臨床心理士 教育領域:H20-60

本問は前回の問題の続きになりますね。
まずは事例の内容についておさらいして、今回の問題に入りましょう。

 ある小学校の学校臨床心理士(スクールカウンセラー)が、教師のD先生からクラスの児童のことで相談を受けた。D先生によると、クラスの中に、「発達障害と思われる児童が4人いる」とのことであった。D先生は、普段から心理学にも関心をもち、勉強熱心な先生である。D先生が、これらの児童の対応について、学校臨床心理士の助言を求めてきた。

ここまでが前回の問題の内容ですね。
そして以下が本問に係る内容になります。

 D先生から相談を受けた4人の児童の中には、保護者の認識が甘く、「家ではなんの問題もない」と言われて放置されていたり、教師の間でも「わがまま」として片付けられていたりする子どもがいた。このような児童への対応に関する記述について適否を答えよ。

さて、本問のように「発達障害」への認識が適切ではない状況は、現場ではあるあるですね。
こうした事態に対してどのように関わるのか、本問を通して考えていきましょう。

A.発達障害に対する正しい認識を持ってもらえるよう、教師や保護者に対する研修機会を設ける。

本選択肢の対応は、一般的には正しいでしょうし、本問の解答としても〇であろうと思います。
保護者も教員も発達障害に対して適切な認識ができていない、だから発達障害の研修機会を用いてその認識を正そう、ということですね。
こういう対応は、まぁ、合理的なものであると言えるでしょうから、本選択肢は〇と判断できます。

…しかし、おそらく私ならばこの選択肢の対応は採らないだろうと思います。
少なくとも第一選択にはなり得ず、いくつかのポイントをチェックしていくことが重要になってきます。
その理由やチェックポイントを以下に述べていきます。

留意すべきなのは、保護者が「家ではなんの問題もない」と述べるにはそれなりに厄介な心理が働いている場合が少なくないということです。
まず、考えられるのは「家ではなんの問題もないのだから、学校の対応が悪いのだ」という認識を暗に持っている場合です。
こうした認識を持つ保護者に対して、発達障害の研修会を行うという対応は反発を招く可能性があります(お前たちの対応が悪いんだろうが!的な)。

他にも、「家ではなんの問題もない」が事実である場合、そもそも発達障害であるという見立てが怪しくなってきます。
例えばADHDの診断を見てみると「2つ以上の状況において(家庭、学校、職場、その他の活動中など)障害となっていること」という基準が設けられているように、状況依存的ではない面があります。
本事例では、発達障害の種類まで明示されていませんから、この点でこれ以上の議論は困難ですが、ここで述べたような可能性も考えると「発達障害に関する研修機会を設ける」ことが本当に適切か一考の余地が出てくるのではないでしょうか。

また、「家ではなんの問題もない」と発する保護者が言いがちなこととして「自分も小さいころはこんなもんだった」ということです。
こういう方は、確かに「発達障害への認識が適切ではない」のですが、自分がそうやって生きてきたという実感があるために、研修機会を設ける程度で認識の修正ができないことが多いです。
「実感は論理に勝る」は人間の質(たち)だと思います(妄想が論理的説明で修正不可能なことが思い合わされます)。

更に、発達的な問題が見受けられるのに「家ではなんの問題もない」と述べているならば、子どもに対するサポートの意欲が薄いということも考えられますね。
こうした意欲の薄さがどういう力動で生じているかは個々の事例によって異なりますが、研修機会を設けても参加するかどうかも怪しいですし、参加したとしても認識が入っていかないことが多いですね。

このように「家ではなんの問題もない」というありがちな言葉には、さまざまな保護者自身や家族全体の課題が反映されていることが多いのです。
ここで述べた様々な可能性を考慮し、検証したうえで、発達障害に関する研修機会を設けることが適切と言えそうならば実践することもやぶさかではない、という感じですね。

反論の一つに「教師への研修機会を設けるのは良いのではないか」という意見もあろうかと思います。
この反論に対する、私のコメントは「発達障害に関する理解がそれなりに深まったこの時代において、それでも先生方が当該児童を「わがまま」と見なすには、それなりの理由があると考えて検証していくことが求められる」というものです。
「発達障害」が由来だと思われている問題の中に、実は愛着の傷つきだったり、その他の問題が影響していることが少なくありません。
教師が「わがまま」と認識している本人の言動について、こうした別の問題が関連していないかを検証していくことも重要になります。

以上のように、研修機会は別に悪くはないので本選択肢を×にする理由はないのですが、実践的な見地からいえば、本当に研修機会を設ける程度で複雑な力動が絡み合って生じている「認識」を修正できるのか疑問です。

ちなみに、私は運行管理者講習の講師をしていたことがあるのですが、そのときに「交通安全講習会を実施した効果は、3ヶ月で薄れていく」ということを知りました。
これはもしかしたらその他の研修・講習でも言えることかもしれないですね。
定期的な研修や講習が必要な理由もその辺にあるのかもしれないです。

B.教師と連携しながら、保護者との面接機会を持ち、共感的に話を聞く。

事例中に明示はされていませんが、おそらく事例では、発達障害かもしれない児童は学校での適応が難しい場面があるということ、そしてそのことを保護者に伝えた際の返答が「家ではなんの問題もない」だったということ、があったと見なして進めていきましょう。
つまり、学校での適応の困難さと、その背景にある発達障害の可能性を伝えた場合でも、保護者が問題意識を持たなかった状況ということですね。
このような状況で、専門家であるSCが保護者に会うということはあり得る対応と言えます。

「専門の先生が定期的に来られるので、一度お会いしてみませんか?」「私たち教員も、相談して対応の助言をもらっているんです」などと保護者に伝えて誘うことになるでしょうか。
警戒心が強い保護者であれば「このような状況の方には、全員に面談を勧めているんです」と付け加えると良いかもしれません。
見落とされがちですが、SCは「どのように保護者に声をかけるのか」という点まで細やかなコンサルテーションを行うことが重要になります。
こうした保護者を面談に誘い、それが成功するか否かは、ほぼ100%技術的な問題です。
ですが、ほとんどの場合、こうした声かけやその技法は教育現場ではその教員の資質に任されています。
こうした細かなところだけど、面談につながるようなポイントでしっかりと専門的な見地から助言を行えることがSCに求められていることなのです。

さて、誘いがうまくいって面談の機会を得たとしましょう。
本選択肢には「共感的に話を聞く」とありますが、その正誤について考えてみましょう。
選択肢Aでも述べたように、保護者が「家ではなんの問題もない」と発するには複雑な力動が背景にある場合が少なくありません。
また、学校での状況を伝えたのに問題意識が芽生えないということにも、さまざまな理由が考えられます。

かねてから子どもの問題を指摘されていて、学校から何か言われるのが辛くなっていることもあり得ます。
こういう時には、学校からの連絡が辛い母親に変わって父親が電話窓口になることを求めてきている場合があります。

精神分析的な用語を使うなら、「子どもに何かしらの発達的課題がある」という事実(かどうかはともかくとしても、そう言われていること)による心理的圧迫感に自我が耐えられないということもあり得るでしょう。
保護者が精神医学的な問題を有している場合、その傾向は顕著であることが多く、安定した受けとめが難しくなるでしょう。

このいずれの場合においても、やはり「保護者の言い分を批判せずに受けとめる」ということがSCの姿勢として求められます。
それが本選択肢の「共感的に話を聞く」の本意であろうと思います。
そうした姿勢で話を聞きながら、保護者の見立てを行い、その見立てに沿って可能なアプローチをその瞬間瞬間に選択していくことが我々の仕事になりますね。
以上より、本選択肢は○と判断できます。

C.保護者の理解を促すには、医学的診断が必要なため、すぐに保護者に受診を勧める。

先述のように、本事例の保護者は「学校から言われたけど、問題意識を持つことはなかった」わけです。
この状況下で本選択肢の対応が適切か否かを「常識的」に考えてみましょうね。

まず、問題意識をもっていない保護者に受診を勧めたからといって素直に受診するのか、という点がそもそも疑問ですよね。
これは常識的なこころの論理として矛盾があると思います。

また、医学的診断があれば理解が進むという本選択肢の前提も不当なものだと思います。
学校から言われたけど問題意識を持てなかった保護者が、医学的診断があるだけで理解が促されるというのもよくわからない論理です。
もちろん、医療には他にはない権威があります(これは医療の人は実感しづらいかもしれませんが、確かにあるのです)が、それだけで「言われたら素直に受け入れる」というほど簡単な話ではないですね。

これらから考えても、本選択肢は×になると判断できますね。
本事例のような状況で、医療機関受診をどのように捉えれば良いのか述べていきましょう。

本事例のような状況では、「医療機関を受診できれば、もう峠は超えている」と言えるでしょう。
なぜなら、医療機関を進んで受診するためには、保護者にしっかりとした問題意識が生じたということだからです。
そしてそれが生じるためには、親の言い分を丁寧に聞き(丁寧に聞かないカウンセラーがいるのか、というツッコミはおいといて)、子どもの不適応とその背景にある苦しみを共有し、その改善のために医療機関への受診が望ましいという認識が出ることが求められます。
ここまで保護者と連携した末の医療機関受診であれば、その診断結果がどのようなものであっても、その後も連携をとりながら子どもへのアプローチを多面的に行っていけると考えられますね。

なお、学校から医療に送られてきた保護者が、来院理由について問われて「学校から行けと言われたので来ました」と話す場合が少なからず見受けられます。
これは、学校側の、そしてSCが対応しているならばSCのやり方に問題があったということです。
上記のように、きちんと保護者とやりとりをして、納得した形での来院ではないということですからね。
その場では保護者は従順に言うことを聞いたように見えても、いざ医療の場で上記のような言葉を発するのは、その辺の大切な作業を怠っているからなのです。

「こころのやり残し」があると、それは必ず後で出てきます。
上記の例では、「受診に納得していない」という「こころのやり残し」があったために、いざ医師を前にしたときに「言われたから来ました(私は本当は来たくなかったんです)」という表現になったということです。
保護者に発達障害の存在を伝えて終わりではなく、それに対して抱く思いを細やかに把握してやり取りを重ねていくこと、障害を受け容れられないのであればSCが先行せずにその過程を一緒に通ること、などによって「こころのやり残し」を少なくすることができます。
特に障害に関わる事態では、こうした「こころのやり残し」を最小にするよう努力することが重要で、そこにどれだけ時間がかかったとしても、その人の支援トータルで言えば、それが一番の近道であることは間違いありません。

D.児童が「問題視」されていないのはなぜなのかということに注目する。

現在、事例の児童は保護者から「なんの問題もない」とされ、学校では教師から「わがまま」と認識されています。
教師は「困ることはあっても、悩んでいない」状態と言えるでしょうし、保護者に至っては(少なくとも表面上は)困ってさえいない状態なわけです。
しかし、担任は学級運営で悩んでいるわけですし、SCも専門家として「これは何とかしなければならない」と感じるような状況と言えます。

事例を査定する際の重要なポイントの一つに「悩みの濃度が関わる人たちで異なっていないか」ということがあります。
単純な例として、学校では良くない状況で誰しもが悩んでいるのに、保護者が悩んでいないというのは、まさに悩みの濃度が異なるわけです。
そして、こうした状況において言えるのは、その当事者である子どもが、とある場面では自分を強く抑制し、他の場面ではその反動で強く我が出てしまうということがあるのです。
だから、関わる人たちの間で悩みの濃度が異なるという事態が生じるわけですし、そういうことが生じる背景には、必ず子どもが心理的に抑制されている、負担を感じているということが考えられます。

周囲の教師が「わがまま」と片付けており、悩みの濃度が薄いことにも何かしらの要因があると思っておくことが重要です。
一例として、学内の協力体制ができておらず、当該児童の問題を他人事として遠くから眺めているだけなので「わがまま」と大雑把にくくってしまうことになっているなどが考えられます。
また、各教員が他の教室で起こっていることに頓着できないくらい疲弊しているということもあり得るでしょう。

本来、子どもの問題に対して細やかに見ていく、丁寧に観察するということができれば、単に「わがまま」と一括りにすることなどあり得ないのです。
にも関わらず、そのように一括りにしてしまっているということは、その組織に何らかの負担がかかっているということも考えておく必要があります。

このように、子どもの問題に対する認識がずれている、悩みの濃度に違いがあるという事態は、実はその事例を取り巻く環境を細やかに査定することにつながります。
そして、その査定を踏まえて、場合によっては、組織の問題に手をつけることもあり得るでしょう。
子どもが在籍する組織の安定化は、子どもへの安定的な支援へとつながるからです。
実践では、子どもへの直接的な支援と並行して、こういった面へのアプローチも考えていくものです。

以上より、本選択肢は○と判断できます。

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