一般的なカウンセリングのイメージとして、相談する側が話して、それをカウンセラーが「聴く」という状況が浮かぶのではないでしょうか。
その前提には言葉の行き交いがあると思う人も多いでしょう。
ずいぶん前の体験です(本質以外は変更してありますし、許可も取っています)。
場面緘黙の中学生ですが、ある問題を起こしたためにカウンセリングを受けるよう勧められて来談しました。
場面緘黙ですから、初対面の私に話すことはなく、私は伝え聞いている出来事の確認をまず行いました(Yes、Noは頷き、首ふりで表現可能だった)。
その場では、問題行動について「悪意があってやったこととは思えない」という見立てを伝え、その上で「私はこういうことが繰り返さないほうがいいように思うが、あなたはどうか」ということを問うと同意したので、そのための具体的方策を提案し、周囲にも伝えておきたいことなどの了解を得て面接を終えました。
ちなみに私は緘黙症のクライエントと筆談でやりとりすることを好みません。
人間の発達段階を考えたとき、書くことから始まるということはあり得ず、話すことから始まって書くことに移行していきます。
この話すということをすっ飛ばして、書くというコミュニケーションを行うのは、一見疎通性が良いように見えても、発達段階を踏まえれば歪みがあるわけです。
緘黙症で筆談でのやり取りでカウンセリングを行っている場合は、まずは首を縦や横に振るという段階にまで戻ってもらうことが良いと思います(治療的退行の勧めですね。そもそも緘黙自体が治療的退行であるという見方もできます)。
おそらく言語によるコミュニケーションを文字だけでやっているという状態は、そこからの変化が生じにくいと考えられます。
本来、もっとプリミティブなツールでのやり取りが良いのでしょうが、仕事状況としてそうもいかないことも多いですから、上記のように私が言葉でいろいろクライエントのことを推測して話し、クライエントはそれに対して首ふり等で応じたわけですね。
クライエントの表情からは、私の面接に対してどのように感じているのかは読み取れませんでしたが、その後、クライエントが母親に話したことは以下の通りです。
「だいたい、自分のことをわかってくれていた」
「これからも話をきいてもらえる場があるのは良いと思う」
さて、ここで気がついた方もおられると思いますが、クライエントは私に一言も言葉は発していません。
にも関わらず「これからも話をきいてもらえる場があるのは良いと思う」と述べたわけです。
少なくともクライエントは、私との面接で「話をきいてもらえた」と思ったわけです、一言も話していないのに。
このことをどう理解するのか。
聴くという現象を因数分解したとして、その中にはおそらく、「理解された」という体験が含まれているのでしょう。
私がクライエントに伝えた、クライエントの行動に対する見立ては「自分のことをわかってくれていた」と評するくらいではあったわけです(枕詞に「だいたい」がついていることを忘れてはいけませんけどね)。
そうした「わかってもらえた」という感覚が、クライエントにとっては「きいてもらえた」という表現につながったのではないかと思うのです。
ただし、聴く=理解されたという体験、と安直に考えるのは拙速でしょう。
先述のように、聴くという現象を因数分解すれば、もっと多くの体験がそこには含まれていることだろうと思うのです。
それを一つひとつ細やかに把握する力は私には有りませんが、多くの先駆者がその点に関しては論じていますね。
それに、理解されたという体験も、ある一定以上のラインを超えると良くないかなと思ったりもします。
「わかられている」「お見通し」というのは気持ちが良いものではありませんからね。