防衛機制

防衛機制については公認心理師資格試験でほとんど出ていませんが(攻撃者への同一化は出ましたね)、しっかりと押さえておきたい概念です。

私は好き嫌いに関わらず、精神分析理論は心理支援にあたる全ての人が学ぶべきと考えています。
なぜなら、複雑で理解しがたい対人関係上の問題を理解するための概念が多く提出されており、「知らないことで支援方法が定めることができない」という事態も多く見受けられるからです。

ここで挙げる防衛機制を知っていることで、よくわからない複雑なコミュニケーションを理解し、そうした機制が生じやすい背景を推測し、複数ある支援方法や瞬間瞬間の返答に理論的な道筋を示すことが可能になります。
我々は専門家ですから「なんとなく」対応してはいけないのです。

こういうことを言うと、名人たちの咄嗟に行った「なんとなく」の対応による成功例を持ち出す人がおりますが、名人たちはこうした理論的な内容をとっくの昔に把握し、咀嚼し、消化し終えているのです。
同列で語るべき対象ではないことはわかりますね。

支援はたった一人で行うものではありません。
多くの協力者(その最たるものはクライエントですね)に囲まれながら支援を行うのですから、心理の専門家である我々は、その協力者に自分が行った支援の理路を示すことが責務として求められます。

ここでは精神分析の主要概念である防衛機制について述べていきます。
前置きも含めかなり長くなりました。

不安について

防衛機制について語るためには、まずは精神分析における不安概念について理解しておくことが重要です。
フロイトは初期には「性衝動の満足が得られない場合に、リビドーがうっ積して身体機能をかく乱した結果生じるもの」としていましたが、晩年は「内外の危険に対して自我が示す反応」と変化しました。

この変化は、不安が一次過程から生じると考えていたのが、二次過程から生じると変化したと言いかえることもできます。
ちなみに一次過程、二次過程とは以下の通りです。

  • 一次過程:
    いわゆる快楽原則に従って、本能的な衝動や生体の緊張を解消しようとする過程のこと。原始的、無意識的な思考過程を指す。
  • 二次過程:
    いわゆる現実原則に従って、対象を知覚したり、適切な対象が発見されるまで衝動を押えて時期を待ち、満足や解消を延期させたりする過程のこと。つまり自我の機能を指す。

その上でフロイトは「自我の処理できない異常な内的興奮の高まりこそ危険であり、不安とはこの危険に対する自我の無力感である」としています。
この不安の原型をフロイトは、出産時の現象に求めました。
オットー・ランクは出産時現象を最初・最大の心的外傷であると説きましたが(いわゆる出産外傷説)、フロイトは生後何らかの理由で出産時のように内的興奮が急激に高まり、それによって自我が圧倒される時に不安の体験が起こるとしました。

フロイトは赤ちゃんが依存している母親からの別離による不安(いわゆる分離不安)が、その原型であると考えました。
ボウルビィはこの説に異論を唱えていますが、それはまた別のお話。
個人的にはフロイトの理解の方が適切のような気がします。
ボウルビィの異論は、人間と他生物を同列と見なした上での考え方なのでちょっと違和感が。

ホーナイやサリヴァンといった新フロイト派は、不安の発生を本能衝動と無関係に論じ、社会的なものと考えています。
しかし、この考え方はフロイトの生物学的な考え方への批判という意味合いが強く、不安を単に人間関係の面からだけで捉えるのも違うでしょう。

さて、自我にピンチをもたらすものは現実・本能・超自我(親からの躾などによって形成される「こうせねばならない」という感覚)とされています。
これらから刺激を受けて、それぞれ現実不安、本能的不安、超自我不安を感じることになります。
そこでそれぞれの不安を防衛し、適応していくために様々な防衛機制が働くことになるわけです。

防衛の概念

防衛機制の多くは、幼少期の未熟で弱い自我が、上記のような不安を処理するために用いられるものです。
防衛機制は意識して行われるものではなく、無意識的に、いわば反射的に行われる自我の機能です。
従って、これらの機制が幼少期以降も慢性的に常用されたり、過度に用いられたりすると、自我は柔軟性を欠き、硬化してきます。

つまり、人生早期にあまりに激しい不安に曝されたり、たえず不安が持続していると、自我はその防犯機能(=防衛機制)にしがみつき、偏った人格、歪んだ人格として固定化してくることになります。
そうなると、現実に対して直面する力は弱く、ますます防衛的な態度が強められます。

防衛機制とはこうした両刃の剣であり、うまく用いられると適応に役立つ一方、下手に用いると不適応的になっていくということです。

ちなみにフロイトの理論では、防衛はエディプス期以降にしか生じないということになります。
これに対し、メラニー・クラインらの対象関係論学派は、もっと早期に防衛機制が生じることを示しています。
対象関係論とは、生後すぐの乳児(最早期の乳児)が、内的な世界に思い浮かべる母親の表象との関係性に注目したクラインを中心とした理論です。
ここでは、前者を高次の防衛(神経症的防衛)、後者を原始的防衛(精神病的防衛)として分けて論じていきます。

高次の防衛(神経症的防衛)

抑圧

そのままでは葛藤を生じさせるような精神活動の片方を、意識から遠ざける対処パターンです。
苦痛な感情や欲求、記憶を意識から閉め出すやり方ですね。
臭いものにフタという感じでしょうか。

抑圧することは支配や管理とは異なります。
「目をつぶる」ことでもありません(抑圧されれば「目が届かない」)。

抑圧は文化への適応とも言えます。
とある文化にいる場合、その文化が良しとしない部分が抑圧されるということですから。

逃避

空想、病気、現実、自己へ逃げ込むことを指します。
白日夢に代表されるような空想への逃避、適応困難な状況から逃れてほかのことに熱中する現実からの逃避、疾患からのあるいは疾患への逃避などがあります。

「辛いことがあると空想して乗り切っていた」と述懐する人は少なからずおりますね。
また、ゲームやネットの世界にのめり込むことも、いわゆる「現実逃避」と見なすことが可能な場合も多いでしょう。

置き換え

対処できない(自我が耐えられない)現実や不安に対して、それよりも水準を下げて対処しやすい別の事柄に悩みを置き換えることで、本来取り組むべき不安から一時的に遠ざかることを指します。
根本的解決にはならないけど、一時的には楽になることができます。
いつかは向き合わなくてはならない時がやってきますが。

置き換えを頻繁に用いる代表的疾患が強迫性障害です。
何らかの不安を、例えばバイキンというものに「置き換える」ことによって対処しようとしますが、大元の不安が改善していないわけですから、いくらバイキンへの対処をしようが不安は収まらず…というものです。

強迫性障害で第一選択となる心理技法である曝露反応妨害法は、置き換えられた不安への対処を「妨害」することにより、置き換えられた不安とつながっている大元の不安自体への耐性を高めようとしているわけですね。

転換

置き換えの防衛機制の一種とされています。
不安や葛藤を身体症状へ置き換えるという手法です。

昇華

置き換えの防衛機制の一種とされています。
反社会的な欲求や感情を、社会的に受け容れられる方向へ置き換えることを指します。

補償

心理的負担、特に劣等感といったものを他の方向で補おうとすることを指します。
碁で負けたから、将棋でリベンジする、みたいな。

反動形成

本心と逆のことを言ったり、したりすることです。
弱い者が強がったり、好きな人に冷たくする、みたいな。

反動形成の実態は「バランスを取っている」ということだと思います。
ある感情に対して真逆の感情でバランスを取っている、という感じでしょうか。
強迫性障害に見られるコミュニケーションパターンという印象もありますが、反動形成を頻回に使っている姿を見ると、ヤジロベーが左右に大きく揺れているような、そんな感じを受けます。

竹中直人が「笑いながら怒る人」というネタを持っていますが、あれは反動形成を使っているけど本心を隠しきれていない、という感じかもしれないですね。
実際、防衛機制の多くはそんなにピシッとしたものではなく、微妙に本心が漏れ出たりするものですからね。

打ち消し

不安や罪悪感などを別の行動や考えで打ち消そうとすることを指します。

打ち消しは小さな子どもがよくやります。
褒められた直後に怒られるようなことをする、あれです。
褒められると気持ち良いものですが、同時に「お母さんは今までのように自分のことをかまってくれないかもしれない」という見捨てられ不安を引き起こします。
その不安を打ち消すような行動として、怒られるような行動を取り、「僕はまだまだかまってもらわないとダメだよ」ということをアピールするわけです、無意識に。

取り入れと同一視(同一化)

これらは原始的防衛機制と見なす向きもありますが、その辺は学派によって微妙に考えが違うので、とりあえずこちらで挙げておきます。
原始的防衛機制と考える方が自然かもしれません。

まず取り入れとは、防衛というよりも成長そのもののような面があります。
小さい子どもは周り中から取り入れたものを自分の中で使って、自分の一部にしていっています。
そして要らないものを吐き出していきます。
そうやって取り入れながら、自分らしさや個性ができてくるということになります。
このように「取り入れ」は、相手の属性を自分のものにしていくことを指すわけです。

続いて個性ができてくると、次は自分の個性があった上で取捨選択しながら、自分が良いと思うものを取り入れていくようになります。
良いと思わないものは取り入れないということができるのが「同一化」という段階です。
すなわち、個性ができてから、個性が基盤となって取捨選択しながら取り入れていくような段階の、そういう「取り入れ」のことを「同一化」と呼ぶのです。
取り入れと同一化は、分けて論じることが難しいのですが、こういう流れで分類可能です。

相手と同じものを所有する、同じ考えを持つというのも同一化の所以です。
また親との関係で、褒められると同じ行動を取ろうとするのも同一化によるものです。
親に適応しようとすることによって、捨てられる恐怖から身を守り、安心感を得ようとしているのです。
友人関係の広がりとともに同一化の対象が増え、徐々に親から離れていくことは発達的に非常に重要になっていきます。

「攻撃者との同一化」という概念もありますが、これは被虐待児の言動を理解する上で重要です。
被虐待児が、人が変わったように暴言を吐いたり、見たことない表情で人を殴りだす場合などは、虐待をしてくる親(攻撃者)と同一化しているといえます。

人間は知的生物ですから、虐待という状況においてそれがなぜ生じたのかを考えます。
親から見放されると生きていけませんから「親が悪い」という論理は生じず、自然と「自分が悪いから」「親は自分のためを思っている」という論理を採用します。
それは親の立場を取り入れることで、自分の絶対的な恐怖を和らげようとしているわけですね。

隔離

分離とも言います。
一般的には観念と感情は結びついています。
例えば「恐怖」という観念と、「怖い」という感情は結びついているものですが、隔離を使うとこれを切り分けるということになります。

観念だけは意識にのぼり、感情の方は圧し込めることで自覚しないようにしておくやり方です。
抑圧との違いは、観念だけは意識に上ってくる点にあります。
これがよく出てくるのは強迫性障害における強迫観念です。
言葉ばかりが浮かび、その感情は伴っていない、自分はそんなこと思っていないのに、という形ですね。
学会発表で真面目なことを言わねばならないのに、妙なことばかりが浮かんでくる、という例などです。

ただ隔離自体は日常生活を生きていく上で、ある程度必要なものと言えます。
いわゆるTPOを弁える、というのも隔離の機制があってこそ可能なわけです。
それ以外にも、消防士が「怖い」という感情を隔離することで、その業務が可能になっているわけですね。
火事というTPOに合わせて隔離が使われるわけです。
消防士に「怖くないですか?」と問うと「そりゃ怖いですよ」と返しますが、それは恐怖という観念は持っているということかもしれないですね。

投影

投影は発達上初期から出発しているメカニズムで、原始的防衛機制としての投影もありますが、高次の防衛機制としての投影もあります。
投影自体は、自分の内にあることを認められない欲動や感情を外に出し、自分にではなく、外に、すなわち他の人の方にあると思う機制と定義できます。

まずは高次の例から述べていき、原始的な方は次項で説明します。
マージャンをしていて、自分が強い手を張っていると、周りも強い手を張っているように感じてしまい、オリてしまうような場合を指します(投影を多用する人はマージャンが弱いですね。自分が弱い手だと相手も弱いと思って突っ込んできますから)。
他にも自分が好きなのに、相手が自分のことを好きだと思う場合なども投影の機制です。

ちなみに幼い子ども(小中学生も含む)は頻繁に投影の機制を用います。
よくあるのが、「自分はいじめられるんじゃないか」と無自覚の不安を抱えていると、周囲の言動がそのように見えてきてしまう、というパターンです。
これに対してどんなに論理的説明を行っても修正は難しいです。
出発点が自分に対する自分のイメージなわけですからね。

支援にあたっては、自己イメージの修正を目指していくことになります。
健康度が高ければ、いくつもやりようはあります。
私が多用するのは「○○さんが、あなたのことを褒めていたよ」というやり方です。
「陰が真実である」という前提を持っているのが精神分析ですが、それの援用で、陰で褒められていればそれを真実と捉える力が働き、本人の内にあるイメージの修正がしやすくなります。
こういうやり方をするには、例えば担任の先生などとの連携が重要になりますね。
先生方は論理的説明にしっかりとついてくることができるので、理路を細やかにしながら説明すれば納得して実践してくれます。

知性化

小学校高学年くらいになると知的な能力が身についてきます。
それを前提に、まずは精神的エネルギーを知的な活動に置き換えるというルートが生じます。
知的な活動に置き換えることで、代理満足をするということになります。

そうすることで、より多くの知識が獲得できますね。
そして、この知識を使って、欲求や願望を表現しようとします。
例えば、辞書を読んで、それを友達の前で披露することで注目を集めるとか。
辞書の性的な言葉にマルをつけてる同級生がいましたね、そういえば。

こうした知的な活動を通して、自分の奥にあるさまざまな欲求を満たそうとすることを知性化と呼びます。
やりすぎれば批評家然となってしまい不適切になってしまう場合もあるでしょう。
知性化を多用しすぎることでの問題は、隔離と同様に、感情的なもの共感的なものが生じにくくなってしまうことです。
感情や欲動そのものがそぎ落とされ、すべてが知的な活動に置き換えられてしまうと感情閉鎖的になり、社会対人関係でうまくいかないという結果を招きます。

また、知性化を使う人は自身の知的能力への過剰な期待があるため、自身への要求水準が高くなりがちです。
過度に高い要求水準は、そこに達することができないと不満足感をもたらすというマイナスもあります。
落ち込みがちな人の背景に、知的能力への過剰な評価、ということが隠れていることもあるということですね。

合理化

こちらは「酸っぱいブドウ反応」として有名ですが、実は防衛機制の枠組みに入れることには異論もあります。
それは知性化と合理化の違いを理解することでわかりやすくなります。

知性化は内的な欲求を知的に説明することで「観念」の世界以外でそれらと直面することを避けるという防衛です。
これに対して合理化は、自分の欲求や感情に置き換えることなく、そのまま満たし、それを非難されたときに「これは正当だ」ということを論理的に説明しようとするのです。

もっと砕けた言い方をすると、知性化は自分の欲求を知的な活動に置き換えて発動しますが、合理化は自分の欲求のままに満たして非難されたら「だって私は、こういう理由で、やってよいと思ったんだもん」という自己弁護、言い訳をするわけです。
誰かに攻撃的欲求を覚えた時、知性化ではそれを論理的に言い負かすなどをしますが、合理化ではぶん殴った後に「あいつが睨んできたからだ」などと言い訳するのです。

こういう自分の欲求をそのまま満たしているという点で、実は合理化は防衛機制の一つと見なすのは不適切なのです。
少なくとも、精神分析の防衛機制の定義には当てはまらないと言って良いでしょう。
合理化は知性化と混同されやすい概念ですが、根本が違うということを理解しておきましょう。

解離

解離は人間が動物に食べられていた時代からある機制です。
動物に食べられそうな時にパニックになっては逃げられる可能性が低くなってしまいます。
ですから、自分に起こっていることを「他人事」とすることで冷静になり、チャンスを見て逃げ出すことができるようにします。
このように、解離はある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまうことを指します。

解離は外傷体験の文脈で語られることが多いように感じます。
例えば、レイプされた人が抵抗しなくなるのは、相手を受け入れたからではなく、あまりに残酷な現実から自分の精神を守るために心身の切り離しを行っただけです。
この点についてハーマンは、レイピストの行動を正当化する可能性を指摘して、解離の健康的な側面を強調しすぎたと訂正しています。

日本で見られる解離では、慢性的な緊張もしくは不安環境の存在によって生じているものが多いです。
彼ら、彼女らに共通しているのは、問題を「我がこと」として捉えていないこと、妙に客観的な言い方をすること、などが挙げられます。
例えば、学校でいじめられたと事実を淡々と語る子どもに対して、それは「辛い状況だね」と声をかけると「客観的にはそうですね」と返すなどです。

本来、解離は緊急時のみに発動するものでしたが、慢性的な不適切環境の存在によって、それほど大きな心理的負担だと思われないような場面、例えば友人とのいさかいなどによっても発動されてしまいます。
自傷行為をするけど覚えていない、などがまさに解離の存在の傍証と言えるでしょう。

解離を多用することによって「生まれてから今の自分がずっと繋がっている」という感覚が阻害されます。
こうした感覚は精神健康において重要であり、解離が断続的に発動することによって、いわゆる自我同一性が保ちにくくなります。
解離に限らずですが、一つの防衛機制をどのような場面でも用いるというのは何らかの無理を生む結果となりますね。

退行

退行は非常に幅広い概念です。
ここでは発達的に前の段階に戻ること、を指していると捉えておきましょう。
弟や妹ができると上の子が子ども返り、赤ちゃん返りするというのがよく見聞きする例ですね。

赤ちゃんだけでなく、思春期になり自分の身体が大人に近づいたとき、いわゆる成熟拒否という形で退行現象が生じることもあるとされています。
その場合、性に関するものを不潔に感じるというのは、いわゆる肛門期に特有の感じ方であり、潜伏期から肛門期に退行した結果と考えられています。
(お父さんのパンツと別に洗って!というあれです)

もう少し噛み砕いて説明していきましょう。
現在の対処パターンが現状と折り合いがつかなくなった時、その対処パターンが出現する前に戻る働きを退行と捉えることができます。
「原点回帰」ですね。

これ機能によって、複数の対処パターン同士が交わる機会を持ち、相互干渉を経て対処パターンのリニューアルを図ります。
これがいわゆる「自然治癒」の仕組みとなります。
いわゆる「自我に奉仕する退行」とは、こういう仕組みを指したものになります。

下坂幸三先生が1999年に、神田橋條冶先生が2017年に、退行を良性・悪性という区分で捉えることに批判的な見解を示しています(年数は覚えていますが、どの本or論文だったかは覚えていません…)。
両者の見解は、「悪性・良性」の判定基準が単に治療者側の厄介感が尺度になっているということを踏まえてのものです。
神田橋先生は悪性の退行は、愛着障害の露呈であり、その水準への順調な退行を現在の治療の場が扱いかねているだけと捉えています。

原始的防衛(精神病的防衛)

対象関係論学派は、発達の最早期(生後3か月くらいから)の乳児の無意識的幻想での事故と対象との関係において見られる自我の分裂を中心とした原始的防衛機制を細かく取り上げています。

発達の最早期に表れるというものですから、現実世界とのやり取りというよりも、内的な世界で生じているというものになります。
とは言え、現実世界では一見して理解しづらいような現象として現れてくるので「現実世界での現われ方を、そのように解釈するのだ」という感覚で見ておくと良いでしょう。

以下のようなものがあります。

分裂(スプリッティング)

抑圧が「臭いものにフタ」であるのに対し、こちらはそのままでは葛藤を生じさせるような事柄を、それぞれ別の箱に分けて入れてしまうようなイメージです。

分裂については、メラニー・クラインのポジション概念と抱き合わせて覚えておくとわかりやすいかもしれません。
乳児は妄想分裂ポジションと抑うつポジションを揺れ動くとクラインはしました。

乳児が空腹や肌触りの悪さなどで泣き叫び、それを満たす乳房や母親の顔、手があります。
乳児の認識能力では、これらは一つの対象として認識されておらず、一つひとつが単独のものと認識しています。
この際の、乳房や顔、手はそれぞれ「部分対象」などと呼ばれます。
そのうち認識能力が向上してくると「部分対象」が一人の人間の一部であることがわかってきて、一人の人間を認識することを「全体対象」という言い方をします。

そして「部分対象」が「全体対象」となるためには、条件があります。
それは「良い体験」が「悪い体験」を上回っていることです。

先述したように乳児は自分の不快を啼泣により訴え、それを養育者は改善しようとします。
ですが、時にはその改善方法がずれてしまうこともあるでしょう。
例えば、空腹なのにオムツが濡れていると思ってしまうとか、疲れ切ってしまい怒った顔をしてしまうとか。

クラインは、思ったように不快を改善してくれる良い体験を「良い乳房」とし、対して、不快を改善してくれなかったり更なる不快をもたらす悪い体験を「悪い乳房」などと称しました。
当然、どの乳児にも良い体験(良い乳房)と悪い体験(悪い乳房)は混在しているわけです。

そしてこれらの体験は当初は「部分対象」としてバラバラに認識されていますが、認識能力の高まりによってこれらが一つの対象であることがわかってきます。
その際、もしも悪い体験がたくさんの場合、どのようなことが起こるのか考えてみましょう。

要は悪い体験がたくさんあるところに、少ししかない良い体験を混ぜなければならないわけです。
これは大変な苦痛をもたらします。
なぜなら、自分を養育してくれる人を「全体対象」としてみると、良くない人になってしまうからです。

乳児はその苦痛に対して「分裂」という方法を使って対処します(やっと出てきましたね)。
良い体験と悪い体験を「分裂」することで、それらを混ぜ合わせずに、つまり全体対象としないままで維持するようにするのです。
この状態でいることをメラニー・クラインは「妄想分裂ポジション」と呼びました。
分裂を用いることで、妄想的な世界(100%良い母親がいると「妄想」している)に留まっているという意味です。

児童養護施設の子どもたちが、こぞって母親自慢をするのはこの機制のためです。
児童養護施設にいる子どもたちの多くが、親から虐待を受けているわけですが、そうした親の自慢をするのは、「良い体験」と「悪い体験」を混ぜずに分裂させたままでいるからです。
悪い体験をもたらした母親と、良い体験をもたらしてくれた母親は心理的には別物ということですね。

境界例で見られる「理想化とこき下ろし」という現象も、この分裂によって生じた「100%受け容れてくれる良い体験」と「自分を傷つける悪い体験」というものが他者に向けられたものとカーンバーグは主張しました。
白黒はっきりしたがる性格というのもこういうことが背景にあるのでは、という意見もあります(そこまで関連づけるのは極端な気がしますが)。

さて、運良く「良い体験」が上回っている場合、良いと悪いが混ざり合い一つの対象として認識されるようになります(全体対象になる)。
その場合であっても、今まで「100%良いもの」だったものに、悪いものを混ぜるということは変わりません。
それはちょっと落ち込むような体験なわけです。

そのためメラニー・クラインは、こうした全体対象を得た状態を「抑うつポジション」と称しました。
良いものに悪いものを混ぜたときの「がっかり感」を「抑うつ」と表現したわけですね。

これらからわかるとおり「分裂」は自分にとって混ぜたら苦しいものを別々に保管してしまうというやり方だと言えますね。

原始的理想化と原始的投影と価値下げ

原始的理想化も、上記の分裂の枠組みで説明することが可能です。
先述の「100%良いもの」というのは、精神分析の世界で「all good object」と表記されますが、これを他者に投影することを「原始的理想化」と呼びます。

理想化自体は、相手を素晴らしいものと見立てて、その見立てを投影することを指します。
原始的理想化を用いていると、初対面なのに「先生は素晴らしい人です!」みたいな感じになります。
このように「all good object」や「all bad object」を投影することを、原始的投影と呼ぶわけです。

こうした「all good object」を向け、そう思って関わっているうちに、それほど素晴らしい人ではないということが見えてきます。
そんな時に、相手を踏みつけにしてしまうこと、「お前なんて価値が無い、頭も悪い、能力もない。私はだまされた」という風に価値を下げるようなことをしてくることを「価値下げ」と言います。

どうしてそんなことが起こるのかというと、もしも相手が「all bad object」となってしまったときに、価値が無いと思っておいた方が怖くない、攻撃されてもたいしたことない、という風にしておきたいというのが理由のひとつです。

もう一つは、相手が自分を救ってくれると思っていたのにそうではなかったという「がっかり感」や、相手を見る目がなかったという自分への批判的な感情などが生じますが、それを抱えてはおれないので、未練を断ち切るように価値が無かったとするという視点もあります。

投影性同一視

投影性同一視では、分裂したもの(all goodもしくはall bad)を投げ入れてくるわけです。
例えば、Aさんの「all bad」をBさんに投影することで、Bさんが恐ろしい敵であると見なすということになります。

これだけなら「原始的投影」なのですが、この恐ろしい敵と見なしたBさんと自分(Aさ
)を「同一化」していく、つまりはAさんが攻撃を仕掛けていくわけです。
投影性同一視の問題は、こうしたやり取りの結果、何とも思っていなかったBさんが本当に怒りを抱いてAさんを攻撃してくることがあるということです。
Bさんからすれば言われもない攻撃を受けるわけですから、それは当然とも言えます。

ですが、元を正せばAさんのものである感情によって振り回され、Aさんが向けてきた「all bad」な対象と同じような言動を取ってしまうという点から見て、BさんはAさんに「操作されている」と見なすことができます。
これが心理療法的な意味の「操作」になります。
単に振り回されていることを「操作」と呼ばないように。

このような投影性同一視の機制は、境界例に特徴的とされていますが、実は日常的にかなり見られるものです。
例えば、うちの子どもが小さかった頃(今も小さいけど)、DVDを観たいというのをダメと言ったことで怒りだしました。
私は怒って言っていませんでしたが、子どもから「お父さん怒っちゃダメでしょ!」と叩かれました。
これは子どもが抱えていた怒りを私に投影し、子どもは私が怒っていると感じたわけです。
更に、理論的に見れば、投影して怒っている私に同一視を行い、叩くという行為をもって怒りを示してきたわけです。
ここで本当に怒ってしまっては、彼に「操作」されてしまったと言えるわけです(当然、怒りませんでした)。

また対人援助職が、その職に就こうと思った動機として投影性同一視もかなり見られます。
自分が救われたい人が、援助する人に自分を投影し、それを救うことで間接的に自分が救われるという仕組みです。
ですが、こういう人は必ずしも対人援助職に向いているとは言えません。
彼らの行う援助は、本質としては「自分がされたいこと」であり、相手のことが眼中に無いことも多いからです。
援助をしてそれを受け取らない相手に怒りを感じるという現象も、こうした機制が働いた結果なのかもしれませんね。

否認

否認の防衛機制において、防衛対象となるのは内面ではなく外界にあるもの、外界から来るものであって、自分がそれに気がつくと不愉快になったり、不安になったり、恐怖が生じるような外的な対象になります。
こうしたことに「気がつかないでいる」というメカニズムです。

稀に女子高生がトイレで出産し、子どもが死んでしまったというニュースがあります。
その際、よく言われるのが当人や周囲も「気がつかなかった」「生まれるまで子どもがいるなんて気がつかなかった」ということです。

子どもを産んだ人なら自明のことですが(私は産んでませんけど)、胎児がお腹の中で大きくなっていくことで生じる様々なことに「気がつかなかった」ということは通常はあり得ないことです。
それはその女子高生が、妊娠の事実に気がついてしまうと自我が耐えられないような不安に襲われるために、否認というディフェンス機能を用いたと見立てるのが適切でしょう。

気がついてしまうと、親になんて言えばいいのだ、相手は何と言うだろうか、学校を続けられるか、友達からどう接せられるか…といった不安が起こるわけですから、その原因となるような「妊娠という事実」に気がつかないというやり方を用いるということです。

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