自分らしさってどうやったら出てきますか?という問いを向けられた人は多いでしょう。
私個人の答えは「他者と共存することを通して出てきますよ」ですが、もうちょっと具体的で日常的に行えそうなことを述べていきます。
まずは「記名的に語る」こと。
記名とは「氏名を書きしるすこと」です。
すなわち「記名的に語る」とは、「いま語っているこの言葉やその内容は、私の名前を付けて発していますよ」ということです。
記名の反対語は「匿名」です。
つまり、名前を伏せているということですね。
名前を伏せて語るということは、極論すれば「この言葉やその内容は誰のものであってもよい」ということです。
「誰のものでもよいことを語ること」によってでは、オリジナリティが育まれないのは当然の帰結です。
おそらく反論として「匿名の方が自由に語れるし、そちらの方が自分らしい意見を示せるのではないか」ということが考えられますが、これは誤りです。
匿名で「正直な意見」を発信し続けている人物に多く会っていますが、そういう人たちが社会的な場で自己表現が行えているか、もしくは行えるようになっているかと問われれば、素直に首肯できません。
記名的に語ることで生じるのは「責任」です。
「自分の語りに責任の重みを感じること」は、自分の言葉がどのような解釈可能性があるのか、どのような立場の人がそこにいる可能性があるのか、一部を切り取られたときにどのように受け取られる可能性があるのか、などを点検し続けることを自身に課すことになります。
このことは「守秘義務」が保たれているケースカンファレンスの場でも同様だと私は思います。
カンファレンスの場で発される言葉は「その場から漏れることはない」のは当然ですが、私は「その場にクライエントがいても語れるような言葉を使うこと」が大切だと思っています。
その言葉に「これは私の言葉です」と付箋を貼って(つまり記名して)、それがクライエントに届いたとしても大丈夫だと思える言葉を使うのです。
もちろん専門的なことやクライエントの無意識レベルのことをやり取りすることはあるでしょうが、それでも「その場にクライエントがいる」と思いながら語ることで、その語り口は評論家然としたものにならず、それは事例提供者がクライエントに語りかけるモデルともなり得るでしょう。
個人的な意見ですが、近年のカンファレンスの問題は、よく指摘されているような「事例提供者が傷つく」ことよりも、「その場にクライエントがいないことをいいことに、好き勝手クライエントを評することに僅かな躊躇いも生じない言葉」の増加だと思っています。
これが私の周囲でのみ生じている局地的な出来事であればよいのですが。
このように、記名的に語りその責任の重みを感じつつ日々の発信を行うことは、常に「ここにはいない他者」を意識し続ける行為です。
これは発信源である自分の考えやその枠組みを点検・研磨し続ける行為であり、「未熟な自分」を頭の片隅に置いておくことであり、成熟へと向かう知的なブレイクスルーを妨げない構えであると思います。
長くなりましたが、上記が1つ目です。
2つ目は「どんな場面にでも当てはまる言葉を使わないこと」です。
言い換えれば「その場、その時、その人にしか通じない言葉を使うよう努力すること」です。
あるカンファレンスで大学院教授が「もっと傾聴しないと」とアドバイスしていました。
私はこれを聞き、河合隼雄先生の「傾聴や共感をしなさいという助言は、三振したバッターに「バットにボールを当てなさい」と言っているのと同じである」という言葉を思い出しました(細かい表現は違うかもしれません。詳しくは以下の書籍を参照)。
傾聴や共感などはカウンセリングにおける「グランド・セオリー」であり、どのような場面であっても重要な事柄なわけです。
すなわち、上記の助言は「当てはまらない場面が存在しない助言」と言えます。
「人の優しくしよう」「平和を目指す」「十分な配慮を心がける」などのような言葉と本質は同じものであり、オリジナリティはかけらもないと言って良いでしょう(よく政治家が使っていますね)。
重要なのは、その相手の特徴を捉え、状況の流れを読み、その場でしか発せられないような言葉で思いを伝えることです。
「どんな場面でも、まぁ言えそうな言葉」ではなく「今ここ、この瞬間にしか言えないようなことを言う」ことです。
これはカウンセリングでも同じではないでしょうか。
クライエントさえも気がついていないようなクライエントの苦しみにカウンセラーが気づき、表現し、クライエントの内に染み込むように伝えるには、「今ここ、この瞬間にしか言えないようなこと」でなければならないと思います。
また、有体の言葉であっても「その瞬間だからこそ、強烈に伝える力が高まる言葉」というのもありますね。
このように表現された言葉は、まさに「その人がその瞬間にしか発することができない言葉」という意味でオリジナリティに溢れているわけです。
これらの力を鍛えるためには、普段から「どんな場面でも、まぁ言えそうな言葉」を使わないことが大切だと思っています。
よく聞く「ヤバい」という表現、これはどんなときにも使える言葉になっているらしいですね。
これってどんなときにも包括的に活用できるという点で便利ではありますけど、自分の内面に問い合わせ、それを伝えるために細やかな言葉を絞り出していくカウンセリングという営みとは真逆の言葉の選択だと思います(と書きながら「真逆」って表現、おかしくない?と思ったり)。
こうやって自分の言葉遣いを慎重に選ぶ日常を送ることで得られることがあります。
それは「クライエントの言葉に込められた思いをキャッチするセンサーが鋭敏になる」ということです。
相手の言葉を繊細に受け取るには、自分の言葉に繊細であることが前提条件だと思っています。
オリジナリティって何かを成し遂げたり、大きな出来事によって生じるものではありません。
もっと地道で、地味で、日常的で、非特異的な事柄の繰り返しによって、層が少しずつ重なっていくように形作られるものです。
だからタイトルを「常識的努力」としたのです。
ちなみにこの「常識的」という表現。
下坂幸三先生が好んで使われていますね。