事例の行動を説明する精神分析学の概念を選択する問題です。
「ラーメンなのか?蕎麦なのか?うどんなのか?」を考える問題だと思っていたら、答えが「麺類」だったので拍子抜けでした(この例でわかるかな?)。
問63 32歳の女性A。公認心理師にカウンセリングを受けている。Aは、実家に泊まったときのことを語った。夕食時、父親は機嫌良くしていたが、母親は陰うつで、口を開くと体調の不安をこぼすばかりで、Aにはうっとうしく感じられた。Aは母親からもう1日泊まるように勧められたが、仕事があると嘘を言って早朝に発った。その後、帰宅途中にある生花店で、母親の好きな花が目に留まり、母親宛に花束を贈ったという。
帰宅途中にとったAの行動を説明する精神分析学の概念として、最も適切なものを1つ選べ。
① 現実検討
② 失錯行為
③ 自由連想
④ 防衛機制
⑤ 幼児性欲
解答のポイント
精神分析学の基本的な概念を把握している。
選択肢の解説
④ 防衛機制
自我(後述しますが、意識できる「私」というイメージでOKです)は、現実、エス、超自我という3つの領域からの刺激を受けて、そこで現実不安、エス不安(本能不安)、超自我不安(道徳的不安)という三種の不安が生じることになります。
そこで感じるさまざまな不安を防衛し、適応するために様々な防衛機制が働くことになります。
要するに、自我が不安にさらされたときに、自我を守る(防衛=defense)するために行う「こころの手法」を防衛機制と呼ぶのです。
防衛機制の多くは、幼少期の未熟で弱い自我が、不安や不満を処理するために用いてきたものです(未熟な自我は、不安や不満をそのままの形で受けとめるという力を備えていないことが多いので、別の方法を使って不安や不満を和らげる)。
これらの防衛機制は意識的に行われるものではなく、無意識的に、いわば反射的に行われる自我の機能ですから、これらの機制が幼少期を過ぎた後も慢性的に常用されたり、過度に用いられたりすると、自我は柔軟性を欠き、硬化してきます。
つまり、人生早期にあまりに激しい不安や不満にさらされたり、絶えず不安や不満が持続していると、自我はその防犯にしがみつき、偏った人格、歪んだ人格として固定化してくることになります。
そうなってしまうと、現実に対して直面する力は弱くなり、ますます防衛的な態度が強められてきます。
ただ、やはり防衛の本質は「工夫」であり、その命がこれまでの歴史の中で外部文化と折り合うために学習してきた成果です。
治療では、凝り固まった防衛が現実世界に何らかの不適応を招いているという状況において、「かつてはこの防衛によって救われてきたのだ」という前提を忘れず、後ろ髪を引かれながらも、その人にとって「より好ましい工夫」を構築していくことになりますが、「心機一転」という感じよりも、「温故知新」の精神の臨む方が良いだろうと思います。
さて、こうした防衛にはさまざまな種類があるので、いくつか例を挙げておきましょう(いわゆる神経症的防衛を中心に述べます。〇は用いられる、△は用いられることもある、という感じです)。
種類 | 内容 | 意識のレベル | 病的 | 健康 |
抑圧 | 苦痛な感情や欲動、記憶を意識から締め出す。 | 抑制、臭いものに蓋 | 〇 | △ |
逃避 | 空想、病気、現実、自己へ逃げ込む。 | 逃げるも一手 | 〇 | △ |
退行 | 早期の発達段階に戻る。幼児期への逃避。 | 童心に帰る | 〇 | 〇 |
置き換え | 欲求が阻止される、要求水準を下げて満足。 | 妥協する | △ | 〇 |
転移 | 特定の人へ向かう感情を、似た人へ向ける。 | 〇 | △ | |
転換 | 不満や葛藤を身体症状へ置き換える。 | 物言わねば腹ふくるる | 〇 | |
昇華 | 反社会的欲求を社会的に受け容れられる形に | 〇 | ||
補償 | 劣等感を他の方向で補う。 | 碁で負けたら将棋で | 〇 | |
反動形成 | 本心と裏腹なことを言う、行う。 | 弱者のツッパリ | 〇 | △ |
打ち消し | 不安や罪悪感を別の行動や考えで打ち消す。 | やり直し | 〇 | △ |
隔離 | 思考と感情、感情と行動が切り離される | 火に飛び込む消防士 (怖さを隔離) | 〇 | |
取り入れ | 相手の属性を自分のものとする。 | あやかる、真似 | 〇 | 〇 |
同一視 | 相手を取り入れて自分と同一と思う。 (自他未分化だと融合・合体) | 〇 | 〇 | |
投影 (投射) | 相手へ向かう感情や欲求を、 他人が自分へ向けていると感じる。 | 疑心暗鬼 | 〇 | |
合理化 | 責任転嫁 | いいわけ | 〇 | △ |
知性化 | 感情や欲動を直接意識化せず、 知性的な認識や考えでコントロールする。 | 屁理屈 | 〇 | △ |
逆転 | 感情や欲動を反対物へ変更する: サド→マゾ、のぞき→露出、愛→憎 | 〇 | ||
自己への 反転 | 相手へ向かう感情や欲動を自己へ向け変える 対象愛→自己愛、対象への攻撃→自己攻撃 | 天に向かって唾を吐く | 〇 | |
自己懲罰 | 罪悪感を消すために、自己破壊的な行動に。 | 罪滅ぼし、償い | 〇 | |
合体 | 相手に飲み込まれる、象徴的な同化 | 一心同体になる | 〇 | △ |
解離 | 人格の統合が分離してしまう | 〇 |
上記が精神分析における防衛機制の代表的なものと、その意味などになります。
さて、ここで本事例を見てみると、①母親に対する鬱陶しさを感じていた、②その鬱陶しさから宿泊の要求を「嘘をつく」という形で断った、③帰宅途中に母親の好きな花を送った、という流れです。
ポイントなのは「母親に対して鬱陶しさを感じたこと」や「嘘をついたこと」によって生じる罪悪感があり、その罪悪感が「こころに負担」を与えたため、その「こころの負担」を軽減するために「母親の好きな花を贈った」という一連の流れを説明する概念を導くことです。
つまり、母親に対する罪悪感によって「こころの負担」が生じ(すなわち自我が不安にさらされた)、この負担を軽減するために「母親の好きな花を買う」という工夫を行うことで、自我を守ったということになります。
ですから、本事例では「防衛機制」が用いられたということになり、そして、本問ではここまでしか求められておりませんが、ここで終わっておくのは寂しいので「どういう防衛機制が使われているのか」もついでに考えておきましょう。
本事例のように「罪悪感を別の行動などによって振り払う」ような防衛機制は「打ち消し」になり、日常的な例で言えば、夫婦げんかした日はいつもより多めに家事をする、子どもを叱りすぎたのでおもちゃを買い与える、などになりますね。
防衛機制は日常にもあふれていますから、それを理解しておくと「この人はどういうところで「こころの負担」を覚えるのか」を把握でき、そこからその人への支援につなげることもしやすいでしょう。
以上より、選択肢④が適切と判断できます。
① 現実検討
現実検討は、健康な自我機能の一つに挙げられています。
自我そのものをどう定義するかは難しいところですが、一般には、いろいろなものを感じたり、考えたり、行動したりする「自分」というものを自覚するが、この意識したり行動したりする自分の主体を「自我」と呼ぶことが多いですね。
ざっくりと「自分のこころ」というイメージでも良いかもしれません。
ハルトマンは、健全な自我(現実適応的自我)の研究を主に行い、自我自律性=自我は単にエスと超自我の調整をするのではなく、積極的に外界と接触し適応的な機能を果たすと考えました。
ハルトマンは以下の10種の自我機能を挙げています。
- 現実検討(主観的な観念や表象が、客観的現実と一致しているか否か)
- 合理的な判断(自身の行動が社会的に適切か予測し、判断の妥当性を測る機能)
- 自己と外界(対象)に対するリアリティ
- 順序のある思考プロセス
- 欲動と感情の調整・制御(葛藤に巻き込まれないことで、自分の成長に寄与する自我の働き)
- 自我防衛機制(受け容れ難い欲望や願望を精神世界の操作で処理する機能)
- 対象恒常性の確立など内的な対象関係
- 支配‐達成の能力
- 適応的な退行
- バランスの良い自我機能の統合(自己と他者のパーソナリティの統合と一貫性、連続性が保たれる)
上記の通り、現実検討は健康な自我機能の一つであり、「いかなる現実も客観化し、否認し逃避することなく直面し得る強さ:観察自我、合理的判断力、自己を過大評価も過小評価もしない、あるがままに現実をうけとめ得る心」と見なすことができます。
このような現実検討の考え方は、本事例の「母親に対して鬱陶しさを感じたこと」や「嘘をついたこと」によって生じる罪悪感があり、その罪悪感が「こころに負担」を与えたため、その「こころの負担」を軽減するために「母親の好きな花を贈った」という一連の流れを説明するものにはならないことがわかりますね。
現実検討が低下している状態というのは、例えば、自身が病気であるのに病気であることが理解できない(病識がない)、誰が見ても明らかな客観的事実を認めない(防衛機制の否認)など例を挙げればキリがないほどありますが、本事例ではそこまで現実検討が低下している様子は見られません。
母親に不快感を覚える、一泊するのを断るための嘘をつく、花を贈る、という行為は現実検討が低下した故に生じたと見なすには無理があります。
よって、選択肢①は不適切と判断できます。
② 失錯行為
失錯行為とは、主体の意に反して、主体が考えて目指した計画や、意図の代りにしてしまうもので、まったく思いがけない行為や、振舞いを指します。
伝統的な心理学は失錯行為に特別な注意をはらわなかったが、フロイトはこれらを心的生活の機能に正当にも組み入れています。
彼は心的組織という一つの総体の中で見たところ雑多で、何のつながりもない、すべてのこれらの現象をまとめ、二つの原則(第一に「失錯行為は意味を持つ」ということであり、第二にこれらは「心的行為」であるということ)によって失錯行為を理論的視点から説明しています。
失錯行為を「意味のある心的現象である」と仮定することは、それらが意図から生じていると想定することに帰し、だからこそ、それらは厳密な意味で心的行為であると考えられなければならないわけです。
要するに、その人のうちに無意識の欲望があり、それが「うっかり」「失敗」「言い間違い」などの形でその人の意に反して顕在化するということであり、その顕在化の在り様は当人の無意識の欲望の表出になっているということです。
フロイトはこの現象を「日常生活の精神病理」にて例示していますね。
失錯行為に、主体の意に反して実現される無意識の欲望を見るならば、フロイトの仮説は必然的に前もっての抑圧の作用を前提としています。
失錯行為には、抑圧された欲望が回帰しており、それが主体の意識的意図に反して妨害するような傾向という形で突然出現することになります。
したがって、欲望の抑圧が失錯行為を生じさせる必要不可欠の条件であると理論的に言うことができます。
この点についてフロイトは「意図のうちの一つは、ある抑圧をこうむることによって初めて他の意図の妨害という道を介して、出現しうる。意図はそれ自体が妨害されてはじめて妨害を引き起こすものになる」と述べています。
このことは、失錯行為は二つの異なった意図の干渉によって生じることを意味しており、主体の(抑圧された)無意識の欲望は、主体の意識的意図に反して自らを表現しようとして、ある妨害を引き起こすのだが、その妨害の性質はまさに抑圧の程度にのみ拠っています。
たとえば、①抑圧された欲望が、明らかな意図をただ修正するだけの場合、②明らかな意図と単に混ざる場合、③結局はそれにまさに取って代わる場合などであり、これら三種類の妨害のメカニズムは特に言い間違いによって例証されています(前述の「日常生活の精神病理」にて)。
このようにして、失錯行為は、やはり葛藤から生じてくる症状の形成と同列に置くことができるとされており、つまり、失錯行為は主体の意識的意図と無意識の欲望の間の妥協として出現し、その妥協は「偶然のできごと」とか日常生活の「しくじり」といった形での妨害として表現されるということです。
資格試験で解くにあたっては、失錯行為は「無意識の欲求が、言い間違いや小さな失敗の中に漏れ出ているもの」と思っておくくらいで問題ないでしょう。
言い間違いでは「好き」を「嫌い」と言ってしまったり(無意識にその対象に対する「嫌い」があり、それを抑圧していたが、それがこういう言い間違いによって顕在化したということ)、小さな失敗では「遅刻する」という形(なぜか直前にしなくていいことをするなどして遅れることは多いですね。この場合も抑圧された「行きたくない気持ち」がこういう現実を妨害する形で顕在化するということ)などがありますね。
さて、ここで本事例を見てみると、①母親に対する鬱陶しさを感じていた、②その鬱陶しさから宿泊の要求を「嘘をつく」という形で断った、③帰宅途中に母親の好きな花を送った、という流れです。
選択肢④の解説で既に述べた通り、ポイントなのは「母親に対して鬱陶しさを感じたこと」や「嘘をついたこと」によって生じる罪悪感があり、その罪悪感が「こころに負担」を与えたため、その「こころの負担」を軽減するために「母親の好きな花を贈った」という一連の流れを説明する概念を導くことです。
この一連の流れの中に、失錯行為に該当するようなもの(言い間違えや小さな失敗など)は存在しないことがわかるはずです。
よって、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 自由連想
精神分析技法を構成する方法で、患者は、治療の間、心に浮かんできたことをまったく区別することなくすべて表出しなければならないというものです。
自由連想法は、1892年に、フロイトがある治療のさなかに暗示を得たもので、その治療中、彼の患者の一人(エミー・フォン・N)が、自分が考えている途中に介入せずに、自由に喋らせておいてほしいと彼にはっきりと要求したのが最初です。
次第に、この方法は、旧来のカタルシス法にとって代わり、1898年に決定的に採用されるに至ったのだが、それ以後精神分析治療の基本的規則、無意識を探求する特権的な手段となりました。
患者は、自身の思考、観念、心像、感情を、それらが彼に浮かんできたままに、選別や制限をすることなく、たとえそうした素材が、支離滅裂で、猥褻で、無作法で、重要性がないと思っても、すべて表出することを求められます。
こうした連想は、ある単語、夢の中の一要素、あるいは、自発的な思考により思い浮かべられる全く別の対象を用いて、導入することができるとされ、この規則を尊重することによって、無意識的な表象が浮かび、抵抗のメカニズムが現実化するのが可能となるのです。
自由連想によって、無意識に追いやった欲求が顕在化され(これを邪魔するのが自我が持っている「こんなこと言ってはいけない」「こんなことを言う私はダメ」などであり、それは教示の段階で制限しないよう求められています)、その人の症状なり抑圧によって生じている不適応などの変化を目指すわけです。
こうした自由連想は、本事例の「母親に対して鬱陶しさを感じたこと」や「嘘をついたこと」によって生じる罪悪感があり、その罪悪感が「こころに負担」を与えたため、その「こころの負担」を軽減するために「母親の好きな花を贈った」という一連の流れを説明する概念ではないことがわかるはずですね(自由連想をそもそもしていない)。
以上より、選択肢③は不適切と判断できます。
⑤ 幼児性欲
幼児性欲は、思春期以前の、特に人生初期の数年間の性的欲動の形態です。
一般に言われる成人の性欲は「性器性欲」であり、幼児性欲はそれ以前の多様性を持った性欲であるとフロイトは定義しました。
幼児性欲に分類されるのは口唇期、肛門期、男根期とされ、それぞれ異なった性欲を持っているとされています。
この区別が身体部位によってなされているのは、欲求の発現の山がこの順序で推移することを示すものであり、この身体部位を総称して「発情帯」と呼びます。
口唇、肛門、男根という部位の重要性は、いわゆる「異常性欲」を観察することで明らかとなるとされており、ここで挙げた部位が正常性交以外の手段によって性欲の満足を得る際の身体的部位と直接間接関係していることを常にしています。
こうした理由からフロイトは、性欲を単一のものと考えず、いくつかの部位から成立すると考えたわけですね。
この部分本能が身体発達とともに次第に発現して、ついに性欲として統一されれば正常であり(いわゆる性器性欲)、その発達過程に重要な障害のあった場合が異常性欲となると見なすのです。
幼児段階においては覗きや露出、サディズムやマゾヒズムなど、成人においては性的倒錯とされる「部分性欲」が発現するとされ、近親であろうと同性であろうと自分自身であろうとあらゆる対象が性的な対象とされています。
こうしたフロイトの幼児性欲に関する考え方は、精神分析理論の論争の的になった部分でもあります。
その成否はともかくとして、重要なのがフロイトが「性欲」というものを中核に据えて、人間の精神というものの全体像を記述しようと試みたということなんです。
同じような試みを土居健郎先生は「甘え」を中核に据えて行っており、精神分析理論が「性欲」によってさまざまな心的現象を説明することを批判するのであれば、土居先生のように「では、自分はこれを中核に据えて説明します」という態度が重要だと思っています。
それぞれの理論家にとって、生み出した理論というのは非常に重要なものです。
それに対して批判をするのであれば、ただ感覚・感情・主観による恣意的なものであることは許されず、代案を以て論争することが重要であり、併せて代案を支える事例を提示することが重要です。
というのが、精神分析理論の「性欲」を批判する人に対しての私の意見ですね。
いずれにせよ、本事例の「母親に対して鬱陶しさを感じたこと」や「嘘をついたこと」によって生じる罪悪感があり、その罪悪感が「こころに負担」を与えたため、その「こころの負担」を軽減するために「母親の好きな花を贈った」という一連の流れを説明する概念として、幼児性欲では無理があるのはわかると思います(というか、事例で幼児性欲を示すってどうすればいいんだ?と不思議に思いますね)。
よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。