事例の状況から考えられる症状を選択する問題です。
それぞれの症状に関する、私なりの見解を述べておきました。
問65 25歳の女性A、会社員。Aは、混雑した電車に乗って通勤中、急に動悸や息苦しさ、めまいを感じ、「このまま死んでしまうのではないか」という恐怖に襲われ、慌てて病院の救急外来を受診した。心電図などの検査を受けたが、異常は認められず、症状も治まったため、帰宅した。しかし、その日以来、突然の動悸や息苦しさなどの症状が電車内で繰り返し出現した。次第に電車に乗ることが怖くなり、最近は電車通勤ができていない。複数の医療機関で検査を受けたが、原因は特定されず、心療内科クリニックを紹介された。受診したクリニックの公認心理
師にAの心理的アセスメントが依頼された。
Aの状態の理解として、適切なものを 1 つ選べ。
① 強迫観念
② 心気妄想
③ 侵入症状
④ 対人恐怖
⑤ 予期不安
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解答のポイント
各症状の仕組みを理解している。
選択肢の解説
⑤ 予期不安
まずは本事例の特徴を見ていくことにしましょう。
「混雑した電車に乗って通勤中、急に動悸や息苦しさ、めまいを感じ、「このまま死んでしまうのではないか」という恐怖に襲われ、慌てて病院の救急外来を受診した。心電図などの検査を受けたが、異常は認められず、症状も治まったため、帰宅した。しかし、その日以来、突然の動悸や息苦しさなどの症状が電車内で繰り返し出現した」とあり、ここまでの内容を見れば本事例がパニック症であることが想定しやすいと思います。
DSM-5のパニック障害の診断基準をみてみましょう。
A.繰り返される予期しないパニック発作。パニック発作とは、突然、激しい恐怖または強烈な不快感の高まりが数分以内でピークに達し、その時間内に、以下の症状のうち4つ(またはそれ以上)が起こる。
注:突然の高まりは、平穏状態、または不安状態から起こりうる。
- 動機、心悸亢進、または心拍数の増加
- 発汗
- 身震いまたは振え
- 息切れ感または息苦しさ
- 窒息感
- 胸痛または胸部の不快感
- 嘔気または腹部の不快感
- めまい感、ふらつく感じ、頭が軽くなる感じ、または気が遠くなる感じ
- 寒気または熱感
- 異常感覚(感覚麻痺またはうずき感)
- 現実感消失(現実ではない感じ)または離人感(自分自身から離脱している)
- 抑制力を失うまたは“どうかなってしまう”ことに対する恐怖
- 死ぬことに対する恐怖
注:文化特有の症状(例:耳鳴り、首の痛み、頭痛、抑制を失っての叫びまたは号泣)がみられることもある。この症状は、必要な4つ異常の1つと数えるべきではない。
B.発作のうちの少なくとも1つは、以下に述べる1つまたは両者が1ヵ月(またはそれ以上)続いている。
- さらなるパニック発作またはその結果について持続的な懸念または心配(例:抑制力を失う、心臓発作が起こる、“どうかなってしまう”)。
- 発作に関連した行動の意味のある不適応的変化(例:運動や不慣れな状況を回避するといった、パニック発作を避けるような行動)。
C.その障害は、物質の生理学的作用(例:乱用薬物、医薬品)、または他の医学的疾患(例:甲状腺機能亢進症、心肺疾患)によるものではない。
D.その障害は、他の精神疾患によってうまく説明されない(例:パニック発作が生じる状況は、社交不安症の場合のように、恐怖する社交的状況に反応して生じたものではない:限局性恐怖症のように、限定された恐怖対象または状況に反応して生じたものではない:強迫症のように、強迫観念に反応して生じたものではない:心的外傷後ストレス障害のように、外傷的出来事を想起するものに反応して生じたものではない:または、分離不安症のように、愛着対象からの分離に反応して生じたものではない)。
このように本事例の症状がパニック症のものであることがわかると思います。
その後の「しかし、その日以来、突然の動悸や息苦しさなどの症状が電車内で繰り返し出現した。次第に電車に乗ることが怖くなり、最近は電車通勤ができていない」というところは、診断基準Bに該当するものになり、これらが本選択肢の「予期不安」に該当するものです。
予期不安とは、ある状況で一度強い否定的な感情を経験した後、再び同じような状況に置かれたときに、また以前の失敗が繰り返される、悪いことが起こるなどと将来のことを悲観的に予測し、その結果、高まってくる不安のことを指します。
パニック症のケースでは、電車の中で予期せぬパニック発作を経験した後に、電車に乗ろうとすると、自分が狂ってしまうのではないか、死んでしまうのではないかという強い予期不安が生じるために、電車に乗れなくなって仕事に行けないという場合が典型的ですね。
本事例はそうした典型例を示したものであると考えられます。
よって、選択肢⑤が適切と判断できます。
① 強迫観念
強迫観念についてはDSM-5の基準を見ておきましょう。
A.強迫観念、強迫行為、またはその両方の存在
強迫観念は以下の1. と2. によって定義される:
- 繰り返される特徴的な思考、衝動、またはイメージで、それは障害中の一時期には侵入的で不適切なものとして体験されており、たいていの人においてそれは強い不安や苦痛の原因となる。
- その人はその思考、衝動、またはイメージを無視したり抑え込もうとしたり、または何か他の思考や行動(例:強迫行為を行うなど)によって中和しようと試みる。
強迫行為は以下の1. と2. によって定義される:
- 繰り返しの行動(例:手を洗う、順番に並べる、確認する)または心の中の行為(例:祈る、数える、声に出さずに言葉を繰り返す)であり、その人は強迫観念に対して、または厳密に適用しなくてはいけないある決まりに従ってそれらの行為を行うよう駆り立てられているように感じている。
- その行動または心の中の行為は、不安または苦痛を避けるかまたは緩和すること、または何か恐ろしい出来事や状況を避けることを目的としている。しかしその行動または心の中の行為は、それによって中和したり予防したりしようとしていることとは現実的な意味ではつながりをもたず、または明らかに過剰である。
注:幼い子どもはこれらの行動や心の中の行為の目的をはっきり述べることができないかもしれない。
これらを踏まえて、本事例の状況を見ていきましょう。
本事例では「混雑した電車に乗って通勤中、急に動悸や息苦しさ、めまいを感じ、「このまま死んでしまうのではないか」という恐怖に襲われ、慌てて病院の救急外来を受診した。心電図などの検査を受けたが、異常は認められず、症状も治まったため、帰宅した。しかし、その日以来、突然の動悸や息苦しさなどの症状が電車内で繰り返し出現した」とあり、強迫観念らしきポイントとしては「繰り返し出現した」という点かもしれませんが、「特徴的な思考、衝動、またはイメージ」が繰り返されているわけではありませんね。
また、生じた不安を何かしらの儀式などで中和している様子も見られないことから、本事例で生じているのは強迫観念であるとは言えないと考えられます。
ここでパニック症と強迫の仕組みの違いについて理解しておきましょう。
パニック症のポイントは、その人が「何かしら不満な環境があり、その環境の中で自身の陰性感情を抑え込んでいる」という場合が多く、こうした説明を行うと彼らは比較的容易に不満に感じている環境の存在について陳述します。
個人的な印象ですが、パニック症の人が示す死の恐怖は「その環境の中で生じた強い怒り・攻撃性を自身の内側に抑え込んでいるうちに、それらが自身に向いた結果生じるもの」ととりあえず仮定して関わっています(正誤は不明だが、実践上は大きな齟齬はない)。
ちなみに母親がパニック症を示しており、子どもが不登校の場合、子どもの癖としてほぼ100%の確率で「気持ちを抑え込む」というものがあり、これは母親の「不満な環境で生じる陰性感情の抑え込み」がコピーされたものと見なすと理解しやすいです。
これに対して強迫は「何かしらの要因(問題の大きさや自我の脆弱性)によって自身の精神世界では扱えない不安を、まだ扱いやすい不安に置き換え、その不安に対処する様子がそのまま症状・障害と認定されている」というものです。
つまり強迫は、本質的な不安から離れて、別の不安を呈し、その「不安に対処している様子」を記述した疾病概念であると考えておくと大きな間違いはないと言えます。
特に強迫観念は、その根っこに「コントロールできないものをコントロールしようとしている」というニュアンスがあり、それが儀式的な繰り返し(いわゆる強迫行為:こうすれば大丈夫、という感じ)などに繋がっているように感じています。
それぞれの仕組みを理解し、きちんと弁別できることが大切ですね。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。
② 心気妄想
心気反応は、病気がないのに重病であるのではないかと心配し、あるいは軽い故障を重病ではないかと心配するものであり、病的な場合は病気であるとの妄想(これが本選択肢の心気妄想と呼ばれるもの)や体感幻覚様の体内の奇妙な感じにまで至ることもあります。
妄想とは、明らかに間違った内容を信じており、周りの人たちが訂正しようと論理的説明を以てしても修正不可能な考えのことを指し、上記の「心気反応」と「妄想」とが合わさって「心気妄想」ということになります。
つまりは、「病気がないのに重病であるのではないかと心配し、あるいは軽い故障を重病ではないかと心配するもの」という心気反応が、「強く信じ込み、論理的説明で修正しようとしても修正不可能である」という妄想が合わさっていると心気妄想ということになるわけですね。
教科書的(フロイト的)な説明だと「小心な人、無力者、自信欠乏者に、災害や、身近な人の死や性病や性的悪癖のための罪悪感などから生じる」とされていますが、私の印象では「不安に脆弱性を有する人が、何かしらの不安を身体のちょっとした違和感に置き換えている」というケースが多いように感じます。
不安に脆い人が、認識すると自我が揺さぶられるような不安に対して「置き換え」を行うということですが、その置き換え先が身体のちょっとした違和感であり、例えば、ちょっと頭痛があるだけで「脳腫瘍では」と思うということが生じるわけです。
この症状にはいろんな段階があると思っていて、ポイントとしては、①自我違和的であるか否か(そんなはずないのに、という思いを抱けるか否か)、②検査等の科学的結果を否定するか否か(不満ながらも(すんなりという人はほぼいない)受け入れるかどうか)、③置き換えられた不安であれば、いったん検査で否定されても症状はまた出現するわけだが、その繰り返し自体に違和感を覚えられるか(そういうやり取りができるか否か)、などがあり得ますが、妄想的な場合はどれも良くない方向であるように感じます。
さて、上記を踏まえて本事例を見ていくと、「混雑した電車に乗って通勤中、急に動悸や息苦しさ、めまいを感じ、「このまま死んでしまうのではないか」という恐怖に襲われ、慌てて病院の救急外来を受診した。心電図などの検査を受けたが、異常は認められず、症状も治まったため、帰宅した。しかし、その日以来、突然の動悸や息苦しさなどの症状が電車内で繰り返し出現した」とあります。
この「検査を受けたが異常は認められず」「しかし、その症状が繰り返されている」というところが、心気症状のニュアンスがあるということでしょうね。
ですが、いったん「症状も治まった」とありますし(妄想的であればそう簡単ではない)、症状の生じた状況を見る限り、心気妄想よりも別の問題を想定すべきであると考えてよいでしょう(この辺の論理については、別選択肢で述べていますね)。
「混雑した電車に乗っていたという状況」「症状が急に動悸や息苦しさ、めまい」「このまま死んでしまうのではないかという恐怖」というのは、心気症状を疑うよりもパニック症をまずは考えていくべき症状群ですね。
以上より、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 侵入症状
侵入症状はPTSDの症状の一つであり、もともと再体験症状と呼ばれていたものですね。
災害や事故・犯罪被害などで「もうこのまま自分は死んでしまう」「どうすることもできない」状況に直面して強い恐怖や無力感を体験した後で、その記憶が何度も思い出され、その場に連れ戻されたように感じ、その時と同じ感情がよみがえることを指します。
受身的な心的外傷事態を体験すると、生体は「次同じことがあったとしても対応できるように、何度も復習する」という状態に自動的になることがあります。
そのときの感覚を身体に刻み込み続けることで、そうした心的外傷事態を避けたり、覚醒状態を保って対応しやすくするという機能にもつながっていくと考えてよいでしょう。
こうした「生体の防御機能が、いわゆるPTSDの症状として認識されている」と考えておくことが、PTSD支援の基本ではないかなと思っていますし、そうした支援者側の認識を伝えることが支援の最初の手続であろうと考えています。
さて、本事例では「症状が急に動悸や息苦しさ、めまい」「このまま死んでしまうのではないかという恐怖」が見られますから、こうした反応を裏付けるような体験が示されていればPTSDの侵入症状を疑うのですが、そうした背景は示されていませんね。
となると、すでに述べた通り、本事例の症状はパニック症の代表的なものでしょうから、まずはそちらを第一選択として支援にあたっていく方が合理的な判断になるでしょう。
よって、選択肢③は不適切と判断できます。
④ 対人恐怖
対人恐怖とは、他者と会話したり、他者の前で何かをするときに生じる強い不安や緊張のことを指します。
一般的に、青年期で高まりやすく、対人不安、対人緊張、社交不安と称されることも多いものです。
対人恐怖症という疾病概念自体はDSMからは消えましたが(自己臭恐怖、醜形恐怖、強迫症、社交不安症に組み込まれている)、これは、他者に軽蔑されるのではないか、不快な印象を与えるのではないか、嫌がられるのではないかと思案し、対人場面を避けようとする病態であり、赤面恐怖、視線恐怖、自己臭恐怖、醜形恐怖などの諸類型の総称になっています。
この症状のポイントは「自分が相手を不快にさせるのではないか:自分の視線が相手を怖がらせる、自分の臭いやお腹の音が相手に届く」ということが主題になるということであり、自分という存在が良くないものであり、それが相手を傷つける、痛めてしまうということを恐れているということになります。
単純に「音が鳴って恥ずかしい」という一般心理によって生じていると考えず、何かしらの異常心理(という表現は最近はしませんね)の存在を想定することが重要になります。
それともう一つの症状のポイントは「浮動性のある関係性で生じやすい」というところであり、つまりは、家族や全くの他人など「関係性がある程度固まっていたり、これから関係性の発展がない対人関係」では生じないのが対人不安の特徴でもあります。
言い換えるなら、学校の友人関係のような「これからの関わりによって、いくらでも関係性が変わり得る」という状況で生じやすいのが対人恐怖なわけですね(ですから、幼馴染や昔からの親友などには生じないのが一般的です)。
他にも理解と支援のポイントとなりそうなのは、①自身に対する否定的な価値づけが潜んでいる、②安心感が得られる状況では明らかに症状が少ない(安心感のない状況が悪いと考えないことがポイント)、③症状が出やすい環境を避ける理由になる場合が多いが、そうした環境の中に本人の「価値」を揺るがす何かが潜んでいる、などかなと思います。
これらを踏まえて、クライエントへの支援の方針を考えてみるとそうズレたものにならないだろうと思いますね。
さて、これらを踏まえて本事例を見てみると、「混雑した電車に乗って通勤中」ということで対人恐怖を連想したのでしょうが、これは対人恐怖に対する認識が誤っています。
電車に乗っている対人関係は「浮動性のある関係」ではありませんから、一般的には対人恐怖が生じるようなものではありません。
それに何度も述べている通り、本事例の状況ではパニック症を第一選択と見なすのが自然ですから、上記と併せて考えると対人恐怖は除外しておくのが適切な判断でしょう。
よって、選択肢④は不適切と判断できます。