ライフサイクル論に関しての問題です。
レヴィンソン、ユング、エリクソン、マーシャが登場していますね。
公認心理師でも出たことがある部分も含まれていますから、しっかりと覚えておきたいですね。
A.Levinson,D.J.は、ライフサイクルにおいて、ある発達期から次の発達期への移行は簡単には行われず、その時期が過渡期、すなわち、危機的な時期であるとした。
大人の発達について、生涯発達的視点から詳しく研究を進めたのがエール大学のLevinson,D.J.(1920-1994)です。
Levinsonは「大人であるとは、どういうことなのか」という問いに答えようとし、「大人も児童期や青年期と同じように、成人してからの生活も一定の順序をもって発達しているのか」という疑問を抱きました。
そして、この疑問に答えようとして1966年頃より研究計画をたて、1973年にいたるまで、研究グループを作って調査研究を行いました。
彼らの研究の特徴は色々あげることができますが、まずは今まで心理学において注目されなかった中年を取り上げたことが挙げられるでしょう。
次に研究グループとして、心理学、社会学、精神医学などの学際的研究を行うとともに、理論的にも異なる立場の人たちが協力し合ったこと、徹底して個人を対象として、個々人に対する面接による調査を重要視したことが挙げられます。
それまでの調査方法に対してLevinsonらは、あくまで個人に密着し、個人の生活の歴を共に探り出そうとするような方法を用いました。
彼はそれを「伝記的面接法」と呼んでいますが、その課題は「その人の個人史を作成すること」であり、「面接者と被面接者が協力し合って、この作業に取り組んだ」と述べています。
このような方法により、4つの職業につき10人ずつ、40人の対象者を設定して、徹底的な調査を行いました。
Levinsonは、上記の面接法を用いて実証的なライフサイクル研究を行った結果、生活構造(ある時期におけるその人の生活の基本パターンあるいは設計)の安定期と、それまでの生活構造を見直す過渡期が交互に現れると考えました。
人間のライフサイクルは4つの主な時代によって構成されており、各時代は約25年続き、いくらか重複を伴い、そのため新しい時代は前の時代が終わるのに伴い始まることを示唆しています。
Levinsonは始まりの典型的年齢、つまりある時代が通常始まる年齢を明らかにしています。
Levinsonのいう、時代の発達する連続とそれらの年齢的期間は、出生から22歳までが少年期(児童期)と青年期、17~45歳までが成年前期、40~65歳が中年期、60歳以上が老年期となっています。
Levinsonはまた4~5年の時代の間の過渡期を明らかにし、人が去っていく時代を終わらせ、次の時代を始めさせる期間を、境界領域として機能させています。
成人への過渡期には、大人の生活に必要な選択を行うことが大切になります。
そこでの重要な選択として「職業をもつこと」と「家庭をもつこと」があげられます。
仕事、家庭、地域社会を通じて、新米の大人から、いくつかの段階を経て、一人前の大人へと移行すると考えたのです。
Levinsonの理論では、新米の大人が、職業をもち、キャリアを形成するのに不可欠なのが、自分より先輩で仕事の相談相手になるメンター(mentor:人生経験が豊富で、指導者、後見人、助言者、教育者、支援者という役割を果たせる人物のこと。メンター自身も、若手を育てることで、新たな役割に取り組む充実感を味わったり、仕事を異なった視点から捉える機会を経験する)の存在です。
メンターとのかかわりを通じて、「自分はこの仕事で何ができるのか」と、自分の新たな可能性に気づくに至ります。
一家を構える時期には、新米の大人から一人前の大人になり、一本立ちすることが重要な課題とされています。
結婚して、家庭をもったならば、その責任を負い、夫(妻)であり、親であることに満足を見出すことが大切になります。
夫婦は2人で生活構造を組み直し、仕事と家庭のバランスを考えなければなりません。
人生半ばの過渡期は、成人前期と中年期の橋渡しに相当します。
これまでの人生を見直し、内面的変化を迫られます。
また、30代の生活を修正し、中年期に向けた生活の基盤を構築することが必要になります。
エリクソンのライフサイクルに関連していえば、この頃は、次世代を育むという世代性に取り組む時期であり、個人を超えて世代間をつなぎ、他者のために責任をもってかかわることが求められます。
Levinsonらは、もちろん、中年の時期に焦点をあてたのであるが、それを前後に拡張した形で、人間の大体のライフサイクルを見出しています。
彼は「カール・グスタフ・ユングこそ、今日の成人期の発達研究の父と言いうる人物と考えている」と述べ、ユングの考えが中年の理解に大いに役立つことを明らかにしています。
Levinsonは、かくして、人間はどのような人生を歩もうとも、大まかに言って、大体同じような段階を通ってゆくものであることを、このような学際的研究によって明らかにしたのです。
彼は自分の著書に「人生の四季」という名を与えているが、人生の中に四季の変化を読み取っているようにも感じられますね。
以上より、Aは○と判断できます。
B.Jung,C.G.は、人間のライフサイクルを4段階に分け、最も問題となる時期は成人前期と中年期であり、最大の危機は成人前期に訪れるとした。
Jung,C.G.は、人間のライフサイクルを少年期、成人前期、中年期、老人期の4段階に分け、自分自身の問題性をまだ十分に意識できない少年期と、自分の意識状況にだんだん無頓着になる老人期は人生において問題のない時期としました。
それに反して最も問題になる時期は、成人前期と中年期であり、最大の危機は中年期の転換期にあると考えました。
Jungは、彼のもとに相談に来た多くの人が中年以降の人であり、しかもよく適応している人々であったことをしばしば述べています(それらの人は人生の成功者であった)。
しかしJungの逆説的な表現によると、彼らは適応していることが悩みだったのです。
自分の家をもつこと、老後を保障する財産を作ること、地位の向上などを目標として生きるとき、それが達成されるまでは生きることの意味がハッキリしていました。
しかし、達成された後では、生きることの意味がハッキリとしていないということです。
それはうっかりすると惰性の人生になりかねません。
それまでは、彼らは生きる意味を知っていると感じていました。
もちろん、今まで築いてきたことを維持するだけでも相当のエネルギーを必要とするから、そのことにも意味は存在します。
しかし、それは惰性的なものであり、そこに積極的な意味を見出すことは難しいということですね。
このように、ユング派が中年以後の心理学に特に大きい関心を持っていることは、ユング心理学には見逃すことのできぬ特徴です。
それまで発達心理学は青年心理学のところで終ってしまい、それ以後は大人になります。
そして成熟した人間に発達心理学的問題はないかの如くでした。
したがって、中年以後に心理学的な問題が生じたとしても、それはそれ以前に当然やっておくべき課題、たとえば思春期や、時には生後1、2年の頃の問題がし残されているからだ、と考えられることが多かったわけです。
しかしJungは、人生前半の課題と後半のそれとをはっきりと分け、たとえ前半期がまったく順調であったとしても、後年には誰しもがあらためて立ち向かわねばならぬ課題がある、としたのです。
Jungの主張を要約すると、人生後半の最大の課題は、いかに老いを迎え死に直面していくか、ということのように思われます。
そのプロセスを彼は個性化と呼んだのであるが、それは、人生前半における現実適応のプロセスにおいて、われわれが必然的に切り捨てざるを得なかった心の半面を、あらためて生き抜くことを意味しています。
実のところ、フロイトもユングも強烈な中年の危機を体験しています(有名な話ですよね)。
ユングも38歳頃から、統合失調症とも見まがうほどのすさまじい体験をしています。
このすさまじい危機の間に体験したことが、その後のユングの創造活動の源泉となっていると言われています。
エレンベルガーは両者に共通なこのような状態に気づき、「想像の病」という表現をするようになりました。
つまり、これらの偉大な人間の中年における病は、その後の創造への重大な礎石となっているということですね。
以上より、選択肢Bは×と判断できます。
C.Erickson,E.H.は、自我心理学の立場から、発達における自我の役割を強調し、新生児期から老年期までの8つの心理・社会的発達段階を提唱した。
Ericksonの研究は、大きくアイデンティティとライフサイクルの研究に分けられます。
これらは、精神分析の臨床経験やガンジーなどの歴史上の偉人の事例研究がもとになって展開されました。
Erickson の1950年代の著作「幼児期と社会」では、人格形成における環境を重視する立場が鮮明に表わされており、心の発達の理論家として一躍脚光を浴びました。
彼は、人間は生まれてから死ぬまで生涯にわたって発達すると考え、その一生のプロセスをライフサイクル(人生周期)と呼び、8つの発達段階を示しました。
Ericksonは漸成発達(器官の形成があらかじめ運命づけられているのではなく、段階ごとに次々と形作られていくという発生観であり、形成体による誘導連鎖という近代の発生学の知見によって裏付けられた生物学上の概念)を提唱し、これは前性器段階やフロイトが心理・性的発達の到達点とした性器期にとどまるものではなく、人間の生から死にいたる一生を通じて行われるものではなく、人間の生から死に至る一生を通じて行われる発達として描き出されています。
この人間の一生をエリクソンは人生周期(ライフサイクル)とよび、その中に八つの時期を区別して記述したわけです。
人生周期の各段階は、その段階で解決せねばならない段階特異的な発達課題によって特徴づけられます。
これらは調和的なポテンシャルと失調的なポテンシャルとの対立によって論述されていますね。
対極的な言葉で表わされるこの一連の葛藤を、エリクソンは心理・社会的危機と呼んでいます。
しかし、ここで注意しなければならないのは、この危機とは全発達を連続して覆うわけではなく、次のステップに進むときに解決を余儀なくされる分岐的な状態を表しているということです。
その意味では、物理や化学における「臨界」という語感も含んでいることがわかります。
また、各危機の解決とは、各段階で同調的なポテンシャルの全体量が、失調的ポテンシャルの全体量を凌駕することを指し、失調的ポテンシャルが皆無になることを意味するわけではありません。
以上より、選択肢Cは〇と判断できます。
D.Marcia,J.E.は、自我同一性に関して、危機状態の有無とコミットメント(傾倒)という2つの基準から、4つの同一性地位を見出した。
青年期のアイデンティティの発達に関するエリクソンの理論は、ジェームズ・マーシア(Marcia,J.E.:1980,1966)によって検証され、展開されました。
青年期は、不安や葛藤の中にあり、アイデンティティの確立は容易ではありません。
Marcia,J.E.は、アイデンティティ・クライシスの有無、ある生き方への傾倒(=具体的には自分の考えや信念を明確にもち、それらに基づいた行動を一貫して示すことを指す)の有無によって、アイデンティティ確立の程度を、「達成型」「早期完了型」「同一性拡散型」「モラトリアム型」の4つに分けました。
一般に早期完了型や同一性拡散型からモラトリアム型、達成型へと移行していくと考えられますが、達成型から他の型に移行することもあります。
アイデンティティ・クライシスは、青年期以降も現れ、アイデンティティは生涯にわたって模索していくものです。
【達成型】
この状態にある若者は、すでにアイデンティティの危機を脱しており、その間、積極的な問いかけを行い自己を明確にする時期を通過しています。
彼らはイデオロギー的立場に関わり、独力で具体的行動をとり、一つの職業に就くことを決定しているとされています。
彼らは、家族の宗教ならびに政治的信念を再検討しており、結果的に自分自身のアイデンティティに適合しないと思われる場合は、それらを棄却することができます。
【早期完了型】
この段階の若者もまた職業やイデオロギー的立場にかかわっているが、これまでにアイデンティティの危機を脱したような兆候は何ら見られません。
彼らは自分たちの家族の宗教に疑いを抱くことなく受け入れています。
政治的な立場について尋ねると、彼らは今までそれについて十分考えたことがないと答えることが多いとされています。
彼らの中にはそれにかかわっていてまた協調的であるように見えるものもいるが、柔軟性のない、教条主義的で重農的に見える者も存在します。
また自分たちのもつ吟味したことのないルールや価値を脅かすほどの、何らかの大きな出来事が生じた場合、彼らは自分を失い、どうしていいかわからなくなるような印象を受けるとされています。
【モラトリアム型】
この段階は、現在アイデンティティの危機にいる若者です。
彼らは積極的に答えを探してはいるが、親たちが自分たちへ抱く願望と自分自身のもつ興味・関心との間の葛藤を解決していません。
彼らは一時期、一連の政治的あるいは宗教的信念を強く表明することがあるかもしれないが、それは再考した後にそれらを棄却しようとする場合に限られます。
良く見れば、彼らは繊細かつ論理的で、柔軟的に心を開いているようにみえるが、悪く言えば、心配性であり、自己正当的で、優柔不断のように見えるとのことです。
【同一性拡散型】
これはエリクソンのアイデンティティ混乱に替わって、マーシアが命名した用語です。
この範疇に入る若者には、過去にアイデンティティの危機を経験した者もいるが、未だ経験していない者もいます。
しかし、いずれの場合においても、彼らはまだ自分自身についての統合的な感覚をもっていません。
彼らは「興味」を表明することはあるかもしれないが、実際にいずれかの方向へ足を踏み出すような、行動を開始しようとはしません。
彼らは宗教あるいは政治にはまったく興味はないと答えます。
中には冷ややかな態度を示すものもいれば、あるいはただ浅薄で混乱しているように見える者もいます。
もちろん、何人かはいまだに若すぎて、青年期のアイデンティティの発達段階にまで達していない者もいるということです。
以上より、選択肢Dは〇と判断できます。