鷲田清一先生の「濃霧の中の方向感覚」を読む

こんばんは。
先ほど、注文していた仲真紀子先生編著の「子どもへの司法面接」と鷲田清一先生の「濃霧の中の方向感覚」が届きました。
今は注文したら次の日には届くので有難いですが、できるだけ本は近所の本屋さんで注文するようにしています。
そういうお金の回し方の方が良いような気がするんです。
(今回はポイントが貯まっていたのでインターネット購入でしたけど)

「子どもへの司法面接」については、後ほど問題解説のときにまとめるとして、まず「濃霧の中の方向感覚」を読む。
序文の「わたしたち一人ひとりが、できるだけ長く、答えが出ない、出せない状態のなかにいつづけられる肺活量をもつこと」という表現が素敵です。

「子どもとお金」から引用。
子どもが消費主体になるというのは、親の許可をわざわざ得ずとも、じぶんの金で物やサーヴィスが買えるということです。そして小学生でも、たとえば家族と出かけた鮨屋で直接注文したり、同級生と連れ立ってタクシーに乗ったりということが、あたりまえの光景となりました。
…自分と家族の暮らしを成り立たせるために働いてお金を得るという経験をしていない子が、たとえ小遣いを持っているにしても、それを使って大人を自分のために働かせていいものだろうかと思うのです。それは人の尊厳もしくは品位を蔑ろにする行いではないのか、と。
じつはさらに心配なことがあります。貨幣は何とでも交換できます。…このことが子どもに身の丈に合わぬ全能感を与えてしまいます。そしてお金が足りず、親の援助もなくて、何かを買えないとなると、こんどは逆にこれまた過剰な無能感に苛まれるようになります。全能感と無能感のあいだのぶれが、異様なまでに大きくなるのです。買ってもらえないのは家の事情ですが、買えないのはまるでじぶんの限界のようであるからです。

先日、鮨屋でまさに上記のような光景に出合い、強い違和感を覚えたのでタイムリーな内容でした。
子どもに小遣いを与えるべきか、その使い道に口出ししてもよいものか。
そういう疑問を向けられることが多いのですが、もう少し考えてみようと思います。

それではまた。

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