受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制を選択する問題です。
精神分析の文脈で書かれた文章にも慣れておくようにしましょう。
問100 受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制として、最も適切なものを1つ選べ。
① 退行
② 否認
③ 分裂
④ 反動形成
⑤ 投影同一化
解答のポイント
防衛機制の特徴を把握している。
選択肢の解説
① 退行
精神分析の理論において、現在の状態より以前の状態に、あるいはより未発達な段階へと逆戻りすることを「退行」と呼びます。
一般に発達の視点からみた「子ども返り」とよばれる現象がその典型であると考えられています。
Freud、S.は「夢判断(1900)」において、夢の性質の記述のために、初めて公に「退行」という言葉を用いたが、その場合の「退行」は、覚曜時には興奮が知覚から運動性へと前進するが、睡眠時には運動性にまで至らずに知覚レベルまで「退行」するという心的装置に関する局所論的な意味で使われており、とくに発達的な意味ではありませんでした。
その後、性心理の発達が解明されるに従って、時間的な意味合いが付け加えられていき、次第に精神性的発達の諸段階において、発達の諸段階とその段階への退行という意味でも「退行」の用語が使われるようになっていくことになります。
最終的にフロイトによれば、退行には、心的装置や構造における部分が変化するという意味での局所論的退行、以前の心的装置や構造が再び現れる時間的退行、より原始的な様式が現れる形式的退行という三つの側面があるとされています。
また時間的、発達的な意味で「退行」という場合には、対象に関する退行、リビドーの性的組織化の発達段階における退行、自我の発達における退行に区別することができます。
これらは退行という同じ現象のいくつかの側面であるが、当初から「退行」の意味にいくつかの側面があることは、臨床的にそれが一枚岩的な現象ではなく、その言葉が様々な現象を記述するために用いられることを表しています。
逆にいえば、「退行」という言葉で記述される現象は、いろいろな形で職床場面に偏在する(そのため特定しにくい)のであり、この言葉を厳密で限定的な意味で使うか、それとも漠然と「原初的な状態に戻ること」という意味で使うかによって、「人となり」の記述の仕方と見方が異なります。
最も代表的な見方は、固着との関連で退行を考えるものです。
その場合の退行は、固着が発達のどの段階、いかなる対象に起こっているかで異なるが、それは発達のある固着点への退行であって、フロイトがしばしば行っているように、神経症を記述する場合に使われます。
例えば、ヒステリーは固着点が男根エディプス期であって、そのため最初の近親姦的な対象へのリビドーの退行はあるけれども、性体制の初期の段階への退行は無いとされます。
他方、強迫神経症は固着点が肛門サディズム期であり、愛はサディスティックな仮面のもとでしか表現されないということになります。
こうした固着とそこへの退行の理解が、神経症を理解するときの理論として用いられており、こうした見方は病的な退行という考えになります。
退行を病的なものとしてだけではなく、Freud A、そしてその後の自我心理学がそうであるように、自我の働きとしてみる見方があります。
アンナ・フロイトは、退行を自我の「防衛機制」であると考えました。
ここでの退行は、精神分析療法の中で起こる抵抗として現れて、自我が衝動や葛藤についての不安から自らを守るために退行状態を作り出して、より衝動や葛藤を感じない段階や対象関係へと退行すると見なされます。
アンナ・フロイトが指摘するように、退行はさまざまな防衛機制と組み合わさって使われなのが普通であり、治療の中では抑圧や否認、そして退行などの防衛機制が働いていると考えられ、臨床的に見て、そこでの退行は他の防衛機制とそれほど明確に区分できるものではないが、この視点に立てば、治療中の退行を自我の防衛として、治療の進行に対する抵抗のサイン、警報の一つとみることが可能です。
自我心理学において、こうした自我の働きという側面を積極的に評価していくと、Krisが「自我に奉仕する退行」と呼んだものになります。
その退行は、クリスによれば、一時的・部分的なものであり、しばしば創造的退行とよばれ、固定的で永続的な病的退行と異なり、健康な自我の一時的・可逆的な退行現象であり、レクリエーションや冗談、創造活動などで働き、自発的な創造性が高まり、自我自律性を促進するものと考えられています。
こうした見方は「退行」を積極的に評価して、その用語を広げて、漠然と原初的な状態に戻るという非常に広い意味で用い、それを日常的な現象に当てはめたものということができます。
このように退行には、病的なもの、自我の防衛機制、あるいは日常的な現象と、限定的な意味から広義のものまでさまざまな見方があるが、さらに退行の概念を現象の記述のためだけでなく、治療のために積極的に重視する見方がもう一つあって、それはWinnicotや Balintらイギリス中間学派とよばれる人々の「治療的退行」という考えです。
彼らによれば、治療中に被分析者は全体的な幼児的退行状態にまで至るとされ、その退行は患者が治療によって抱えられることによって、病的な状態と健康な状質を橋渡しするようなものであり、治療にとって不可欠なるのであると考えられています。
上記の通り、退行は自我が圧迫を受けた際に、現在の状態より以前の状態に、あるいはより未発達な段階へと逆戻りすることで対処しようとする防衛機制と言えます。
よって、本問の「受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制」とは合致しないことがわかります。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。
② 否認
否認はFreud,S.の考案した概念で、自我の防衛機制の一様式です。
個人が知覚はしているが、それを自分で認めてしまうと不安を引き起こすような現実、例えば、女性におけるペニスの不在を、そのまま現実として認知するのを拒否するような状況を古典的精神分析では指しています。
フロイトは否認をフェティシズムと精神病の類縁性を説明するために用いましたが、神経症者に見られる抑圧が、イドの欲動の抑圧であるのに対して、フェティシストにおける去勢の事実の否認は外的現実の拒否であることから、そこにフロイトは精神病の最初の段階を見ました。
否認と盲点化を比較すると、現実の知覚そのものが生じなくなることが盲点化であるのに対して、現実の知覚そのものは生じているが、知覚した現実を認知しない働きが否認であるという点が異なります。
フロイトはフェティシストのもつ相矛盾する二つの態度の共存、すなわち一方で女性の去勢を知覚しながら、他方でそれを否認するという現象を説明しようとしたわけです。
この現象から、否認は抑圧のような自我とイドの間の葛藤ではなく、現実を知覚している自我と、知覚を否認する自我との二つの自我機能の分裂として説明できると考えていました。
抑圧と否認の違いは、抑圧が内的欲動や現実、願望などを意識から排除する働きであるのに対して、否認は一方で外的現実を知覚していながら、他方でその近くを否認してしまうところにあります。
つまり、否認は現実を意識から排除することではなく、知覚している自我そのものを否認するというところに特徴があります。
一方で知覚している事実を他方で否認しなければならないということからは、抑圧が失敗あるいは不徹底であるということが言えます。
否認の場合は、知覚そのものは存在するので、ヒステリー性視覚障害や聴力障害のように、感覚知覚そのものが欠落するヒステリー症状とは区別されます。
否認はまた不快、不安から生じる外的事象全てに対するひきこもりや、外的現実から疎隔される非現実化とも異なっており、否認は認知してしまうと不安・不快な現実に対する現実検討力の麻痺であり、外的自我境界の障害とされています。
否認が不安定な形で働く例として、フロイトの「否定」とSpearingの「誇張」を挙げることができます。
否定は「私が父親を憎んでいるなんてことは決してありません」のように、抑圧した無意識的内容が意識化されていながら、その内容を否定する試みであるのに対し、誇張では「私は同性に性的欲望を感じている。これはとんでもないことだ」というように、無意識的内容が一旦意識化されるが、同時にそれを否定する感情や考えが誇張された形で表現されます。
否定も誇張も、一度緩みかけた抑圧を否認によって回復することによって、抑圧された情動それ自体は解放せずに済まそうとする試みです。
否認という心的過程は、幼児にはごく当たり前に見られるものであるが、これが成人においても生じる場合は精神病の出発点になるかもしれないとフロイトは考えました。
イド欲動の抑圧の失敗が神経症であるとするなら、自我が現実そのものを否認するのが精神病だと考えたためです。
以上のように、個人が知覚はしているが、それを自分で認めてしまうと不安を引き起こすような現実を、そのまま現実として認知するのを拒否する機制を否認と呼びます。
これは、本問の「受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制」とは合致しないことがわかります。
よって、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 分裂
分裂は、早期の原始的防衛機制の一つとして、Kleinにより理想化、否認とともにあげられるもので、対象や自我(自己)を複数に分けようとする心理機制です。
分裂は、①対象の分裂か、自我の分裂か、②分裂が、一貫しているか(良い‐悪いのように)、それが断片化してゆくかの二つの区別をすることにより、体系的に記述されています。
人間の心が統一されているものではないという事実はFreud,S.の無意識の理論によって明らかにされてゆくが、フロイトが心の分裂という、より厳しい形式に気づいたのは晩年(1938)に至ってからでした。
それに対比してクラインは、子どもとの仕事を通じて、かなり早くから分裂の多様な形に直面していました。
歴史的にみると、18世紀以来、多重人格を説明するために心は複数の部分からなると考えられたが、これは解離という概念です(Bleulerも「Schizophrenia」の説明にこれを用いている)。
フロイト(1894)は、当初、意識分割という言葉で、ヒステリーや催眠における人格の交代的重複を説明していました。
その後、フロイトは無意識と抑圧の理論で多くの心的事象は理解され、分裂のようなものを使わなくても済むと考えましたが、1938年、彼は精神病とフェティシズムにおける自我の分裂や否認の現象について記載し、男性フェティシズム患者の、女性のペニスの存在に対する二つの態度が、交互に影響し合うことなく別々に一生持続している例をあげました。
二つの違う視点をもち続けるということでは、サンタのおじさんが父親だと知っていて、しかもサンタに興奮し感謝する子どもも、似た分割的態度と言えます。
以下にクライン以来のさまざまの分裂の形式を挙げていきます。
クラインは、初期には対象に関しての分割に関心を集中させています。
最早期の幼児は、対象は不自然に良い性質をもっていたり、悪い性質をもっていたりします(良い対象‐悪い対象)。
乳房は「良い‐満足を与える」乳房と「悪い‐欲求不満を引き起こす」乳房とに分割されることを示しました(これを部分対象と呼びます)。
分裂は、対象が、その良い側面と悪い側面に分かれるようになる過程を示す用語でした。
この分かれた対象の現実的統合が、その後の抑うつ態勢へ向かう課題となります。
良い対象の内在化はこの能力を高めますが、クラインは、彼壊衝動の現れである過度の羨望は、最初の良い悪いの分割を妨げ、良い対象を作り上げることを十分に遂行できないようにしてしまうとされています。
フロイト(1921)は自我の分化を、主に失われた対象との同一化によって起こると考えました(これは後の自我、超自我の分割の基礎である)。
さらに、対象同一化の交代によって自我が引き裂かれるという記載もあります。
Abrahamとクラインはフロイトの影響で、取り入れと内的な新しい対象と自我の部分との同一化の結果、自我の成長が起こるとしています。
クラインは、1946年以降、自我の分裂に関心を示すようになり、投影的侵入で対象の中に悪い自己の側面を分割して排出することを記述しました(これを投影同一視と呼びます)。
クラインは40年代に統合失調症の、思考の多重な分割の状態像に接し、対象の分割があると自己を断片化する結果となるとし、これは破滅の不安を呼ぶと考えました。
統合失調症では、きれいな良い‐悪いの分割ではなく、多重な分割が起こるとされており、恐怖の対象をバラバラに断片化するためにする攻撃の裏返しと考えられています。
クラインは、早期防衛機制は、神経症的防衛機制の概念では置き換えられないものであり、その下にあるものであるとし、自己の部分の分裂は、のちに意識と無意識の分割(抑圧)の基礎ともなるとしています。
抑圧においては自己の部分の分裂ほど解体に身をさらすことなく、もっぱら意識と無意識の区分けの分割となるとされています。
初期の分裂機制と不安が克服されていないと、抑圧も硬直したものとなってしまいます(ちなみに、Kohutの垂直分割は前者に、水平分割は後者に相当する)。
分裂の機制は、投影同一視とともにKernbergの境界性人格構造を区別するポイントになっています。
以上のように、分裂は対象や自我(自己)を複数に分けようとする心理機制になります。
これは、本問の「受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制」とは合致しないことがわかります。
よって、選択肢③は不適切と判断できます。
④ 反動形成
反動形成は、Freud.Sによって明らかにされた防衛機制の一つで、自我にとって受け入れがたい本能衝動の意識化を防ぐために、その衝動と反対方向の態度を過度に強調する機制のことを指します。
例えば、子どもを愛していない親が、そういう自分を認めたくないので必要以上に物を買い与える、あるいは、幼い子どもに妹が生まれると、母親を自分から奪った憎むべき赤ん坊に対して、かえって優しく可愛いがり良い子ぶったふるまいをするなどの状況の裏には反動形成の機制が働いていると考えられています。
つまり、憎悪を無意識に追いやり、いつまでも無意識のままにしておくために、かえって逆に愛情を過度に示すことになるのです。
このように憎悪は愛情に、残忍さは優しさに、頑固さは従順に、だらしなさ・不潔は潔癖に、性衝動は厳格な道徳性に、それぞれ置き換えて表されることになります。
青年期の犯罪性や攻撃性を防衛した激しい正義感は、日常の中でよく目にするところです。
また依存欲求の反動形成として、反抗や競争が現れたり、劣等感をもつ者が自慢や虚勢を張る態度をとったり、極端な羞恥心が自己顕示的で露出傾向に出ることもあります。
このような場合、本人は特別に作為的に行動しているのではないが、周囲から見ると、どこか不自然でぎこちなく、わざとらしく不快な感じを受けます。
「馬鹿丁寧」「慇懃無礼」「これ見よがし」「猫かわいがり」「くそ真面目」「強がり」「〇〇しすぎ」「〇〇ぶっている」などがこれに当たると考えられています。
フロイトが初めに反動形成に注目したのは強迫神経症患者についてであったように、反動形成は強迫神経症においてよく見られます。
「強迫神経症は抑圧された衝動の方向と反対の態度(同情、良心的、潔癖)を増大することによる、自我の変化ないし自我における反動形成として現れる。強迫神経症のこの反動形成は、潜伏期の経過中に発展した正常な性格特性の、はなはだしい誇張なのである。ヒステリーでも同じことが期待されるが、明示することは難しい」とFreudは述べています。
ヒステリーにおける反動形成と、強迫神経症における反動形成には違いがあります。
前者は、特殊な関係(ある特定の葛藤や感情的な事態)の中に限られて示されるものであって、それが性格特徴の一般的傾向を示すものではありません。
一方、後者では、どういう事態の中ででも示され、一般化や対象関係のあいまいさ、対象選択における容易な移動が特色です。
例えば、自分の子どもを心の底から憎んでいるヒステリー女性は、その子どもに対して極端に度を超すほどの優しさで可愛がるが、他の子どもに対しては決して優しく接することはありません。
これに対して強迫神経症では、すべての人や動物に対して過度に優しく、バカ丁寧な口調や態度になります。
Fenichelによると、防衛としての反動形成は、抑圧が一度成立したあとにその力が弱まったり、さらに結果を強化したい場合に補足的なものとしで用いられ、超自我に反するような欲動や感情の抑圧に関連して働くと考えました。
一方、Cameronによれば、反動形成という機制そのものは本来防衛機制以前のもので、超自我が形成される以前にも適応機制として働くとしています。
従って、潜伏期以後の反動形成は、昇華や知性化と並んで適応的機制として働き、Reichの性格防衛の中心的機制となることが多いです。
フロイトは「本能とその運命(1915)」の中で、発達的にみて早い時期(超自我と自我が未分化な時期)に現れる防衛機制として、「衝動の対立物への逆転」と「対象の逆転である自己自身への向き替え」を挙げています。
反動形成はこれらの機制を基本として、すでに超自我の分化ができているので、ある特定の衝動に対して罪悪感、不安、恐怖、不快などが起こっても、その衝動が肯定すべきものか否定すべきものかの識別を自我が無意識に行い、その結果、超自我が肯定するような適応的な態度や行動に置き換えるとしているわけです。
なお、反動形成は昇華と区別しにくい場合があり、Shaferはこのような昇華を擬昇華型とよんでいます。
本来昇華は成功的防衛で、欲動は解放され、これらのエネルギーを生産的に活用することができます。
反動形成の場合でも、これによって形成される意識的な適応的態度は社会的に高く評価され、受け入れられるものなので、行為者は二次的利得を得ることになります。
そして当人は本来の反動形成の目的を抑圧してしまい。二次的欲求があたかも本来の欲求かのように見なすことになります。
このような場合は、昇華との区別はきわめて難しくなるわけです。
以上のように、反動形成とは「自我にとって受け入れがたい本能衝動の意識化を防ぐために、その衝動と反対方向の態度を過度に強調する機制のこと」を指します。
これは、本問の「受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制」と合致することがわかりますね。
よって、選択肢④が適切と判断できます。
⑤ 投影同一化
投影性同一視は1946年にKleinによって、攻撃的・排出的対象関係の原型として定義されました。
自我の部分を対象の中に押しやり、その対象の内容を引き継ぎ、対象をコントロールしようという意図を持つもので、幻想であると共に心的操作でもあります。
投影性同一化は、生まれたときから妄想‐分裂態勢の中で起こる機制とされています。
その幻想には自己の在る側面が、他のどこかに位置するという信念が含まれています。
投影性同一化の極端な形式では、対象の中に投影はされるが、対象から付随して取り入れが起こることなく、結果として同一性や自己の感覚が弱まり、消耗し、ついには離人症の域にまで達するとされています。
上記の説明ではわかりにくいでしょうから、もう少し砕けた形で説明していきましょう。
投影同一視とは「受け入れ難い自分の感情や不快なもの、あるいは自分の悪い部分などを相手に映し出して、相手が持っていると思い込み(=投影)、そしてさらに相手に投影したものに同一化すること」をいいます。
境界例では、自分の不穏感情を自らの内に抱え込み、認識することが、その精神的脆弱性により困難であるため、「自分の不穏感情を外に投げ込む」とされています。
例えば、自分(=Aさん)が見捨てられるかもしれないという不穏を抱えてはいるけど、そのことを認識することができない人は、他者(=Bさん)に自分の「見捨てられる」という感情を投げ込み、相手が自分を「見捨てようとしている」と思い込むようになります(この部分を「投影」と表現します)。
また、人には「自分の内にあるストーリー通りになることを望む欲求」を有しています。
これはストーリーの善し悪しとは無関係です(つまり、悪いストーリーでもその通りになる方が「落ち着く」という感じのイメージでいてください)。
先の例でいうと、「Bが自分を見捨てようとしている」という投影によるストーリーが生じたならば、そのストーリーから外れたことが生じるのがまたAの心中に「世界を揺さぶるような不安」を生むのです。
つまり、「Bに見捨てられる」というストーリー通りになるのは「嫌だ」という気持ちはあるのですが、ストーリー通りにならないことは「より不安を喚起する」ということです。
この辺の機微は幸せな生活を送ってきた人には理解し難いようですが、そういう世界もあるのだと認識しておきましょう。
境界例では、こうした自分の内側に生じたストーリーを「現実にしよう」とする様々な言動が出てきます(現実にならないと、さらなる不安が生じるので)。
ですから、Bは見捨てる気などさらさらなかったにも関わらず、思わず「Aを見捨てたくなるような行動」をAが起こしてくる(Bが見捨てようとする感情を喚起しようとした)ということです。
つまり、元々はAの「見捨てられる」という不安をBに投げ込み(投影)、そこで生じた「Bが自分を見捨てようとしている」というストーリー通りに現実が運ぶように、実際にBが自分を見捨てたくなるような感情を引き出すための行動を取ったということです(こうした投げ込んだ感情を喚起させようとすることを「同一視」と呼びます)。
この投影+同一視ということで、一連のクライエントの心理力動によって生じる現象を「投影性同一視」と呼びます。
こうした説明は、本問の「受け入れ難い感情や願望を意識しないで済むよう、逆の態度や行動をとる防衛機制」と合致しないことがわかります。
以上より、選択肢⑤は不適切と判断できます。