ネットやゲームに関すること

学校領域で仕事をしていると、子どもがネットやゲームにはまって困っているという話を聞きます。
確かにここ数年でそういう相談がぐっと増えているという印象です。
それらについて思うこと、対処法などに関する私見を述べます。

苦しい現実からの一時的な切り離しとして

かつて不登校児がのめり込みやすいものとして、読書や絵を描くという行為がありました。
かなり難解な文学を読むという現象もありましたが、最近は見受けられませんね。
最近は読書や絵を描くという行為に加え、ネットやゲームが追加されるようになり、その割合が多くを占めるようになってきています。

読書や絵を描く、ネット、ゲームに共通していることは何なのだろうかと考えてみたときに、多少なりとも「苦しい現実からの一時的な切り離し」という意味合いがあろうかと思います(もちろん、他にも意味があるでしょうけど)。
よって、「苦しい現実」の部分を和らげ、「切り離し」を行わなくて済む現実で彼らの生活を満たすことが支援の前提でしたし、このことは環境調整を行う上で大切な視点だと思っています。
私が「オアシスがあることは大切だけど、問題はオアシス以外が砂漠であること」と伝え、周囲の人と協力して環境調整に入るようにしています。

ネットやゲームに伴う快感

ですが、読書や絵を描くことと、ネットやゲームに傾倒することとは異なる面があります。
まずネットでは、日常生活では面と向かって言えないようなひどい言葉を平然と使っている様子が見れたり、実際に使ったりしています。
これはネットがいじめの温床になることとも関連があると思います。
誰の検閲もない場では、非常に残酷なこと、人前ではとてもじゃないけど言えないようなことでも、それほど倫理的障壁を感じることなく発信可能です。
このことは、非常に強い全能感と快感をもたらします。
この快感は日常が非力であるほど強いものになり、全能感への誘惑は強烈です。

ゲームでは、仮想的ではありますが思い通りの自分となって活動することが可能です。
かつてのゲームでは、自分が登場人物自体になるということはありませんでしたが(マリオはあくまでも配管工のおっさんですね)、最近は「自分自身」が活動するような形のものが多くなっていますね。
現実の自分とは異なる人物となって、人をやっつけること、出し抜くようなことも可能です。
社会的に非力な子どもが、仮想的とはいえ力を持ち、ある世界で自由に振る舞うことができるのであれば、それは非常に居心地が良い世界と言えるでしょう。

実際、いわゆるゲーム依存や家庭内暴力が生じているようなケースでは、登場人物そのものとなって暴力的な内容のゲームに傾倒していることが多いのですが、彼らはゲーム内で負けると非常に興奮し、怒りを示します。
この怒りの強さは「単にゲームに負けた」という域を超えており、おそらくは全能的な有能感を傷つけられたという内的事情があるのではないかと考えています。

「現実の自分」と「仮想世界の自分」の乖離

さて、こうした読書や絵を描くこととは異なる面を持つネットやゲームですが、それに傾倒し続けると何が起こるのか。
何より懸念なのが、「現実の自分」と「仮想世界の自分」との乖離が激しくなることだと思っています。
そもそもネットやゲームに傾倒しやすい人たちの心理的特徴として、「自分の理想像」と「現実の自分」との乖離が激しいということが見受けられます。
その安息の場としてネットやゲームが存在するのですが、それに傾倒していくとその乖離が広がっていくということになるということですね。

これにはネットやゲームに「もっとのめりこまそう」という大人たちの思惑もあるでしょう。
のめり込ますために新台入替を繰り返すパチンコ店のやり方と本質的には変わりません。
パチンコと違いゲームの対象は子どもであることも多く、自己責任論が社会的に通用しない面もあるでしょうから、近い将来、ゲームに関しては何らかの規制がかかる可能性もあるのでしょうけど。

のめり込むことで、現実に目を向けようという意欲の発現を困難にしていきます。
「現実の自分」と「ネットやゲームでの自分」との乖離が激しいほど、一般的には生じるだろう「ネットやゲームに飽きる」という現象は生じにくくなります。
この時点ではネットやゲームは「ネットやゲーム以上の意味を持つもの」になってしまっているのです。

勘違いされては困るのですが、ネットやゲームという「安息の場」は必要だと思っています。
一時的にそこに閉じこもることで力が高まり、現実に向かっていくということもあり得るでしょう。
しかし、「仮想世界の自分」によって「現実の自分」と「自分の理想像」の乖離が拡がり、そこから抜け出すことが困難になる場合もあるということです。
先述したとおり、誰もがそのようになってしまうというよりも、「自分の理想像」が高すぎたり、それを下方修正できないまま来ている人に問題の状態になりやすい人が多いようです。

このことを「自己責任」とか「親がしっかりしていないから」と言う人がいます。
私はその意見に与しません。
こうした現象はいくつか要因が重なって生じていると思いますが、その一つとして社会的に長年かけて積み上げてきた「価値観の一元化」があると思うからです。
つまり、これは「問題」なのではなく、そのような社会を作り上げてきたことによる「結果」だと私は考えています。

支援:安心できる場を作っていく

さて、実際の支援について考えていきましょう。

彼らに共通してありそうな特徴として、「現実の自分」と「仮想世界の自分」の乖離、そして元々の特徴としても「自分の理想像」と「現実の自分」との乖離があるだろうという意見については既に述べました(専門的に言えば「自己愛」の問題です)。
支援としては、ここの乖離を埋めていくことがあり得るだろうと思います。

そのために行うこととして、すでに少し触れていますが、現実を彼らが受け容れられていると感じるものに調整していく、ということがあろうかと思います。
環境が彼らを受け容れるものでなければ世界は恐ろしい場であり続けるので、当然ですが安息の場から抜けられなくなります。

このことは、一般的に行われている支援法だと思いますし、これが基盤となるでしょう。
ひきこもり家庭などに対し、親の関わり方を助言していくのはこのためです。
この助言内容については斎藤環先生の著作が詳しいですね。

こちらの書籍に具体的な対応は詳しく載っています。

支援:「理想の自分」の下方修正

また、高すぎる理想に対してもアプローチしていく必要があります。
現実の自分よりも少し高いくらいの理想は、意欲的な姿勢につながることもありますが、高すぎる理想は「いつも達していない自分」を感じ続けることとなり、常に欲求不満を抱えた状態になってしまいます。

高すぎる理想を抱えることによる問題はそれにとどまりません。
高すぎる理想は自身だけでなく周囲にも向かうのです。
「理想に即した振る舞いを周囲に求める」「理想の自分に見合った接し方をすることを求める」といった現象が見られるようになります。
そのため「自分ができてないことを、偉そうに人に注意する」という現象や、周囲が普通に接しているだけなのに「自分は不当な扱いを受けている」と感じてしまうわけです。

家庭内暴力事例で示される怒りは、実はこうした欲求不満を背景にしていることが多いと私は見ています。
こちらも「自己愛」のテーマですね。

さて、こうした高すぎる理想を抱いている場合、それを下方修正していくことが大切です。
つまり、「理想の自分」を「現実の自分」に近づけていくアプローチということになりますね。

これを実践する際、現場のほとんどで間違えている対応があります。
それが「褒めて伸ばそうとする」というやり方です。
「すごいね」「偉いね」と褒める行為は「理想の自分」を維持・強固にしてしまう恐れがありますし、問題が出現している事例では褒めるという行為によって何も変化しないことが実感されていることがほとんどです。

なぜ褒めることによって変化しないのか?
「褒める」という方針は、その実「ネガティブな部分に触れないようにする」という対応になってしまっていることが多いのです。
ネガティブな部分を無視し、多くの場合、無理やりポジティブに捉えようとする姿は子どもたちを深く傷つけます。
「私たちの一部を受け取ってくれないのか」と。

なぜなら、彼らは「自分は理想通りの姿にはなれない」ということを薄々感じ取っているからです。
ただし、彼らはそんなことを絶対に言いません。
彼らのプライドの高さは自己愛の傷つきに起因していますが、そういうことを真っ直ぐに語るということは出てきません。
しかし、小学生~中学生くらいの事例では、何かのおりに「俺なんかダメだ」「生きている価値が無い」という言葉を家庭内で発しています。
これは否定的な言葉として受け取れるのでしょうが、彼らの正直な訴えなわけです。

それを「そんなことないよ」「あなたはちゃんとできるよ」「頑張ればできる子だから」と否定することによって「彼らの弱い部分を受け取らない」ということになってしまいます。
ひどい家庭内暴力の事例では、こんなことを言うと殴りかかってくることもあるくらいですよ。

これらを総合すると、彼らの支援に必要なのは「彼らの弱い部分についても「そのままでいいよ」と言えるような環境の構築」となります。
弱い部分を否定したり激励して「受け取らない」のではなく、弱い部分に対して「そのままでいいよ」と変わらずに接すること、その気持ちが伝わるように日々の関わりを修正することが肝要です。

具体的にはどういうことを行っていくのか?
まずは「褒める」という感覚よりも、良い部分は「正当に見る」ことです。
過剰に取り上げたり、誇張するという姑息なやり方は彼らに通用しません。

また、ネガティブな部分、たとえば先述した「俺なんかダメだ」という言葉に対しては、ダメであることを否定しないこと、親や支援者にとってはダメであっても関係ないこと、が大切です。
年齢によって具体的な言葉かけは変わってきますが、「あなたは自分のことをダメだと思うかもしれないけど、お母さんにとってはそんなこと関係ないんだけどね」といった具合でしょうか(事例やタイミングによっては、こういう言葉が適さない場合も多い)。

ただし、大切なのはそういったスポットでの言葉かけではなく、日々の接する態度や日常的な言葉かけ(おはようの挨拶など)です。
長い時間をかけて積み上げてきた「理想の自分」を下方修正していくことは、文字通り人生の方向性の修正になるわけです。
これはとても時間のかかる行為だと思っておいた方がいいです。

例えば「キリスト教の人が仏教に改宗する」「阪神ファンを巨人ファンにする」というくらい大変なことです。
これらは言葉で言っても変わるようなものではありません。
目の前に巨人ファンがいてその良さを言われ続けると、阪神ファンはますます自分の考えや立場に固執しますし、反発するのが自然ですよね。

自然の流れのなかで、少しずつ彼らの強固な「理想の自分」を下方修正し得るような環境調整が大切です。
また、修正するという姿勢よりも、面従腹背でも良いと思っています。
腹の中は違っても、社会的にはやっていけるという状態は社会的な存在として必要な能力でしょう。
いずれにせよ、こうした問題はゲーム依存やひきこもりにつながることが多い状態ですが、改善には時間がかかるのがデフォルトと考える方が良いと思っています。

終わりに

ここに書いたことはあくまでも大枠の支援案です。
特に安心感のある環境の構築は、非常に繊細な作業になりますし、実践はもっと複雑で、細やかな環境のマネジメントが求められます。
社会との関わりによっては、それがどういう意味を持つかを把握しつつ見守ることが大切になるなど、段階により支援の構えというのもありますね。

ここで挙げたような自己愛の問題は古くから指摘されており、コフートによって理論化されているものですから、専門家にとっては馴染みあるものだと思います。

こういった問題は、これから増えていくと思います。
現在の社会状況では「増えないはずがない」というのが私の予測です。
専門家として、しっかりと事態を把握し、ベターな対応をできるよう準備しておきたいところです。

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