公認心理師 2022-107

強迫症の症状を選択する問題です。

とても単純な出題形式ですが「客観的には強迫症状に見えなくもない選択肢」が並んでおり、その弁別を本質論からせねばならないという非常に難しい問題であると感じました(でも解くのは簡単ですね)。

問107 強迫症の症状として、適切なものを1つ選べ。
① 儀式行為
② 欠神発作
③ 常同行為
④ 連合弛緩
⑤ カタレプシー

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解答のポイント

強迫症の症状がどういう背景をもって生じるのか理解している。

選択肢の解説

① 儀式行為

本問で求められているのは「なぜ強迫症で見られるような症状(強迫行為や強迫観念)が生じるのか」という根本的な理解になります。

そうした根本的な理解を踏まえて、強迫症と「客観的には強迫症の症状に見える他の症候」との違いを述べていくことが求められています。

ここでは簡単に強迫症の仕組みについて述べていきましょう。

強迫症の成因としては、生物学的研究(遺伝的研究:家族研究・双生児研究)や生理学的研究がなされていますが、おそらくその仕組みについては精神分析学的研究が中核となるでしょう。

ただし、強迫症を器質性の障害であると主張する人もおり、その方面での更なる研究発展が待たれるところです。

一方で、やはり強迫症を理解し治療していく上では心理社会的要因を考慮に入れることは不可欠と思われ、更に発症や増悪、あるいは改善が心理社会的要因により大きく左右することは明らかです。

ここでは過去の研究全てを述べるわけにはいきませんから、Salzmanの知見を踏まえて述べていくことにします。

Salzmanが述べる「強迫性格」は、全てをコントロールし、かつそれが可能であるという尊大な自己像を持つとされます。

彼らがコントロールしようとするのは必ずしも敵意や攻撃性ばかりではなく、優しさの感情も含みます(優しさの露呈はコントロール喪失につながって、屈辱的な体験となるかもしれない)。

ただし、敵意や攻撃性は生来性のものではなく、コントロール喪失に対する防衛と見られています。

Salzmanは、平均人の強迫的心性から強迫的人格を経て強迫神経症に至るスペクトラムを考え、さらにこれらの強迫的防衛の破綻したところに抑うつ、恐怖症、嗜癖状態があると考えました。

笠原(1976)が示した強迫性格の特徴として、①人生における不確実性、曖昧性を極小に抑えるための単純にして明快な生活信条ないし生活様式の設定、②それによって整然たる世界を構成しうると考える空想的万能感、③予測不能性を排除するための何らかの呪術の利用、④不確実性の高い領域への不参加とそれによる生活の狭隘化、などを挙げています。

これらを踏まえると、古くから攻撃性や敵意については示されていますが、主たる特徴は「コントロール」という点にあると見なすことができるかもしれません。

このことは臨床での実感とも一致しており、彼らが敵意を示す場合には、その背景にある空想的万能感に周囲が抵触したときや、自身に向けているコントロールを他者にも要求する時に多いような気がしており、敵意や攻撃性そのものが強迫症の中核という印象ではありません。

こうした「コントロール」を中核に置きつつ、ここでは簡単に強迫症の仕組みについて述べていきましょう。

まず彼らを不安にさせる状況は様々であり、例えば、学校の成績の低下、進学の挫折など他者との比較や競争状況において彼らの自己評価が危機にさらされるとき、あるいは、異性への関心が増大し性衝動が亢進してそれを抑えられなくなるとき、あるいは、異性との親密な関係に入っていくとき、結婚・出産・育児など未経験な役割を担わざるを得ないとき、などとされています。

彼らには尊大な自己イメージがあり(この点については、例えば、Gabbardが幼少期における愛情やケアの不足による自己愛の病理があるとしています)、それが棄損されるような上記の状況において、感情や衝動の露呈がコントロール喪失の不安を引き起こします。

こういう時に彼らは、自分がすべてをコントロールしうるという幻想を存続させ、尊大な自己像を維持しようとしますが、それは社会との関わりを保ちながらでは困難な場合も多く、そのために社会生活から孤立する形をとる場合も少なくありません。

彼らがコントロール喪失の不安を感じたとき(および尊大な自己像を維持しようとするとき)、抑圧・否認・反動形成・知性化・合理化・置き換えなど様々な防衛機制が動員されると考えられています。

特に置き換えは強迫症の症状と関連が深いとされ、コントロール喪失の不安が手近なものに置き換えられ、それをコントロールするという形での対処法を取ることで、かりそめのコントロール感を維持することになりますが、その対処法自体が強迫症の症状として顕在化することになります。

上記に「コントロール喪失の不安を手近なものに置き換える」とありますが、この手近なものとしてよく挙げられるものの例が「不潔」ですね。

そうした不潔に置き換えられることで、その不潔への不安に対処して、根っこにあるコントロール感への志向を満たそうとするわけですが、そもそも置き換えられた不安なのでいくら対処した(手を洗うなど)としても、大本の「コントロール喪失の不安」から不安が供給されてしまうため不安は拭えず、結果として何度も対処(手を洗う)を繰り返すことになってしまいます。

こうした反応は「不潔」に限らず、さまざまな対象に起こり得ますが、置き換えられた不安への対処として行う活動が強迫行為と称されることになりますし、その強迫行為を儀式のように行うことから「儀式行為」と呼ばれることもあります(たとえば、ドアノブに触れると病気がうつると心配し過剰に手を洗い続ける、衣服の着替えなどが必ず決められた順序で行わなくてはいけないと考える、左右対称など物の配置に強くにこだわる、などを儀式のように行うということですね)。

例えば、Y-BOCSにおいて「儀式」という表現が付いている項目には以下があります。

  • 極端に長く、あるいは儀式的なやり方で手を洗う:汚いと思うものに触れたり、触れたのではないかと思うと、一日に何度も、あるいは長時間手を洗う。手だけではなく腕全体を洗うこともある。
  • 過度に長く、あるいは儀式的にシャワーを浴びたり、入浴したり、歯を磨いたり、身繕いに時間をかけたり、トイレに時間がかかったりする:シャワーや入浴、体洗いなどに数時間がかかる。もし途中で邪魔が入ると、もう一度すべてやり直す。
  • 何度も書き直したり、読み直したりしないといけない:何度も何度も同じところを読み返さねばならないので、数ページの本を読んだり、短い手紙を書くのに何時間もかかる。今読んだところが理解できなかったのではないかと心配になる。「完全な」言葉や言い方をしようとこだわる。本の中のある印刷された文字の形についての何らかの強迫観念を抱く。
  • 心の中で行う決まった儀式がある:悪い考えを取り消すために善いことを考えたりお祈りしたりするように、頭のなかで儀式を行う。これはあなたが不安を鎮めたり気持ちよくなるために意図して行う行為であり、強迫観念とは区別すること。
  • 食事をするのに決まった儀式的なやりかたをする:食べ物やお皿、お箸を特別な決まった並べ方をしないと食べられない。厳格な儀式にしたがって食事をする。ぴったりある時間にならないと食事を始められない。

これらを読んでみると、強迫症における具体的な「儀式行為」が理解しやすいかもしれませんね。

この「儀式行為」についても、その通りにしないといけないという「コントロール感」が背景にあることが見て取れ、それが崩れると「何かわからないけど、とんでもないことが起こる」という認識を持っている場合もありますね。

その「儀式行為」(もしくは強迫行動)に対して、どの程度自我違和的(本当はこんなことしなくてもいいのに、という症状に対する違和感のこと)であるか、どのくらい抵抗しているか、抵抗したときに不安がどのくらい出てくるか、などによって強迫症の重症度が変わってくるとされています。

最後に支援についての覚書を述べておきます。

  • エビデンスが認められている治療法はあるが、それをどのように説明し、その環境内で実践していくかが重要になる。しっかりとした治療法は医療機関でしか困難であることも多いので、むしろそうした治療者の柔軟性が問われていると言える。
  • 保証は根本的解決にならないが、それをしないと始まらないこともある。
  • はじめは白黒思考が強いので「どのくらい症状が生活の邪魔をしてますか?」に「100%」が多いが、徐々に「50%」「30%」のように下がっていくこともある。
  • こちらから症状を聞きすぎると治療に反する場合も多い。精神交互作用(一度気にすると、更にどんどん気になってくる)を強めているような印象を受ける。ただし、語られる症状に対して、重要な訴えとして聞くことが大切。
  • 強迫症の人に対しては「一般論」で話す方がやり取りしやすいことが多い。「あなたは」のような名指しでの関わりは攻撃と受け取られることも多い。カウンセリングとしてはちょっと弱くなるが仕方がない。
  • 共感的に聴く→生活の悩みや過去の不幸を語り、その気持ちをできるだけ共感的に汲み取る(彼らは言葉にするのは上手じゃなくても、感じ入ることはできる)→淡々と日常を語る、という改善の流れがあることを知っておくと良い。
  • 行動化は強迫の殻を破るきっかけになり得る。色々試してみることについて「うまくいかなかったら失敗」という認識ではなく、「この状況でうまくいかないことがわかったわけだから成功です」というスタンスが大切。

本当に症状にどう関わるかは、各種の治療法について見てもらえればと思います。

以上のように、儀式行為は強迫症の代表的な症状であることが明確ですね。

よって、選択肢①が適切と判断できます。

② 欠神発作

てんかんの主症状は各種の発作ですが、本選択肢はその発作の一つになります。

てんかんの定義としては、①2回以上の発作がある場合、②1回の発作であっても、脳血管障害後などで、2回目の発作がおきる確率の高い場合、「てんかん症候群」の特徴(てんかん発作の出現年齢、発作型、脳波異常パターン、頭部画像検査、その他の神経症状などに一定の共通性を有するグループのこと)を備えている場合、などが挙げられています。

てんかん発作に関しての大まかな分類は覚えておきましょう。

こちらのサイトにある表になりますが、非常に見やすいです。

また、てんかん親和的な人とのコミュニケーションについては、中井久夫先生の「看護のための精神医学」に詳しいです。

欠神発作とは、全般発作の一つであり、数十秒間にわたり意識がなくなる発作ですが、けいれんを起こしたり、倒れたりはしません。

脳波では3ヘルツの棘徐波結合が見られるのが特徴とされています。

話をしたり、何かをしているときに、突然意識がなくなるので、急に話が途切れたり動作が止まったりします。

発作が終われば、また同じ行動を続けることが多く、例えば、食事をしていて急に箸を止め、眼球を上転させますが、数秒後、何事もなかったかのように箸を使いだします。

発作時間は5~20秒くらいと短いために周りの人にてんかん発作と気づかれず、集中力がない、注意力散漫などと勘違いされることもあります。

学童期や就学前に症状が現れることが多く、女児に多い発作で、成人になるにつれて起こらなくなる発作であるとされています。

具体的には、以下のような症状がみられます。

  • 突然意識がなくなり、ぼんやりした目つきになる
  • 眼球が上転する
  • まぶたがピクピクする(1秒間に3回程度の頻度)
  • 動作を停止する
  • 呼びかけにも反応しない

これらを踏まえれば、本選択肢の欠神発作は強迫症のによるものではなく、てんかんで生じる発作の一つであることがわかりますね。

では、ここでなぜ「何かをしているときに、突然意識がなくなるので、急に話が途切れたり動作が止まる」などのような症状を示す欠神発作が設問として設けられたのかを考えてみましょう。

おそらくそれは強迫症の症状に「強迫性緩慢」という動作が非常にゆっくり、もしくは止まっている時間が多く見える状態があるからだと考えられます。

強迫症で生じる「強迫性緩慢」は、本人の頭の中では強迫観念や強迫行為が行われていて、それらが済むまでは次の動作に進むのが困難になっている状態になります。

儀式的行為が規則的にしつこく続き、細心の注意を払いつつ、まるでその行動そのものが目的であるかのごとくきわめて長時間続くものであり、決まった順序で何一つ省略することなく繰り返されています。

つまり、こうした「強迫性緩慢」と本選択肢の「欠神発作」の動作が止まるという状態が、そこだけを切り取れば見かけ上は類似しているために、本選択肢が設けられたのだと考えられます。

ですが、やはり本質的には異なるもの(欠神発作は脳の電流によるものですし、強迫性緩慢は強迫症状によってがんじがらめになっている状態と言える)であることがわかりますね。

よって、選択肢②は不適切と判断できます。

③ 常同行為

常同行為とは、身体の一部あるいは全体に及ぶ、反復的かつ外見上は無目的な行動を指し、自傷行為を伴うこともあります。

DSM-5では、発達早期から出現し、生活上に支障が及ぶ場合には「常同運動症」と呼ばれます。

一般的な成長過程でも出現しますが、知的能力障害、自閉スペクトラム症、薬剤性疾患、神経変性疾患ならびに脳基底核の病変に伴って出現するものもあり、病態生理は多彩です(ちなみに、ハンチントン舞踏病やチック症群などとは区別されています。ちなみにチックでは目、顔、肩に生じることが多いのに対し、常同行動は腕、手、身体全体に生じやすいです)。

統合失調症の症状の一つとしても常同行動は挙げられており、無意味に同じ文句ないし行動を連続して反復することとされています。

  • (時計)これは何ですか…時計です
  • (ペン)これは何ですか…時計です
  • (本)これは何ですか…時計です

…といった感じですね。

本問を解くために大切なのが、常同行動が強迫症で生じる症状と異なるか否かを説明することになります。

一見、強迫症の症状は「常同行動:身体の一部あるいは全体に及ぶ、反復的かつ外見上は無目的な行動」と言えなくもないわけですからね。

と言っても、常同行動は様々な病理に限らず、一般的な成長過程でも出現する広範な現象ですから、その意味を限定的に述べることは困難と言えますので、いくつかの可能性を指摘するに留めておきましょう。

動物にも常同行動は見られ、ストレス状況への対処行動で生じるなどと言われていますが、ストレス状況において「同じことをする」という世界に入り込むことで、ストレス状況からの「遮断」を試みているという捉え方があり得るでしょう。

また、子どもの場合、そうした行動を通して何かを訴えているという捉え方もあり得ます。

他にも、小さい子どもがプレイセラピーなどで「何度もボールを投げて、セラピストに持ってくることをせがむ」という遊びが出ますが、これは愛着を確かめる遊びと解釈されることがあります(これは常同行動とは異なりますが、「同じことを繰り返す」という枠組みで捉えると、というお話です)。

これは「愛着を確かめる」というよりは、個人的には「世界の確かさを確かめている」「世界を踏みならして、崩れないかを確かめている」というものではないかと感じています。

このように、常同行動には様々な意味が付与される可能性がありますから、一概に「こういう意味」と限定することは難しく、大切なのはその事例に応じた理解をすることだろうと言えます。

こうした多義的な意味を持つ「常同行動」ですが、強迫症における「ある行動の繰り返し」とは明らかに背景にある理屈が異なります。

強迫症の場合、自我が揺さぶられるような不安があり、その不安をより対処しやすい(コントロールしやすい)不安に置き換え、その不安への対処行動が繰り返されます。

強迫症では「不安をコントロールしようとして、そのコントロール行動に自身がコントロールされてしまう」と表現されることもありますが、不安への対処行動をせずにはいられない状態となるため、同じ行動を繰り返しているような形になるわけです。

このように、多義的でその状況や対象ごとの理解が必要になる常同行動に対し、強迫症の繰り返し行動には精神医学的な理解がなされており、これらを同じものと見なすのは妥当ではありません。

よって、選択肢③は不適切と判断できます。

④ 連合弛緩

連合弛緩とは、思考のテーマが次々と脈絡なく飛躍し、連想に緩みが生じて話にまとまりがなくなることを指します(当人はそのことに無自覚で、指摘されても気づきません)。

連合弛緩と言えば、ブロイラーの基本症状が有名ですね。

ブロイラーは統合失調症の基本症状として以下の4つを挙げています。

  1. 連合弛緩(思考障害)association loosening
  2. 感情障害(感情鈍麻)affect disturbances
  3. アンビバレンス(両価性)ambivalence
  4. 自閉 autism

これらの頭文字を取って「4つのA」などとも呼ばれています。

ですから、「連合弛緩」と言えば、まずは統合失調症の症状という認識を持っておくと良いでしょう。

連合弛緩に類する症状として、滅裂思考(上記の症状が増悪すると、考えに関連性が見られず、言っていることにまとまりがない状態になる。 無関係の単語を並べ立てたり、自分で新たな言葉を作り出したりすることもあり、聞き手には内容が理解できない)、思考途絶(妄想や幻覚のため、思考が途中で止まってしまう)などがあり、思考の障害ということでまとめることができるでしょう。

もちろん、思考の障害自体は様々な精神疾患で生じ得ますが(例えば、双極性障害の躁状態のときなど)、連合弛緩についてはその概念提唱の経緯や、その症状を示しやすい病態などから、統合失調症の症状という認識で世間では認知されているようですね。

さて、こうした連合弛緩ですが、基本的には強迫症の在り様とは、少なくとも内的には合致しないと思っています。

連合弛緩は思考が緩んできて抑制が効かないという印象ですが、強迫症の言語内容については理解ができない場合があったとしても、根本には強い抑制(コントロールへの志向)があると見なすのが妥当です。

強迫症の言葉について指摘されているのが「言葉の煙幕」という現象です。

強迫症の人には多弁な人が多く、しかもその話は詳細にわたり、本筋から逸れていくので、本人が何を言おうとしているのか、何を伝えたいのかがわかりにくくなります。

話しが抽象論、一般論にわたり、具体的に何が起こっているのかが明らかにならないし、当人の生身の感情が伝わりにくいという特徴もあります。

こうした話し方によって、彼らが生身の人間として立ち現れにくくなるわけですが、その背景には、彼らにとって生身の自分は不完全な、劣った、悪い、恐ろしい存在であるから(この辺は自己愛の問題とも絡むでしょう)と解釈されています。

これをSullivanは「言葉の煙幕」と呼び、自分が「救いようのない悪人」であることを露呈しないためであると考えていました。

非常に否定的な見方ですが、これはSullivanに限ったことではなく、強迫症患者に対する各理論家の捉え方は否定的なものが多いですね。

中井久夫先生も強迫症をめぐる嫌悪や敬遠につながる特徴について列挙しており、そうした記述自体について「私が患者との相互作用のエゲツナイ面をこんなに記したことは多分はじめてだ」とし、その理由を「強迫症については、まず治療者の解毒が必要だと私は思う」としています。

続けて「そうした解毒なしに建前的ヒューマニズムで治療しようとすると患者も治療者も破滅しかねない。一般に治療はべたついたヒューマニズムではできないが、特に強迫症の場合はそうなのだ」としています。

このことは、臨床の場で出会う「好意的に見ることができないクライエント」との関わりでも共通することかもしれず、だからこそSVなどの教育的機会が重要になるのかもしれません。

いずれにせよ、本選択肢の連合弛緩と強迫症の症状とは本質的に異なるものと見るのが妥当であると言えます。

よって、選択肢④は不適切と判断できます。

⑤ カタレプシー

カタレプシー(ギリシャ語で「握りしめること」を意味します)は統合失調症の緊張型で特にみられる病態になります。

統合失調症はDSM-Ⅳ-TRまでは「緊張型」「妄想型」「解体型」という分類がなされていましたが、DSM-5からは「緊張病」として別に診断されるようになっています。

こうした変更がなされた背景には、うつ病や双極性障害などのさまざまな精神疾患で緊張病が合併し得ることが認められたということが挙げられます。

本選択肢の解説のためには、緊張病の診断基準を把握しておくとわかりやすいです。

  • 昏迷:精神運動性の活動がない、周囲と活動的なつながりがない
  • カタレプシー:受動的にとらされた姿勢を重力に抗したまま保持する
  • 蠟屈症:検査者が姿勢を取らせようとすると、ごく軽度で一様な抵抗がある
  • 無言症:言語反応がない、またはごくわずかしかない
  • 拒絶症:指示や外的刺激に対して反対する、または反応がない
  • 姿勢保持:重力に抗して姿勢を自発的・能動的に維持する
  • わざとらしさ:普通の所作を奇妙、迂遠に演じる
  • 常同性:反復的で異常な頻度の、目的指向のない運動
  • 外的刺激の影響によらない興奮
  • しかめ面
  • 反響言語:他人の言葉を真似する
  • 反響動作:他人の動作を真似する
    ※緊張病の診断にはこれら12の特徴のうち、3つ以上の症状の存在が要件となっています。

上記はDSM-5の記述になりますが、以下によると「自分の意思で姿勢を変えることがなく、他者から動かされるがままとなり、長い時間そのままの同じ姿勢を保ち続ける状態」というのがカタレプシーになりますね。

カタレプシーは、高度になると筋緊張が高まり、四肢を思いのままの形に、あたかも蝋細工のように曲げて不自然な姿勢を保持することに由来する蝋屈症と言われる病態を呈します。

こうした症状は緊張病症候群(統合失調症緊張型。今では緊張病)に特徴的とされますが、同様の症状は器質性精神障害や症状精神病などで、またヒステリーなどの心因性精神障害や催眠状態でも呈することが知られています。

とは言え、カタレプシーという表現が用いられる場合には、主に緊張病性のものを指していると捉えて問題ないでしょう。

このように、カタレプシーは「統合失調症スペクトラムおよび他の精神病性障害群」の緊張病の診断基準に挙げられている項目であり、受動的にとらされた姿勢を重力に抗したまま保持する状態を指します。

強迫症との関連で考えた場合、確かに強迫症でもカタレプシーのように見える場合はあります。

強迫症の最もひどい状態では、様々な強迫行為や観念によって縛られ、がんじがらめの状態で動けなくなることさえあります。

しかし「受動的に取らされた姿勢」というのは強迫症のそれとは異なる点であると考えられます。

上述している通り、強迫症によって起こってくる問題については、背景に「自身があらゆることをコントロールしうるという幻想」が備わっていると考えられており、その点と「受動的に取らされた姿勢を取り続ける」という在り様とは矛盾があるわけです(自分自身を他者からコントロールされる=他者から姿勢を動かされるということを拒否するはず)。

ですから、本選択肢のカタレプシーと強迫症の症状とは本質的に異なるものと見るのが妥当になります。

よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。

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