的な認知能力のあるいは認知プロセスの反映として説明しようとする言語理論であると言えますね。

以上より、選択肢①および選択肢③は不適切と判断できます。

② 言語習得における経験の役割を重視する。
④ 言語的カテゴリーには、明確な境界線があるとみなす。
⑤ ゲシュタルト心理学でいう「図と地」の概念には、否定的である。

こちらの問題に関しては、以下の書籍を基盤としつつ述べていきましょう。

認知言語学という名称が示す通り、従来の言語学が研究対象とする領域は音韻論から語用論に至るまで、すべて認知言語学の射程に入っています。

こうした中核的研究に加え、認知言語学では認知類型論、通時的研究、言語習得などの諸研究も活発に行われていますが、いずれも認知的アプローチに基づく理論的前提と方法論を採用しています。

言語と認知に関する多くの下位理論の緩やかな総体が認知言語学であり、認知的視点から言語現象をあまねく押さえているのが特徴の一つです。

ここでは個別研究を支えている認知言語学に関する共通認識や理論的基盤を取り上げていくこととします。

【経験基盤主義の策定】

我々が経験の世界を作り上げるときには、周囲の環境から情報を受け取り、情報を記憶に貯え、必要に応じて呼び出す能力、あるいはそうした情報をもとに考えを巡らせる能力が不可欠であり、こうした能力は言語の働きを可能にする基本条件となっています。

例えば、上下や前後などの方向は、身体の特徴をもとにして得られる概念であり、多くの言語で経験を組み立てるための土台となっています(上=良い:舞い上がるなど、下=悪い:落ち込むなど、これらは身体の経験に根差した感覚)。

自然物と人工物を問わず、われわれの身の回りにある生活環境は、慣習化された捉え方を提供します。

こうした認知活動は日常の経験‐身体的なものであれ、社会・文化的なものであれ‐によって枠を与えられるとする立場を「経験基盤主義」と呼びます。

世界の構成は無制限に行われるわけではなく、一定の条件の上に成り立っているわけです。

言語の構造がこのような意味での経験的基盤をもつとき、そこには動機づけがあるとされます。

こうした見方によれば、言語を多様な認知能力から切り離して論じるのは不自然と言えます。

認知言語学が目指すのは、「人間は言語を持つ」という主張と、「人間は知能を持つ」あるいは「人間は文化を持つ」という主張に共通する基盤を明らかにし、その上でヒトの特性を理解することです。

従って、分析・説明を行うときには純粋に言語に係ることだけに視野を限定せず、その経験的基盤に注目しつつ論じることを基本姿勢とします。

こうした経験基盤主義を重視するという点で、他の理論言語学とは異なって見解を認知言語学は有しています。

この点は選択肢②の「言語習得における経験の役割を重視する」という記述と合致しますから、選択肢②が認知言語学の説明として適切であると言えるわけです。

【還元主義と構成性の原理の再考】

認知言語学は還元主義(複雑で抽象的な事象や概念を、単一のレベルのより基本的な要素から説明しようとする立場)一般を否定するわけではないが、自らの理論的前提から逸脱することのない要素分解を実施し、その積み上げによる説明のみに専念するような還元論的手法は採用しません。

言語を含む人間の「知」の包括的な説明には、伝統的な科学方法論、すなわち還元主義や構成性の原理によって成り立つ方法論を超えるパラダイムが必要とされます(脳神経系の動態や大域的認知処理はそうしたパラダイムを必要とする領域の典型です)。

人間の認知システムはいわゆる線形理論(数学の基本的な道具の一つ。多変数の1次の関係式で記述される数的な量の数学的解析において基本的に応用される)では説明が困難な複雑系です。

認知言語学は言語現象を認知システムの中で捉えようとするので、実際の言語運用と言語構造との間のせめぎ合いに関心を持っています。

従って、構成性の原理よりも、内部構造の総和以上の様相を呈する様相を呈するゲシュタルト効果に傾注します。

【形式的明示性】

認知言語学は明示的な理論と、反証可能性に耐え得る形での説明方式の提示を希求していますが、説明方略としての形式的明示性については現時点では慎重です。

抽象的な形式性に対しては、説明方法と説明対象の間の乖離あるいは認知システム全体の説明との不自然な乖離があってはならないと考えるからです(つまり、反論に耐え得るようなものを示したいが、それが科学的に証明されている人間の認知システムに関する知見と乖離してはダメ、ということ。そりゃそうだ)。

【生得性と言語習得】

認知言語学では、人間の言語能力が何らかの生得性をはらんでいることを否定しません。

しかし、それが生成文法が唱えるような普遍文法であるとは考えません。

神経科学との接点を持つ並列分散処理モデルあるいは広くコネクショニズムに代表される研究では、何が生得的であるかということよりも、何をどのように学習するのかということに焦点を当てます。

認知言語学もこの考えに沿っており、抽象的な生得性うんぬんよりも、環境との相互作用の中で実際に生きる認知主体に焦点を定める、動的な言語の認知処理の説明と静的な理論的言語構造の記述を進める上で、両者の整合性を念頭に置いています。

この意味で、言語習得や学習に対する認知的アプローチは、脳科学やコネクショニズムだけではなく、認知・発達・学習の心理学や、認知科学の生態学的アプローチ、状況論的アプローチと極めて深いかかわりを持っています。

認知文法の領域では、最初から言語の構造や規則が脳内に生得的にあって、ヒトはそれを習得するというような想定はせず、言語の使用、つまり実際の認知的な言語運用を通してボトムアップ式にスキーマ化されていくと考えます。

すなわち言語習得とは、知識を創出する意味での学習がなされると考えます。

(なお、この項目で選択肢①の解説になっていますね)

【カテゴリー化】

カテゴリー化は、あらゆる思考の背後にある重要な認知処理と考えられます。

認知言語学では、還元主義や構成性の原理と同様に、アリストテレス以来の古典的カテゴリー論を大前提としません。

古典的カテゴリーは、必要十分条件を満たす二項対立的素性の集合によってのみ成り立つが、これはカテゴリー構造の一つに過ぎないと認知言語学では捉えます。

その代わり古典的カテゴリーも矛盾なく内包しうるプロトタイプ的カテゴリー論を採用し、より柔軟性と説明力に富むカテゴリー論を展開しています。

更に家族的類似性や基本レベル効果などの説明原理を擁し、あらゆる言語現象の、より精緻な説明を試みています。

カテゴリー化の新しい捉え方によって、比喩的認識とカテゴリー拡張の融合にも議論が発展し、認知の新しい理論を構築しています。

この点に関しては選択肢④の「言語的カテゴリーには、明確な境界線があるとみなす」という記述の正誤判断に係るので、もう少し突っ込んで解説していきましょう。

ここではまずカテゴリーとはどのような性質を持つものかを考えてみましょう。

まずは、古典的なカテゴリー観におけるカテゴリーの規定を考えてみましょう。

伝統的に採用されてきた考え方の一つは、カテゴリーはその全成員に共通する属性によって他のカテゴリーと区別されるというものです。

例えば「鳥」の場合であれば、「鳥」と呼ぶことができるすべてのものに共通する属性があって、あるものがそれをもっていれば「鳥」に属するが、それをもっていなければ「鳥」ではなくなる、と考える発想です。

すなわち、古典的カテゴリー観では、以下が成立することになります。

  1. カテゴリーのすべての成員に共通する定義的特徴がある。
  2. ある成員がそのカテゴリーに所属するかどうかは明確に判断できる。カテゴリーの境界線は明確であり、かつ固定している。
  3. あるカテゴリーのすべての成員は、対等な資格でそのカテゴリーに属している。成員がカテゴリーに所属する度合いはすべて同じである。
  4. 上位概念は下位概念より定義的特徴が少ないため、常に下位概念よりも単純である。

しかし、現在ではこれらがいずれも成立しないことが経験的に明らかにされています。

特に2に関しては、ウィトゲンシュタインが家族的類似構造の存在を指摘することによって成り立たないことが明らかにされています。

家族的類似とは、言語哲学・認知言語学上の概念で、語の意味を部分的な共通性によって結びついた集合体とみなす考え方です。

ウィトゲンシュタインはその著書のなかで、「ゲーム」という語をとりあげ、「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを家族的類似と名付けました。

もう少しわかりやすく言うと、「ゲーム」という言葉には非常に緩やかな括りしかないく、それはあたかも、家族の顔に1つの共通した特徴はないけれど、父の耳が兄の耳に似ていて、兄の目が母の目に似ていて、母の鼻が妹の鼻に似ているので、総合すると何となくみんな似ているように見える家族写真に例えることができ、それを「家族的類似性」と呼ぶわけです。

家族的類似の考え方から1つの集合体には何か共通の性質が存在するとは限らないということが明示され、語の定義を必要十分条件で規定しようとする古典的なカテゴリー観へのアンチテーゼとなっています。

また、カテゴリーには、それに属するかどうかに関して段階性があるものとないものがあります。

例えば、「アメリカの上院議員」というカテゴリーには段階性がなく、人は上院議員であるかないかのどちらかしかあり得ません。

それに対して「裕福な人」や「背が高い人」は、基準となる裕福さや背の高さが段階性を持つことから、段階性を持つカテゴリーとなります(他にも「赤」にも、様々な赤があるという意味で段階性を持つ)。

古典的カテゴリー観では、そのままの形でこうした段階性を持つものを扱うことができませんね。

以上のように、古典的カテゴリー観では、言語的カテゴリーには、明確な境界線があるとみなす(選択肢④の内容)わけですが、認知言語学ではそれを前提にしないことが示されています。

ですから、選択肢④が不適切であることがわかりますね。

【図と地の認知】

図と地の分化は人間の認知メカニズムの基本的認知方略です。

我々はすべての情報を等価なものとして処理することはなく、記憶も同様です。

経済性(つまり、そのように認識した方がラク、ということ)、負荷の軽減、効率性、検索と利用の容易性からも図地の分化は不可欠です。

図地分化はダイナミックであり、言語形式や意味などあらゆる言語現象に観察されます。

認知言語学においてはトラジェクターとランドマークという用語を特に言語的な現われに対して用いることがあります。

認知的解釈の豊かさの様相と言語の理解が図と地という考え方を導入することで体系的に理解することが可能になりました。

図と地の概念に関しては、上記の通り認知言語学において重要であると認識されていますが、こちらは選択肢⑤の内容に係るので、より詳しく述べていきましょう。

私たちが外界を知覚する際、外部世界のある部分は背景化し、他の部分は前景化されて立ち現れます。

換言すれば、外部世界は、何らかの形で前景と背景に分かれて我々の前に出現するわけです(つまり図地分化)。

図と地の観点で見ると、外部世界は、前景としての図と背景としての地への分化の認知プロセスを介して知覚されるということです。

この点は、外部世界を構成する対象物の認知に関しても当てはまります。

基本的に、我々がある対象を把握していく場合、その対象の際立った部分に焦点を当てながら認知していきます。

この場合、際立っている部分(焦点化されている部分)は図、その背景になっている部分は地として区分されます。

以下の文章を見てみましょう。

  1. 駅ビルの上に月が出ている。
  2. 家の横にミカン箱がある。
  3. ボールが枠の中にある。

これらの文章では、それぞれ「月・ミカン箱・ボール」が図として認知され、これに対応する「駅ビル・家・枠」が地と見なされます。

上記の状況は、図と地の関係が逆になる可能性も考えられますが、図と地の関係を反転させた以下の文章は不自然ですよね。

  1. 月の下に駅ビルがある。
  2. ミカン箱の横に家がある。
  3. 枠がボールを囲んでいる。

一般に、図と地の分化が起こる場合、相対的にサイズが大きく、不動で安定している存在が地となり、相対的にサイズが小さく、移動可能な存在が図として知覚されます。

このため、最初の文章では自然に認識された文章が、後者の文では不自然なものとして理解されるゆえんです。

上記のような、図と地の関係は認知言語学においては、図に該当するのが「トランジェクター(軌道体)」、地に該当するのが「ランドマーク(基準点)」と表現します。

こうした概念を言語学に導入することによって、言語表現の多様性を「視点の違い」という説明で解決できるようになりました。

従来の言語学では、図と地という捉え方がなされておらず、これらを入れ替えた文章を同じものと見なしていましたが、上記の通り、それでは説明がつかない言語表現もありますね。

認知言語学においては、「トランジェクター」と「ランドマーク」が異なるので、事象の捉え方(=認知の仕方)が異なるため、結果的に意味も異なると考えます。

すなわち、単に「ある文章の単語を入れ替えているだけ」と捉えていた従来の言語学から、「焦点の違い」という認知言語学的な説明が可能になったわけです。

認知言語学において図と地の概念の重要性について、ほんのちょっとだけ述べました。

これについて掘り下げていくとかなり長くなってしまうので、とりあえずはこのくらいで「認知言語学において図と地の概念を重視している」という認識は持つことができたと思います。

以上のように、認知言語学に関する共通認識や理論的基盤に基づけば、選択肢②が適切と判断でき、選択肢④および選択肢⑤が不適切と判断できます。

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