公認心理師 2020-153

学校での発達障害事例への対応に関する問題です。

発達障害に関する基本的な理解、学校現場での具体的な対応に関する理解が求められています。

問153 14 歳の男子A、中学2年生。Aについて担任教師Bがスクールカウンセラーである公認心理師Cに相談した。Bによれば、Aは小学校から自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害〈ASD〉の診断を受けているとの引継ぎがあり、通級指導も受けている。最近、授業中にAが同じ質問をしつこく何度も繰り返すことや、寝ているAを起こそうとしたクラスメイトに殴りかかることが数回あり、BはこのままではAがいじめの標的になるのではないか、と危惧している。
 C の対応として適切なものを2つ選べ。
① 保護者の了解を得て主治医と連携する。
② 周囲とのトラブルや孤立経験を通して、Aに正しい行動を考えさせる。
③ Aから不快な言動を受けた子どもに、発達障害の特徴を伝え、我慢するように指導する。
④ Aの指導に関わる教師たちに、Aの行動は障害特性によるものであることを説明し、理解を促す。
⑤ 衝動的で乱暴な行動は過去のいじめのフラッシュバックと考え、過去のことは忘れるように Aに助言する。

解答のポイント

発達障害に対する学校での支援について理解している。

選択肢の解説

① 保護者の了解を得て主治医と連携する。

まずAの状態に関する見立てから行っていきましょう。

AはASDの診断が出ており、通級も利用しています。

ちなみに「通級」とは、通常の教室と特別支援教室の間にあるような対応で、今までは特別支援教室に所属していないと個別対応が困難でした。

通級では、特別支援教室に措置替えしなくても、子どもに一定の発達的特性が認められれば個別に対応できることになっています。

通級教室が設置されている学校に通う、通級担当の教員が各学校を回るなど、地域によってその形態はさまざまです。

通級によって、それまでは教育委員会での会議を経て特別支援に移行するという手続きを踏まないと難しかった個別対応がしやすくなりました(普通学級から移行しなくてよいという点も利用しやすさにつながっているだろうと思います。その点にこだわる保護者はとても多いです。当然ですが)。

いずれにせよ、Aを取り巻く制度や他機関の判断は、Aに発達的な課題があることを示していますし、それ以外の要因は現時点で記載されていません。

上記がまずは外的な枠組みからの見立てですが、今度は実際にAの言動を見ていきましょう。

「最近、授業中にAが同じ質問をしつこく何度も繰り返すこと」「寝ているAを起こそうとしたクラスメイトに殴りかかることが数回あり」とあります。

特に前者は発達的な要素が大きい課題であると考えられ、後者に関しては他の見立ても可能ではありますが、発達的な要素も考えてよい行動であると言えるでしょう。

このように、Aには発達的な問題があり、その他の問題(例えば、養育に関する問題等)は現在見受けられませんので、発達障害(ここではASD)の特徴をもつ児童への対応という観点で支援を考えていくことが本問の前提となりますね。

さて、Aの発達的な課題を踏まえた支援を考えていくときに、本選択肢の主治医との連携は重要な対応の一つと言えます。

主治医は学校での様子を直接見るわけではありませんし、中学生であるAが学校で起こったことをそのまま伝えているとも限りません(恥の問題や、自分のことを自分で解決したいという意欲が強くなる年齢だから)。

主治医が学校の様子を細やかに把握することで、医療機関の対応が変わることも考えられますし(例えば、投薬の内容や量が変わるなど)、医療機関側からAへの支援に関して別視点での助言がもらえる可能性もあります。

本選択肢の正誤判断で大切なのは「本人Aの了解を得なくてよいのか?」ということだと思います。

まずAは未成年ですから、その保護者に了解を得るという対応で倫理上の問題はクリアされます(支援者間の情報共有は、そもそも秘密保持義務の例外状況として挙げられていますしね)。

次に考えねばならないのが「Aに主治医と連携することを伝えることが支援につながるか否か?」です。

こちらに関しては、「学校と主治医が通じている」「主治医に自分の学校での言動が知られてしまう」といった認識が生じてしまう可能性がありますから、必ずしもプラスになるとは限りませんし、Aに伝えることでAと主治医の関係に支障が出ることも考えねばなりません。

このように考えると、Aに伝えずに主治医と連携を取るという形は、支援上もあり得ることだと言えるでしょう。

以上の点を踏まえれば、Aの支援に際して、保護者の了解を得たうえで主治医と連携するのは大切な支援の一つと言えます。

よって、選択肢①は適切と判断できます。

② 周囲とのトラブルや孤立経験を通して、Aに正しい行動を考えさせる。

こちらは発達障害に対する理解が薄い対応と言えます。

本選択肢の背景には「経験を積むことで改善が生じる」という考え方があるわけですが、それは主に心理的な要因が強い事例で考えらえる現象であり、発達障害事例では第一に採用することはありません。

発達障害の問題は、基本として器質的な要因によって生じていると見なすので、都合の悪い状況になったからといって意志の力で変えられるという類の問題ではありません。

もちろん、それが起こってしまったときには、どのように教え、適切な行動を身につけていくことや、その状況を「締め括る」ことが重要ではありますが、本事例のような「寝起き」で起こっているような場合にはそれも難しいことが多いでしょう。

むしろ、発達障害事例において、周囲とのトラブルや孤立体験はマイナスに働くことも考えねばなりません。

発達障害児に限らず、子どもたちは「置いてけぼりにされる」ことに非常に敏感です。

周囲が離れていっているという状況は、その子どもの心身の状態を緊張させますし、発達障害事例においては「もともとの発達的な要素が、強く顕在化するようになってしまう」という可能性も出てきます。

簡単に言えば、環境が良くないことで、発達的な問題がより色濃く出てくるということです。

そうなれば、更に周囲とのトラブルや孤立体験が増えるという悪循環に陥る危険性もあります。

ですから、周囲とのトラブルや孤立体験を治療的に用いることは難しいと言えるでしょうし、あまり当てにしない方がいいでしょう。

先に「心理的な要因が強い事例で考えられる」としましたが、その代表が「底つき体験」です。

「底つき体験」はアルコール依存症事例でよく示される概念であり、「本人に飲酒問題に直面させて、飲酒によりどん底を味わったと感じることで治療意欲を生じさせる」という考え方です。

個人的には「底つき体験をさせる」という考え方ではなく、自身の問題による当然の帰結として生じる「現実」を「誤魔化さない」ことが重要だと思っています(アルコール依存症者の周辺にはイネイブラーと呼ばれる「飲酒問題の直面を難しくさせる対応をしている人々」がいることが多いので、イネイブラーの行動をストップさせる)。

こうした「底つき体験」によって如何ともしがない現実を目の前にして変化が生じるというのは、アルコール依存症者の問題が発達障害のような器質的な問題が前提ではないからだと思います(アルコールを飲み続けると器質的な問題も出てきますが(コルサコフ症候群とか)、それはまた別のお話)。

発達障害の場合、ある状況で衝動的に反応してしまうことも多いので、そこに「意思」を介在させることが難しい場合も多いです(もちろん、できることも増えてきますが)。

落ち着いた状態で話をすれば、彼らは「正しい行動」がわかっていることがほとんどです(その意味でも、本選択肢の考えには瑕疵があるわけです)。

発達障害事例の対応では、「正しい行動がわかっているのにできない苦しみ」にも慮る姿勢が支援者には求められますね。

上記の通り、周囲とのトラブルや孤立経験はネガティブな状況になることが多いことや、Aに正しい行動を考えさせるのは「Aが正しい行動がわかっていない」という間違った前提に立っています。

よって、選択肢②は不適切と判断できます。

③ Aから不快な言動を受けた子どもに、発達障害の特徴を伝え、我慢するように指導する。

まず本選択肢の前半部分「Aから不快な言動を受けた子どもに、発達障害の特徴を伝え」について述べていきましょう。

こうしたクラスメイトや発達障害児(者)に関わる人たちに、発達障害の特徴を伝えるという対応はあり得るものです。

もちろん、保護者は本人の了解は必要であり、彼らと協議しながらどのように伝えるかを考えていきます。

ただし、こうした「発達障害の特徴を関係者に伝える」ときの留意点があります。

それは「単なる押し付けにならないようにすること」です。

端的に言えば「こういう特徴があるんだから、みんな我慢してくださいね」というメッセージにならないように気を付けることが重要です。

この点が選択肢後半部分(我慢するように指導する)の解説になりますね。

発達障害に限らず、何かしら問題を示す児童生徒がいたときに、その問題を示す児童生徒へ改善のアプローチをするよりも、その周囲の児童生徒が対応を変える方が変化が早い場合が多いです。

発達的な要因にせよ心理的な要因にせよ、それらはその個人に根付いている面があるので、容易に変えることはできません。

発達的・心理的な問題を抱えていない児童生徒は、まだ柔軟に対応できる面がありますから、彼らに対応を工夫するように要請することは場合によってはあり得ますし、本事例の年齢(中学2年生)を踏まえると、周囲も理解を示すことができる可能性もあります。

しかし、学校は社会的な場でもありますから、一方のみが我慢し、もう一方は何もしないという形での対応は好ましいと言えません(別にフィフティフィフティでなければならないという意味ではなく、一方的なやり方はどのような場でもよくないということです)。

発達障害の特徴を伝えるのであれば、周囲にしないでほしいことを伝えると同時に、自分たちもどのような努力をするかを伝えていくことが重要だろうと思います。

一方的な要求、自分たちだけが我慢、という状況を作ってしまえば、それこそが担任が危惧する「Aがいじめの標的になるのではないか」ということが生じやすくなってしまいます(生徒たちの不満を抑え込むと、いじめといった裏の発散が出やすくなるのは容易に想像できますよね)。

支援者の立場としては、周囲の生徒の話をよく聞き、不満を汲み取り、理解を示すことが、Aがクラスメイトに受け入れられるために必要な対応であると思います(不満を我慢させるのではなく、自然なものとして共有するということ)。

そういう意味で、実はあり得ると述べた「発達障害の特徴を関係者に伝える」という対応は大変難しいのです。

先述のように、多くの場合は周囲に「我慢せよ」というメッセージになることの方が多いだけでなく、特徴や対応を伝えられた児童生徒がまず話すのが「そんなことはわかってるし、もうやってるんだよ」ということです。

周囲の子どもたちは、ある意味大人たちよりもその発達障害児とともに過ごしています。

中には保育園から知っているという子どももいるでしょう。

そういう子どもたちは、自然と発達障害児の特徴を理解し、それに合わせた対応を取っていることが多いのです。

しかし、先述のように学校は社会生活の場でもあるので、周囲の子どもたちも発達特性をもつ子どもに合わせた対応ばかりできるわけでもありません。

そういう「わかっているけど、適切に対応できない」状況が社会には多くありますし、そうした状況で周囲の子どもたちに発達障害の特徴を伝えるのは、彼らを板挟みにする可能性もあります。

ですから、「発達障害の特徴を関係者に伝える」のは、明らかに周囲が無理解によって対応を誤っていると判断できる場合に、それでも慎重に検討する対応と言えます。

なお、Aのような発達障害の特徴をもった生徒が教室にいることによって、周囲の生徒に及ぼすプラスの効果は大きいです。

「いろんな人がいても良い」「むしろ、いろんな人がいるべきだ」という考え方は、日本一自殺が少ない町の特徴にも挙げられていますが、この考え方は実は当人をサポートすることになります。

人生の中で人は様々な状況に置かれます。

その中には好ましくないものもあるでしょうし、ネガティブな自己認識をもつことにもなるでしょう。

そういったときに「いろんな人がいてもいいんだ」という考えがあれば、その人は何とか生きていくことがしやすくなります。

こうした「いろんな人がいてもいい」という考え方は、「そういう空気」の中で生活しないと身につかないものです(家庭内で他の家の子どもを非難する等は、これに反する行為ですから止めた方がいいですね)。

様々な発達的特徴をもつ人がいるということ、そうした状況で対応に苦慮したり、時にはトラブルになりながらも、それでも「同じ教室で過ごす」ということには、上記のような考え方を身につけるという価値があるのです。

上記のように、発達障害の特徴を伝えるという対応はあり得ても実践はかなり難しいこと、周囲に我慢させるような対応は不適切であろうことがわかりますね。

よって、選択肢③は不適切と判断できます。

④ Aの指導に関わる教師たちに、Aの行動は障害特性によるものであることを説明し、理解を促す。

Aは「授業中にAが同じ質問をしつこく何度も繰り返すこと」がありますから、この行動についてどのような背景があって生じているのか、周囲の先生たち(中学校は教科担任制であるから尚更)に理解してもらうことで、適切な対応をしやすくすることが重要です。

また「寝ているAを起こそうとしたクラスメイトに殴りかかること」もあるので、その際にどのような対応を取るかも説明しておくことがクラス運営上も重要な対応といえるでしょう。

選択肢③は、子どもたちにどの程度Aの支援に協力してもらうかという観点もあっただろうと思いますが、私はあまり子どもたちに積極的に支援に関与してもらおうという気持ちはありません。

現在、学校でのピアサポートの必要性が述べられている面はありますが、それは全体論としては良いのですが、個別的な事例の支援についてならば私は反対の立場です。

全体論としてのピアサポートはあってよく、自然とピアサポートになるような行事や仕組みを作ることが重要だと考えています。

ですが、本事例のような個別的な事態において、子どもたちのサポートがあることを前提に支援を組み立てるのは、支援者の責任転嫁(支援者がすべきことを子どもたちに委ねているという意味)であると思いますからすべきではありません。

もちろん、子どもたちの自然な行動の中で本人のサポートになるものが出てくれば、そういった幸運をどう活用するかが重要になるのは言うまでもありませんが、最初からそれを当てにして組み込むのは不適切と言えるでしょう。

これに対して、本選択肢にある教員に関しては、それこそクラス運営を行ったり、生徒指導・教育相談を行っていくという役割上、発達障害の特徴を積極的に伝え、それを支援につなげていくことが重要です。

なお、今の学校の先生は、発達障害という概念について理解していることも多いですが、「理解」と「対応」は別個なものです。

本選択肢のような、発達障害の特性を伝えるのであれば、併せて「同じ質問を繰り返すときにどう対応すればよいか」「クラスメイトに殴りかかったときにどう止めればよいか」も話し合ったり伝えていくことが重要です。

こういう手続きを踏まないと、場当たり的な対応になってしまい、「理解はしているけど、適切な対応ができない」という状況が生まれやすくなってしまいます。

ただし、教員の対応というのは、その教員の「色」を消してしまわないようにすることが重要でもあります。

つまり、普段のその教員の雰囲気から外れた対応になってしまうと、その不自然さが良くない方向に動く因子になりえますし、当の教員からその対応をネガティブに評価されることにもなりかねません。

ですから、普段から各教員の「色」を掴み、それに合わせた対応を提案していくことになりますし、この辺のアレンジは専門家であるスクールカウンセラーの仕事と言えるでしょうね。

上記の通り、教員が障害特性を理解し、適切な対応を取れるようになることがAの支援においては重要です。

よって、選択肢④は適切と判断できます。

⑤ 衝動的で乱暴な行動は過去のいじめのフラッシュバックと考え、過去のことは忘れるように Aに助言する。

選択肢①の解説内で、「寝ているAを起こそうとしたクラスメイトに殴りかかることが数回あり」という行動について、他の要因も考えられるが発達的な課題の存在も考えねばならないものであると述べました。

この「衝動的」な行動に関しては、発達的な要因が絡んでいると見なすのが自然ですが、その内容として「殴りかかる」というのは個人差があるところです。

「衝動的」に「窓から飛び降りようとしたり」「教室から出て行ったり」「大声を出したり」というように、衝動的な面に関しては共通していても、どういう行動を取るかは個々人によってかなり差があります。

そこでAが「殴りかかる」という乱暴な行動に出ることまでをすべてひっくるめて「発達障害だから」と言ってよいかは、個人的には疑問です。

多くの支援者の考えや対応を聞くと、どうもこの点もひっくるめて「発達障害だから」と帰属させているように見受けられますが、反応の仕方は個性が絡んでくる部分であり、そこには生まれ持ったものだけでなく、環境等による要因も影響してくると見なすのが当然だと思いますし、その点を細やかに見ていけば「殴りかかる」という反応になりやすい要因が見えてくることもあります。

私は上記のような見立て方をするので、「クラスメイトに殴りかかること」に関しては発達以外の要因も考えたい立場です。

ですから、その点を探索していくこと、何があるか考えていくこと、そのための作業(例えば、保護者と面接して「殴りかかる」という行動が昔から見られたのか尋ねる等)を行っていくという対応を取り、それを踏まえて支援の方針を考えていきます。

よって、本選択肢の背景にある「衝動的で乱暴な行動に発達以外の要因を見ていこうとする態度」には賛成しています。

ただし、本事例の情報だけで「過去のいじめのフラッシュバックと考え」というのは、どう考えても無理があります。

もちろん、過去にいじめを受けており、その時の怒りが「タイムスリップ現象」として生じたと見なすことはできなくもないのですが、そもそも「過去にいじめを受けていた」という情報がないのにそのような見立てを行うことはできません。

本事例では「BはこのままではAがいじめの標的になるのではないか、と危惧している」とありますが、過去にいじめがあったという記述はないので、この方針は思い込みというものです。

時々、このような思い込みによる見立てを行う支援者はおりますが、そのような場合「支援者の逆転移」を疑われても仕方ありませんね。

さて、本選択肢の瑕疵はそれだけではありません。

仮に「過去にいじめを受けていた」という事実が確認できたとしても、その対応として「過去のことは忘れるように Aに助言する」というのはフラッシュバックが起こるような体験をした人に対する支援として間違っています。

フラッシュバックの背景には「外傷体験の記憶による不穏が「here and now」で動いている精神活動に阻害的に働いている」という事情がありますから、こうした外傷体験を「忘れる」ことができないですし、できないからこそフラッシュバックになるわけです。

外傷体験が身体に残り続け、現在の精神活動に阻害的に作用するような「発火」がフラッシュバックなのです(発火と表現したのは、単に嫌な体験を述べている場合との弁別のためです。何でもかんでも外傷体験にしてはいけません)。

こうした外傷体験の支援を総論的に述べれば「外傷体験がその人の人生の一部として、徐々に馴染んでいくようにしていく」ことになります。

これは「忘れる」のではなく、むしろ「忘れない」という考え方です。

クライエントの外傷体験が、その人生において突出したものになっている状態から、徐々に他の記憶と横並びになって「思い出すとちょっと辛い」くらいの記憶にしていくということが目標です。

そのためにHarmanが述べているのは「安全な環境下で主体的に思い出す」ということです。

支援者は安全な環境を設え、その中でやり取りする中で、クライエントが自ら外傷体験について語りだすという形が理想だと思います(もちろん、安全な環境を崩す「フラッシュバック」があるので、そう簡単ではありませんが)。

以上を踏まえると、本選択肢の「過去のことは忘れるように Aに助言する」という対応は、フラッシュバックのある人に対する支援として間違いであることがわかりますね。

以上より、本選択肢は見立て(いじめによるフラッシュバック)に無理があるだけでなく、その対応(過去のことは忘れるように助言)も間違っていることがわかります。

よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。

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