高等学校における自殺予防教育に関する問題です。
おそらく「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引き)(平成26年7月)」を踏まえて解説すべきだと思うんですが、自分の経験で述べているのが8割くらいになりますのでお付き合いください。
問123 高等学校における自殺予防教育について、最も適切なものを1つ選べ。
① 生徒はゲートキーパー養成の対象ではない。
② 自殺の危機が迫っている場合の介入として行う。
③ 自殺について教師と生徒が率直に話し合う機会を設ける。
④ 自殺予防教育では、「死にたい」という生徒は自殺の心配がないことを説明する。
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解答のポイント
自殺予防教育で気をつけるべきことについて理解している。
選択肢の解説
① 生徒はゲートキーパー養成の対象ではない。
文部科学省の「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引き)(平成26年7月)」によると、学校における自殺予防教育の目標は「早期の問題認識(心の健康)」「援助希求的態度の育成」とされており、以下が提案する自殺予防に関する授業として提案されています。
- 自殺の深刻な実態を知る。
- 心の危機のサインを理解する。
- 心の危機に陥った自分自身や友人への関わり方を学ぶ。
- 地域の援助機関を知る
すなわち、長い人生において問題を抱えたり危機に陥ったりしたとき、問題を一人で背負い込まずに乗り越える力を培うことや、自分自身や友達の危機に気付き、対処したり関わったりして信頼できる大人につなぐことの重要性を伝えることを主眼に置いたプログラムとなっています。
具体的には「相談された時の「話の聴き方」を学習する」というプログラムが設けられていますね。
ちなみに、本問の解説において「子ども」という表現は、小学生~高校生までの児童生徒を指す表現として用います(あんまり高校生を子ども扱いしたくないのですが、上記の手引きには「子供」という表現で高校生までを指していますから、それに倣います)。
要するに生徒もゲートキーパー、すなわち「自殺の危険を示すサインに気づき、適切な対応(悩んでいる人に気づき、声をかけ、話を聞いて、必要な支援につなげ、見守る)を図ることができる人」として養成していくということになります。
重要なのは、どうして生徒もゲートキーパーとして養成していくのか、という点に関する理解です。
助けを求める欲求のことを「援助希求欲求」と呼びますが、自殺を考えるほどの状況にある多くの子どもは、援助者に該当する人間には自身の悩みを相談しない傾向にあります。
これは統計上も認められている事実ですが(確か上記の書籍に書いてあった)、その機微としては、彼らがこれまでの人生の中で「信頼できるはずの人が信頼できなかった」という経験があるということが、その理由の一つでしょう。
そういう経験が多いほどに、援助者という「信頼できる可能性が高い人」であるほど、過去経験からくる「信頼できない」という思いが強くなるのは、生物としての自然な反応と言えます。
ちなみに「信頼できるはずの人が信頼できなかった」という事態は、常に親に問題があるということを意味しません。
なぜなら、「この人は信頼できない」と判断する基準がその人によって微妙に異なる上に、最近の「自分の考えを大切に」という価値観が「自分の思い通りになることが大事」に変わってしまっている人ほど、正常範囲の叱りや修正でさえ「(自分の思いをわかってくれない)この人は信頼できない」という認識につながってしまうからです。
要するに、「信頼する側」のもともと持っている価値観によっては、「信頼される側」にとって非常にシビアな状況になってしまうことだってあり得るわけですね。
それに、一度「信頼できない」となった場合、その人に対して「助けを求めたい」と感じたとしても、その気持ちを抑え込むことが多いわけですが、これは客観的には「助けてと言っていない」にも関わらず、当人の主観としては「言っても助けてくれなかった」とほぼ同じ心理状態になります。
すなわち、相手が助けを求めれば助けてくれる可能性があったとしても、助けを求めないという姿勢を維持しているだけで「助けてもらえなかったという体験を、内的には繰り返している」ということになっているリスクもあるわけです。
上記以外にも、援助者だからこそ援助を求めないという思路は存在するとは思いますが、上記のような流れが一つ考えられることです。
さて、ここからが本題ですが、そうやって援助者に援助を求めない子どもたちであっても、友達には何かしらの相談を行っているという調査結果が上記の書籍で示されています。
ですから、そうした「相談された友達」がどのような対応を取るかが、「友達に相談した人」の支援に向けて大切なことになるのがわかりますね。
「相談された友達」にとにかく求められるのが、「信頼できる大人に相談してほしい」ということになり、高校での自殺予防教育ではこの点を強調して伝えることが多いです。
私は何度も高校での自殺予防教育を行ってきていますが、例えば、「友達から一緒に死のう」と言われる可能性や、共に自傷行為に至ってしまう可能性などを具体的に伝えていくようにしています。
この点については異論もあるでしょうが、他の選択肢でも述べるように、「支援者が死や苦しみに向き合う姿勢をきちんと示すこと」自体が実はものすごく大切なことであると、自殺予防教育をしてきて思うことです。
そのような具体的な状況を伝え、相談された友達が共に沈んでいくことが援助者である自分の懸念であること、そういう時には信頼できる大人に相談してほしいこと、などを「情理を尽くして語る」ということをするのが大切です。
私が行う自殺予防教育では、上記に加えて、私たちが「支援者であることで、どのような生き方をすることになっているのか」を話します。
そんな小難しい話ではなく、以下のような内容です。
- 先日、この高校の近くのコンビニでガリガリ君とお弁当を買いました。コンビニの店員さんが新人さんだったのか、温めたお弁当とガリガリ君を同じ袋に入れちゃったんですね。
- その時に文句言おうかと思ったんですけど、今度この高校でこの話をすることが決まってたので「もしも、自分がコンビニの店員に文句言ってるところを、この高校の生徒さんが見たら、相談に来なくなっちゃうんじゃないか」と思ったんです。
- だから、文句言うのをやめて、車の中でお弁当より先にガリガリ君をすぐに食べました。
- 要するに、皆さんから相談されるために、普段の生き方全部を「相談されやすくするために設計する」ということが私たちカウンセラーには求められるということなんですよね。
こういう話をするのは、カウンセラーという支援者が何を考え、どういう姿勢で「あなたたちに関わろうとしているのか」を示そうとしているわけです。
この姿勢を知っているか知らないかで、子どもたちの相談への敷居はかなり変わってきます。
こうやって、①友達から相談されることもあるし、抱えきれない状況になることもある、②そうなる前に信頼できる大人に相談してほしい、③大人たちはこういうことを考えて生きているんですよ、という流れで話していくわけですね。
いずれにせよ、生徒自身がゲートキーパーとして機能する面は少なからずあるのが現実です。
ですから、高等学校における自殺予防教育では生徒はゲートキーパーの養成の対象になってくると言えます。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。
② 自殺の危機が迫っている場合の介入として行う。
危機介入には一次予防~三次予防までの水準があるのは、過去問でも何度も示されてきたことですね。
- 一次予防:生活習慣の改善、健康教育、予防接種などの病にかからないように施す処置や指導のことです。
精神医療における第一次予防とは、ある一定の集団において、あらゆる種類の精神障害の発生を未然に防ぐこと、すなわち、その集団における精神障害の発生率を低下させることを言います。 - 二次予防:早期発見、早期治療を促して病が重症化しないように行われる処置や指導のことを指し、各種健康診断などが二次予防に該当します。
精神医療における第二次予防の目的は、早期発見と早期治療によって精神障害の罹患期間を短縮し、慢性化を防ぐことです。 - 三次予防:治療過程において保健指導やリハビリテーションを行うことにより社会復帰を促したり、再発を防止したりする取り組みのことを指します。
精神医療における第三次予防は、長期の入院生活や精神障害自体によって、生活上何らかの不都合を感じている人を減らすこと、すなわち入院経験のある障害者や自宅療養中の障害者が地域社会の中で効果的に機能できるよう復帰させることを目的としています。
高等学校における自殺予防教育が上記のいずれに該当するか、というのが本選択肢で問われていることになりますが、当然ながら一次予防に該当します。
子どもを対象とした自殺予防教育では、①予防活動:全ての人を対象にした自殺予防、②危機対応:現在危機状態にある人への対応、③事後対応:自殺が起きた後の対応、というわけ方もできますが、全校生徒や学年などを対象とすることが一般的な自殺予防教育は、予防活動に該当するものです。
本選択肢の「自殺の危機が迫っている場合の介入」になると、実際に希死念慮を訴えている、自傷行為があるなどのリスクがある状態での介入になりますから、全体に向けて行う自殺予防教育ではなく、直接本人たちにアプローチしていくのが自然と言えます。
ただし、自殺予防教育自体は危機介入という視点では「一次予防」ではありますが、学校内で自殺予防教育を行う上では、下地作りが重要であると「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引き)(平成26年7月)」で示されています。
下地づくり(基盤)となる既存の教育活動として「生命を尊重する教育」「心身の健康を育む教育」「暖かい人間関係を築く教育」などを挙げることができます。
また、これらの教育活動を充実させていくためには、子どもたちの些細な言動から個々の置かれた状況や心理状態を推し量ることができる感性を高めることや、困ったときには何でも相談できる子どもと教師との信頼関係づくり、相談しやすい雰囲気づくり、保健室、相談室などを気軽に利用しやすい所にする居場所づくりなど、子どもの心に寄り添う「校内の環境づくり」も重要になります。
ですから、危機介入という側面で見れば一次予防ということになる自殺予防教育ですが、教育という観点で言えば実施するために更にいくつかの手順が必要になるということですね。
以上より、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 自殺について教師と生徒が率直に話し合う機会を設ける。
文部科学省の「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引き)(平成26年7月)」には、Q&Aが設けられており、その中に「子供と自殺について話し合ったりして、かえって危険を増すことはないでしょうか?」というQがあり、こちらに対するAは以下の通りです。
大人からこのような反応が出てくることはめずらしくありません。しかし、深刻な問題を抱えて自殺しようと考えている子供がいたり、あるいは、マスメディアがしばしば自殺について報道したりするため、子供は自殺について多くの情報に既に触れてしまっているのです。今ではインターネットを通じてこの種の情報に触れている子供も少なくありません。直接知っている人、あるいは有名な歌手や俳優の自殺など、大人が想像する以上に青少年は自殺について多くのことを知っています。
率直で誠実な態度で自殺について話すならば、それが自殺の危険を引き起こすことはありません。漠然とした不安を一人で抱えこんでいるよりは,問題について語り、言葉で表現できる方がよいのです。事態を冷静に捉えて、他のよりよい問題解決を探る第一歩となります。
上記の通り、子どもたちは「自殺」という表現自体には触れていると考えてよいでしょうし、保護者の話を聞く限り、彼らは彼らで自身の置かれている状況を検索していることも多いようです。
ただし、実際に自殺予防教育を行う上では、率直に話し合ってよいかどうかを、その高校の先生方と事前に話し合うことが多いです。
総論的には「率直に話し合えることが大切」であるのは、支援者たちが「死や自殺に向き合う気概を持っている」ことを見せる上で大切ですが、実際には色んな生徒がいるわけです。
例えば、けっこうな頻度で自傷行為をしていて、それを周りの生徒に見える形で示している生徒がいるとしましょう。
そういう生徒たちと先生で「率直に自殺について話し合う」というのは、何が起こるかわからないという状況になりますから躊躇うのが自然ですし、必要であることはわかっていたとしても避けるということもあるでしょう。
いずれにせよ、自殺については避けるような話題ではなく、教師と生徒で話し合う機会を設けること、それを通して教師などの大人が自殺にどのように向き合っているかを伝えていくことは、子どもたちが相談しやすい土壌を作ることになるでしょう。
以上より、選択肢③が適切と判断できます。
④ 自殺予防教育では、「死にたい」という生徒は自殺の心配がないことを説明する。
素朴に考えれば「死にたい」と訴えている人は、それに見合うだけの体験をしているのではないかと考えることができます。
もちろん、その体験が客観的に見れば「それほどではない」ということもあり得ますが、本人にとっては「この上なく苦しい」ということもあり得るでしょう。
例えば、「人の役に立ちたい」と思っている子どもにとって、他者からの「役立たずだな」という言葉は、通常よりも大きなダメージを受けることになりますね。
このように、ある体験をどのように認識するか、感じるかは、当人のパーソナリティや価値観などによって大きく左右することになるわけです。
もちろん、本選択肢は「生徒(中学生や高校生)」なので、自身の内界を言語化する能力が未熟な可能性もあり、本当は「勉強やだー」「フラれたよー」「部活で負けた…」という言葉にも関わらず「死にたい」と表現することだってあるでしょう(そういうのは流石に「死にたい」じゃないのはわかるよ、という声が聞こえてきそうですが、あくまでも例えばですからね。それと、これはフォーカシングとちょっと重なる話になりますね)。
ですが、やはり「死にたい」と言うだけの「何か」があるのは間違いが無いわけですから、そして対応をして何もなければそれで良いわけですから(天気予報でちょっと大げさに予報して、備えたとしても何もなかったならそれでいいじゃない、というのと同じ考え方かなと思います)、リスクがあると思って対応していくのが自然な判断だろうと思います。
つまり「「死にたい」という生徒は自殺の心配がない」という認識はあり得ないというのが、素朴で自然な考え方でしょう。
にも関わらず、なぜ本選択肢が設けられているのか、が大切なわけです。
本選択肢にもあるように、確かに「死にたい」と言っているからといって「今すぐに死ぬ」という可能性が高いというわけではありません。
でもそれは、「仕事休みたい」と言ったから本当に休むことが少ないのと同じであり、中には抑うつ的になって本当に仕事を休んでしまう人もいるわけです。
臨床家として実践をしている人ほど、「死にたい」という言葉の頻度と実際に自死したという体験の乖離が大きいということになりますから、「死にたい」という言葉に対して別の意味を付与することが多くなります。
すなわち、「死にたい」という言葉が、注目欲求の現われ、すなわち「構ってほしいだけだ」などのように認識して、そこから「それほど構う必要はない」という頭になってしまうことが多いわけです。
ただ、ここにも論理の欠落があり、「構ってほしいだけ」だからといって死なないとは限らないわけですが、それなのに「それほど構わなくてよい」となってしまうのは、支援者側に「死にたい」という言葉で主体性が失わされているように感じるということが大きいだろうと思います。
つまり、操作されているように感じるからこそ、それに対する抵抗(これは文字通りの意味で、精神分析的な抵抗ではありません)として「構う必要はない」という認識になってしまうのでしょう。
他にも「死にたい」という言葉の裏には様々な体験が含有されていることが多いので、必ずしも死に直結する可能性が高いわけではありませんから、そのことが本選択肢を成立させている理由でしょう。
つまり、素朴に考えれば「死にたいと言っているのに、その可能性が低いというのはおかしい」とわかるわけですが、専門家であるほど「死にたいという言葉と死が直結する体験との乖離」がある等の事情があり、だからこそ「「死にたい」という生徒は自殺の心配がない」という考えが出るわけですね。
ですが、やはり「死にたい」という言葉の裏には、それに見合うだけの体験が積み重なっている可能性もありますから、軽く見るべきではないのは間違いないです。
自殺予防教育の中で「「死にたい」という生徒は自殺の心配がない」と伝えることは、希死念慮を抱えている子どもを追い込む言葉になることは間違いありませんから(その教育を受けている中に、そういう思いを持っている子どもがいることを前提としておくべき)するべきではありませんね。
以上より、選択肢④は不適切と判断できます。