わざわざ「精神科領域における公認心理師の活動」としてはありますが、実際は精神科だから解答に独自性が生まれるというほどの内容ではありません。
各疾患や支援法に関する理解が前提とされている問題になります。
問79 精神科領域における公認心理師の活動について、適切なものを1つ選べ。
① 統合失調症患者に対するソーシャルスキルトレーニング〈SST〉は、個別指導が最も効果的とされる。
② 神経性やせ症/神経性無食欲症の患者が身体の話題を嫌う場合、身体症状に触れずに心理療法を行う。
③ 精神疾患への心理教育は、家族を治療支援者とするためのものであり、当事者には実施しない場合が多い。
④ 境界性パーソナリティ障害の治療では、患者への支援だけではなく、必要に応じてスタッフへの支援も行う。
⑤ 妊産婦に精神医学的問題がある場合、産科医が病状を把握していれば、助産師と情報を共有する必要はない。
解答のポイント
各疾患や支援法、資格の役割について理解していること。
選択肢の解説
① 統合失調症患者に対するソーシャルスキルトレーニング〈SST〉は、個別指導が最も効果的とされる。
SSTとは、他者と関わる際の技能であるソーシャルスキルに課題がある場合に行われるものであり、ソーシャルスキルの知識の提供、クライエントによる実践、セラピストのフィードバック、という一連の流れでソーシャルスキルを身に付けていく支援法です。
扱われるスキルは、非言語コミュニケーション、スピーチのパターン、会話スキル、聞くスキル、主張するスキル、口論する時のスキル、面接スキル、デートスキル、プレゼンテーションスキルなど多岐にわたります。
SSTは個別的に行われることもありますが、精神科領域では、例えばデイケアのプログラムとして集団で行われていることも多いです。
そして、個別で行うことにも価値はありますが、集団で行うことで効果が高くなることも知られています。
これは何もSSTに限ったことではなく、集団で行われる支援法全般に言えることです。
集団療法では、同じような精神的健康度の人だけでやり取りするよりも、さまざまな水準の人がいた方が効果が発揮されることが認められています。
さまざまな水準の人がいた方が、その集団内での力動に活発な変化が生じ、それが結果として参加者の心理的変化を生じさせやすくするのです(もちろん、この「変化」をどのように扱うかが支援者の腕の見せ所ですし、それによって効果が変化もします)。
このことはSSTでも同様で、ソーシャルスキルのレベルが高い人もいれば低い人がいるのは当然ですし、ある領域のスキルが上手な人でも他の領域ではうまくいかないことも多いものです。
このように、SSTを行うときの集団内においてソーシャルスキルレベルに差があることで、苦手な人は上手な人のスキルを見て学ぶこともできますし、上手な人でも自分にはないやり方を経験することができます。
また、客観的に見て上手か否かは、ある領域でうまくいく決定打にはなりません。
例えば、営業の仕事において、自信がありなんでもはきはきと答えられるよりも、朴訥とした雰囲気でやや不器用さを漂わせる人の方が良い成績を収めることも少なくありません。
ですから、SSTにおいて苦手な人の対応が実は上手な人にとっても役立つことは多いのです。
SST内での単なる上手下手という認識は、多くの社会では別のベクトルをもって解釈されることも知っておきましょう。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。
② 神経性やせ症/神経性無食欲症の患者が身体の話題を嫌う場合、身体症状に触れずに心理療法を行う。
摂食障害のクライエントが面接において身体の話題を嫌う場合、まず行わねばならないのは、セラピストの中に痩せた状態に対する否定的な認識が無いか検索することです。
多くのクライエントはその否定的な認識をキャッチして、身体の話題を避けていると捉えておくことがセラピストとしての成長を促進させます。
そのことを前提にして、解説に入っていきましょう。
おそらく、本選択肢の解説として最もわかりやすいのが「身体の所見、主に体重の変化を見落とすことで、クライエントの生死にかかわる問題につながりかねない」という考えがあろうかと思います。
私は、この考え方は「正しいけどあまり適切ではない」と感じます。
なぜなら、上記のような認識でクライエントの身体に関する質問をする場合、そこには「管理」の雰囲気が漂い、クライエントはその雰囲気を強く嗅ぎ分けます。
クライエントの身体に対して話題にする場合、身体症状に対する回復の祈り、憐憫の情から発せられることが重要ですし、それが込められていればそこまでクライエントが身体症状について話題にすることを嫌うことは無いだろうというのが経験に基づいた意見です。
とは言え、上記のような点に問題がないと仮定したとしても、身体の話題を嫌うクライエントがいる可能性は否定できませんし、だからといってこういう時に身体症状について触れないというのも適切とは思えません。
生命の維持という問題もありますが、カウンセリングに「心理的な要因で触れてはならない話題」があることが良いこととは言えないと思うのです(あえて触れないことはあって良いのですが、クライエントが嫌がるから触れないは支援者の存在意義として違う。嫌がるからしないのは、単に腰が引けているだけ)。
ですから、「あなたが嫌がることは理解しているけど、身体で見逃すとまずいことが起こっているとあなたの不利益になるような状況になることもあるから」と話題にすることも一つの方法だろうと思います。
こうした「正直さ」「率直さ」を彼女らは嫌わないというのが肌感覚で思います。
技術として、身体症状を話題にすることにも価値はあります。
例えば、無食欲症の場合、消化管を除く内臓諸器官の状態に思いが及んでいないことが多いので、脳、肝臓、心臓をはじめとする内臓諸器官に飢餓が及ぼす影響を説明することも価値があります。
特に脳への栄養の必要性は、時に説くことが重要です。
それ以外にも、歯の衛生の必要性を伝えることも大切です(排出行動がある場合などを考えれば、歯への影響は理解できますね)。
カウンセリングにおいては、こうした「クライエントよりも1歩2歩、理解していることがある」という目新しさは大切です。
ただし、クライエントにとって未知のことばかり伝えるのも負担が大きいので、「7割の知っていることというお皿の上に、3割の未知のことを乗せる」というイメージが良かろうと思います(この辺は講演でも同じですね)。
摂食障害のクライエントは、こうした支援者の姿に「よく知っている」という認識を持つことが多い印象で、「先取りされている」といったネガティブな認識を持つことは少ないように思います(もちろん、出し方によるのでしょうが)。
このようにクライエントが嫌がる場合であっても、身体に関する話題をどのように入れ込むかが大切ですし、そのためには不食や過食による身体的問題も細やかに理解しておくことが重要になります。
以上より、選択肢②は不適切と判断できます。
③ 精神疾患への心理教育は、家族を治療支援者とするためのものであり、当事者には実施しない場合が多い。
どのような精神医学的問題であれ、心理教育は重要になります。
そして、心理教育を家族に実施することが重要なのは言うまでもありません。
家族はクライエントのサポート資源の中で重要なものの一つであり、クライエントの年齢によっては唯一の支援環境となり得る存在です。
支援というものは、①重要な因子で、②動かすことが容易であり、③動かすことによって全体に好ましい変化が波及的に大きく生じ、④好ましくない変化がなるべく小さく、かつ波及的にならないようにと、たくさんの因子を動かそうとするものです。
この点から見ても、家族は疑うまでもなく重要な因子ですね。
心理教育によって家族がクライエントの精神的問題や症状を正しく理解し、それに対処できることで、クライエントが抱えている心理的問題によっては劇的に変わることだってあるのです。
この際、家族に対して、とにかく今日までクライエントを育ててきたという苦労に対する労う気持ちがまずは大切ですね(養育の上手下手はありましょうが)。
こうした家族への心理教育だけでなく、クライエント本人への心理教育も重要です。
なぜ「クライエントが自分の問題について理解すること」が重要なのか?
それは、自らの問題がどのような発生機序によって生じているかを知ることで、把握という知的生命体にとって安定に不可欠な体験をするためです。
人間は「自分に起こっていることが何か把握できない」という状況におかれると自己統制感を失い、自尊感情や自己肯定感を低下させることになります。
ですから、自らの疾患に対する理解を深めることで「自分に起こっていた問題はそういうことだったのか」と把握することが重要なのです。
このことが端的に重要なのがPTSDの問題です。
侵入体験や回避、認知と気分の変化について、なぜそのようなことが生体に生じるのかを理解することで、「症状に振り回されている」という状態から「症状を理解し、コントロールする」という意欲を高めていくことができます。
また、こうした役割を持つ心理教育には、上記のように「どうやって対処するのか」のアイデアが活発になるような伝え方が重要になります。
まずは「把握」そして次に「対処」へとクライエントが能動的に動けるようにすることが、心理教育という支援の中核であろうと私は考えています。
以上のように、クライエント自身が心理教育を受けることには大きな価値があると言えます。
よって、選択肢③は不適切と判断できます。
④ 境界性パーソナリティ障害の治療では、患者への支援だけではなく、必要に応じてスタッフへの支援も行う。
境界性パーソナリティ障害は昔から「不安定の安定」と言われるくらい不安定な人格様式とされてきました。
特に、他者との関係性が近づくと、専門的に言えば二者関係の雰囲気が生じると、不安定性が前景に立つようになります。
この理由として、古くから精神分析学派では重要な他者との関係が不安定だった、すなわち「安定していてほしい人が不安定だったという経験があるために、その後に出会う「信頼したい」「安定しているように見える」人と出会った瞬間に「この人も不安定かもしれない」という疑念に無自覚の内に占められてしまう」という説明がなされます。
このように相手との安定した関係をイメージしづらいために、境界性パーソナリティでは、まずは「激しく求める」という形が関係の中で現れてきます。
週に1回会っていたら「週に2日会いたい」「毎日会いたい」といったふうに限りなく求めてくるという形が典型例です。
これは対象関係の不安定さからくるものと考えられていて、目の前にいないと対象のイメージが弱くなったりネガティブになっていったりするため、それを補うために毎日会うという欲求が出てきてしまいます。
しかし、この求めに応じていても安定するわけではありません。
例えば、毎日会うようになれば、「今自分から気が逸れた」という経験も多くなって、どんどん「疑う」という境界性パーソナリティの特徴が出てきます。
これも親子関係の不安定さ、つまり安定できるはずの関係が不安定だったことで、安定の中でも「安定を疑う」というパターンが抜けないという形で顕在化するということです。
このことはそれほど難しいことではなく、牡蠣を食べてあたった人が、次から牡蠣を食べられないようなものですが、それが対人関係の基本となるような場面で起こっているということが問題と言えますね。
このようなクライエントの内面を「対象恒常性の欠如」と言ったりします。
対象とはその人の何となくのイメージ、恒常性とはいつも同じという意味ですから、その人のイメージがいつも同じである感覚が欠如しているという意味です。
いずれにせよ、境界性パーソナリティでは、こうした関わりの中での厄介さ、ややこしさがあちこちで生じる可能性があります。
特に入院治療の場合、ある支援者を味方につけ、それ以外の支援者がひどいことをしているように思わせるなどの言動が見られたりします。
そうでなくても、支援スタッフが上記のようなややこしいコミュニケーションを向けられることで疲弊したり、悔いたりするということもよく生じることです。
ですから、こうしたクライエントの言動について、どういう意味を持つのかを共有し、理解した上で「それなりに適切そうな対応を取れる」ことを目指してスタッフへの支援を行うことがあります。
例えば、境界パーソナリティでは怒りを感じると、それを自分のものと認識して抱えることができず、相手がそれを持っていると見なして、実際にその怒りの感情を相手から引き出そうとするというパターンがあります。
これを「投影性同一視」と呼ぶのですが、こういう概念の存在を知っておかないと、クライエントのコミュニケーションによって生じた怒りであるという認識もできず、更に事態をややこしくするような関わりをしてしまう恐れもあります。
こういうクライエントのコミュニケーションについて、さまざまな説明を行っているのが主に精神分析理論ですから、支援者はその考え方に触れておくことは重要であると私は考えています。
以上のように、境界性パーソナリティ障害の対応をする支援スタッフに対し、クライエントの言動の心理力動を理解してもらうこと等は重要であり、そうしたスタッフへの支援はよく行われることであろうと考えられます。
よって、選択肢④は適切と判断できます。
⑤ 妊産婦に精神医学的問題がある場合、産科医が病状を把握していれば、助産師と情報を共有する必要はない。
助産師は保健師助産師看護師法を根拠とする資格であり、「厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、じよく婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子」を指します。
助産行為の専門職であり、妊娠、出産、産後ケア、女性の性保健、新生児ケアなどを分野としています。
保健師助産師看護師第30条により、助産行為を行うことができるのは医師および助産師のみであることが定められています。
周産期における医療・ケアは、提供する場所がどこであろうとも、医師、助産師およびその他医療職者とのチーム医療が原則であり、助産所、院内助産においても、それは例外ではありません。
また、児童福祉法の観点からすれば、本問の「妊産婦に精神医学的問題がある場合」だと、児童福祉法の条文で「出産後の養育について出産前において支援を行うことが特に必要と認められる妊婦」と定義される特定妊婦に該当する可能性がありますね。
助産婦は健診時に対応することもありますから、妊産婦に精神医学的問題があることを理解しておくことで、関わり方や提案する内容等について事前に考えておくことがしやすくなります。
こうした医療連携については、平成29年に医療法が改正されたことで「出張のみによって分娩を取り扱う助産師についても、母児の安全確保の観点から、連携する医療機関を定めること(医療法第19条第2項)」「妊産婦の異常に対応する医療機関名等について、担当助産師が妊産婦等へ書面で説明すること(医療法第6条の4の2第1項)」などが義務付けられました。
こちらは主に「助産所における連携医療機関確保推進の手引き」に関する規定となりますが、もちろんその場面設定でなくても医師との連携が重要なことはわかるはずですね。
以上より、選択肢⑤は不適切と判断できます。
お世話になっております。1点ご質問があります。
「クライエントの身体に対して話題にする場合、身体症状に対する回復の祈り、憐憫の情から発せられることが重要」
「憐憫」という言葉に疑問があります。
憐 憫(れんびん、れんみん)
「憐憫」については「哀れに思い同情すること。
無智愚昧の衆生に対する、海よりも深い憐憫の情はその青紺色の目の中にも一滴の涙さえ浮べさせたのである。(芥川龍之介 『尼提』)」
https://www.weblio.jp/content/%E6%86%90%E6%86%AB
という事例があり、上から目線(優越感の思わせる)が感じられます。かえってクライエントに不信感を与えませんか?
コメントありがとうございます。
まず「憐憫」という言葉について、芥川龍之介の使用はありますが、基本的に「ふびんに思うこと。あわれみの気持」という意味で考えております。
そして、クライエントに対して「ふびんに思うこと。あわれみの気持」を持つことについて、上から目線であるという論理はかなり以前から臨床の世界で耳にするところですね。
こちらについての私の意見は以下の通りです。
まず、臨床の場に限らず、人間関係において「平等」とはイデアであり(つまり、本質的には存在しえない)、それを目指し続けるという点に意味がある概念であると考えています。
そして、臨床の場が「ゆとりのある側が、ゆとりのない側に支援を行う」という性質である以上、「ゆとりのある側」にその立場特有の感情体験が生じるのも致し方ないものと考えています。
むしろ、この感情体験を観察し、その出所をクライエントとの関係性を基盤に考え、それを支援に活かしていくことが臨床家の役目でしょう。
問題は、この際に生じてくる感情体験が如何様なものであるか、という点です。
リストカットの支援において見聞きする残念なコメントとして「これは気を引こうとしているだけだから反応しないように」というのがあります。
これは一面としては正しいのですが、クライエントの「そうせざるを得ない事情」への想像が欠如したコメントだと思います。
摂食障害者は、こうした「そうせざるを得ない事情」への想像が欠如した視線を向けられやすい病です。
彼女らの骨と皮だけになった身体は、見る者の背景によっては異様さ、恐怖、理解し難さなどを引き起こし、陰性の感情が先立つことがあります。
例えば、戦争体験のあるDrが、食べるのに苦労したという経験があるために摂食障害を診ることができないという話があります。
支援者にもさまざまな事情はあるのでしょうが、摂食障害の支援にあたって最初に出てくる感情がそれでは困ります(先述のDrはそのことをよくわかっていて、診られないと公言しておられました)。
彼女らの身体を前にして「憐憫の情」を感じずにはおれない、そういった感情が先に来るような支援者でなければ、やはり支援の入り口に立てないのではないかと思うのです。
これを「惻隠の情」などと読み替えれば、おそらく万人に受け容れられるのだろうと思うのですが、私の臨床経験と照らして「憐憫」という表現を使いました。
感覚的には「何とかしてあげたくなる」という感じかもしれませんが、これも見ようによっては「上から目線」ですね。
私の些少な経験ではありますが、それがクライエントを支配する形で進行していかなければ、クライエントからの拒否になることはありません。
お返事になっていれば幸いです。