知覚や意識に関する問題とされていますが、正誤判断には精神医学的な知識が必要になります。
共感覚については、臨床のトレーニングとも絡めて覚えておいて損はないだろうと思います。
こういうトレーニング、今の臨床教育ではあまりやっていないのかもしれませんが…。
問47 知覚や意識について、誤っているものを1つ選べ。
① 共感覚は、成人よりも児童に生じやすい。
② 幻覚は、意識清明時にも意識障害時にも生じる。
③ 入眠時幻覚がみられる場合は、統合失調症が疑われる。
④ 事故などで、四肢を急に切断した場合、ないはずの四肢の存在を感じることがある。
解答のポイント
幻覚が生じ得る障害や、それが起こりやすい状況を理解していること。
共感覚や幻肢などの現象を把握していること。
選択肢の解説
① 共感覚は、成人よりも児童に生じやすい。
ある感覚刺激を本来の感覚以外に別の感覚としても知覚できる能力のことを「共感覚」と呼びます。
大きい-小さい、強い-弱い、重い-軽いなどの感覚的性質は、視覚だけでなく、聴覚や触覚にも共通して認められるものであり、このように、ある種の感覚的特性が、感覚様相(モダリティ)を超えて共通に認められることを「通様相性現象」と呼び、共感覚はその一つです。
聴覚から色覚が生じる色聴が最もよく知られていますが、他にも匂いから色や形が見える、音から匂いを感じるなど、異種のモダリティ間でさまざまな共感覚の事例があることが知られています。
中井久夫先生は、文章が色で見えるようですね(中井先生によると、神田橋先生の文章の色は綺麗らしいですよ)。
共感覚を経験していない人にしてみると、比喩的表現を理解されがちですが、本来の感覚以外に別の生き生きとした感覚が生じるという事例は発達的研究では数多く報告されています。
また、視覚が遮られた状態で音を聞かせると共感覚のない被験者でも色や形が見えやすいという報告もあり、共感覚は心理学や生理学の研究対象となっています。
共感覚に関しては主要な仮説が2つ提出されています。
1つは共感覚を原始感覚とみなす立場で、子どもの感覚システムはあまり分化していないので、一つの刺激が複数の感覚過程を刺激し、混合した感覚が生じるとするものです。
これを支持する証拠として、成人よりも子どもで共感覚が生じやすいことが挙げられ、色聴は子どもの40~50%で生じると報告されています。
この仮説では、成人で共感覚が少なくなるのは、本来備わっていた共感覚の能力が発達とともに他の知的能力によって抑制されるからであると解釈されます。
もう1つの仮説は、経験による心的連合仮説で、脳の感覚野同士の結合が学習を司る皮質下を媒介して強まると考えられています。
この説は、一つの刺激によって生じる共感覚が成人の被験者の間で比較的安定しているという報告によって支持されており、成人における比較的程度の弱い共感覚現象に当てはまると考えられています。
このように、共感覚については本選択肢で述べられているように、児童に生じやすいことが示されていますね。
よって、選択肢①は正しいと判断でき、除外することになります。
さて、共感覚の話題が出たので、臨床のトレーニングに関するお話を一つしていきましょう。
神田橋條治先生は、臨床現場で重要な「感じる」能力、「読みとる」能力の向上に五感イメージ・トレーニングを推奨しています(精神療法面接のコツ)。
引用しながら解説していきましょう。
われわれが対象を感知しようとしているさいの体験を思い浮かべてみると、感覚と概念化の中間に、イメージ照合の過程があることがわかる。これこそ、感知機能の主要な部分である。このイメージ照合の機能を練磨することにより「読みとる」能力を高めようとするのが、イメージ・トレーニングである。ただし、イメージと言うと通常、視覚イメージを思い浮かべることが多い。現代人の生活習慣がそうなってしまっているせいだから仕方がないことではあるが、より原始的作業である精神療法にとって、この限定は致命的である。
ものに触れたり、匂いを嗅いだり、何かを見たり、音を聞いたり、何かを舐めたり、私たちは外界と五感を通して関わっています。
その五感で受け取った刺激を概念化(代表的なのが言葉ですね)するまでに、イメージが媒介しています。
そして、そのイメージによる照合の機能を高めていくことが精神療法において重要であるとしています。
五感イメージ・トレーニングとは、イメージ能力の原初のありようを再活性化する試みである。すなわち、「眼耳鼻舌身」によって捉えられる「色声香味触」の五感すべての領域で、イメージ照合の努力を続けることで、五感それぞれのイメージ界を活性化しようとするのである、その際、五感をばらばらに練磨するよりも、同一の対象に五感をそれぞれ向けるのがよい。
例としては、花を見て(視覚)、手に取って(触覚)、香りを嗅いで(嗅覚)、蜜をなめる(味覚)という行為が挙げられています。
対象把握にさいし、五感を総動員するこのやり方を努力して行わなければならないのは悲しい。犬や幼児の行動を見ているとわかるように、本来この動きは、ヒトが他の動物と共有している自然な行動パターンである。ところが、成熟し人になったヒトにあっては、この自然な行動パターンが不活性化されている。…ともあれ、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のそれぞれの領域で、感覚イメージの質と量を豊かにしていこうとするのが、五感イメージ・トレーニングである。
確かに幼児を見てみると一つの対象に五感を使って関わっているのがわかりますね。
ちなみにピアジェは、そうやって感覚を使ってシェマを作っていくとして、この時期を感覚運動期と名付けています。
しばらく、このトレーニングを続けていくと、五感イメージが総動員されやすくなってくる。そうなることは、幻想機能を膨らみやすくすることである。客観的、科学的対象把握を志している人びとには、受け入れ難い方向であるかもしれない。しかし、精神療法における「読みとる」「関わる」「伝える」の三つの技術の冴えは、ほとんど、この幻想機能の冴えに懸っているのである。
こういう話って私がトレーニングを受けていた頃には、それほど違和感なく聞くことができましたが、今の若い人たちの感覚ではどうなんでしょうか(「わかんないでしょ」という嫌味な意味ではなく、若い人に関わることがないので「どう受け取るんだろう?」という単純な疑問です)。
私自身は、こうしたトレーニングをしてきた方ですから「した方が良いんじゃないのかな」と思っています(こういうトレーニングを「した私」と「してない私」を比べることはできないので確証はないけど、確信として大切だと思っています)。
五感イメージ・トレーニングがある程度進んできたら、つぎに、五感それぞれの領域に由来する形容詞や副詞や動詞などを、他の感覚領域で使うことを試みて欲しい。…多くの人は意識せずに、日常その種の言い回しをしている。それゆえ、いまさらしてみるのも馬鹿らしいと受け取る向きもあるかもしれない。せいぜい伝える技術の修練だと考える人もあろう。そのいずれも、誤りである。これは五感イメージ・トレーニングの統合の方策なのである。種々の形容詞や副詞をその起源を考えて味わい、他の感覚領域へ転用していると、五感それぞれの領域に重なりが生じ、境界が不鮮明となり、その結果、感覚イメージのきめが濃やかになる。すなわち、そうした言葉の転用をつづけていると、五つの感覚領域の境界がぼやけ相互の融合が起こってくる。そして究極には、五感イメージの融合した一個の感覚統一体のようなものが外界を捉えるようになる。そこに至ると、五感で捉えられる事象それ自体ではなく、刻々と移りゆく事象を連ねる流れが感知されるようになる。俗に第六感と呼ばれるものがこれである。宮本武蔵の言う「観の目」も、恐らくこれである。
ここまで読めば、五感イメージ・トレーニングが共感覚を活性化するトレーニングであることがわかりますね。
人が成長するにつれて、それぞれの感覚の間に壁のようなものができます(上記の仮説の表現を借りれば「本来備わっていた共感覚の能力が発達とともに他の知的能力によって抑制される」ということ)。
そして、この感覚間の境界を近づけ、融合していくことで、イメージ能力の原初のありようを再活性化していくわけです。
神田橋先生の言う第六感、観の目については、私の理解では目の前のクライエントの流れを俯瞰的に読む力のように感じています(違うかもしれないけど)。
こうした流れを読む力無しに行われる支援は、どれほど正しくても、エビデンスがあっても有害です。
個人的には、精神療法のトレーニングはこうしたところから始めた方が良いと思っていますが、最近は「正しいこと」を教えることが中心になっているように感じています。
もちろん、心理学に関する知見はいくら伝えても伝えきれるものではないという時間的な制約から「確かな事柄を伝えるだけで教育の期限が来てしまう」という物理的な要因もあるのでしょうが、それ以外にも教育する側にもされる側にも要因があるような気がしています。
② 幻覚は、意識清明時にも意識障害時にも生じる。
③ 入眠時幻覚がみられる場合は、統合失調症が疑われる。
幻覚は、端的に言えば対象のない知覚のことを指し、感覚モダリティによって幻視、幻聴、幻嗅、体感幻覚などに区別されます。
幻覚は、それを体験する意識水準によって、その背景にある問題を見極める上で重要になります。
意識清明時に生じる幻覚の場合、統合失調症や老年期の精神病などがあり、意識水準低下時に生じるのはアルコール依存症や症状精神病(身体ないしは脳の急性の重い、しかし可逆的なことも多いもの。症状として精神障害が現れるような精神病で、主症状・必須症状は意識障害)などがあります。
統合失調症では意識障害時ではなく意識清明期におこり、耳から聞こえてくる、頭の中に直接響いてくる、腹部から聞こえてくる場合もあります。
統合失調症ではただの音であったり知り合いの声、悪口や命令や自分の考えであったり、会話であったり内容は様々とされています。
意識水準低下時に起こるアルコール依存症の幻覚は、振戦せん妄になります(せん妄ですから、意識障害が起こっているということですね)。
この幻覚のなかでは、幻視が多く、実際には存在しないはずの小動物や虫・小人が多数見えてきたり、それらが身体の上に這い上がってくるように感じたりします。
また壁のしみが人の顔に見えるなどの錯視や、作業せん妄(例えば大工がくぎを金づちで打つ動作といった職業上・生活上行っている行為を意識障害下に再現すること)が出現することもあります。
ただし、長期間かつ大量のアルコール摂取により、幻聴や被害妄想などを生じる精神障害である「アルコール幻覚症」では、意識がはっきりしているにもかかわらず、実際には存在しないはずの「自分を呼ぶ声」や「自分について批評する人々の声」などが聴こえてきたり(幻聴)、またその声のために、「自分が殺される」とか「自分は狙われている」などと実際にはあり得ないことを確信したり(被害妄想、追跡妄想)するという症状が出ることもあります。
なお、意識障害時に起こるような症状精神病を、他の問題ときちんと見分けることができるかどうかはとても大切なことです。
症状精神病を心因性の問題と見なして支援を行った場合、後々になれば明らかにそれが間違いであることが白日の下にさらされますし、何よりもクライエントの被った損害の量と質(脳の問題なのに、それを見落としていたら症状が悪化する公算が高い)とがのしかかってきます。
もちろん、公認心理師にそこまでの弁別能力が必要かと言われれば、社会的に求められるものではないかもしれませんが、それによって救える何かがあるのであれば努力することが重要だろうと個人的には思います。
こうした症状精神病、その背景にある意識障害を見分ける方法としては、原田憲一先生の著作や立津先生の知見が役立つだろうと思います(が、手に入らないかもしれないですね)。
このように、幻覚が生じたときの意識状態を把握することは、その背景にある問題を見分けるためにとても大切なことであることがわかりますね。
他にもある疾患に特徴的な幻覚の出るタイミングというのもあります。
代表的なのが、ナルコレプシーで見られる入眠時幻覚です(ナルコレプシーは、睡眠発作、情動脱力発作、入眠時幻覚、睡眠麻痺を四主徴とする一つの疾患単位ですね。2019-100で出題があります)。
ナルコレプシーで見られる入眠時幻覚とは、入眠後まもなく体験される幻覚で、通常の夢に似るが夢よりも生々しく、現実感のある体験です。
入眠時レム睡眠期に一致しており、夜間睡眠時のみならず、昼間の睡眠時や睡眠発作時にも体験されます。
多くの場合、不安恐怖感のある幻覚で、何か怖いものが襲い掛かってきたり、のしかかられて苦しむといった内容のものが多く、強い現実感と恐怖感を伴う幻視、幻触、身体運動感覚、ときに幻聴が見られます。
通常、目が覚めることによって悪夢であったことを悟りますが、まれには入眠時幻覚が発展して日中にも侵入し、夢幻様体験から幻覚妄想状態を呈することもあります。
いずれにしても、幻覚という現象と出会ったときに単純に何かと結びつけてしまうのではなく、それが起こった状況をよく把握し、外因→内因→心因の順番で様々な可能性を一つひとつ検証していくという姿勢が大切になります。
以上より、選択肢②は正しいと判断でき、除外することになります。
また、選択肢③は誤りと判断でき、こちらを選択することになります。
④ 事故などで、四肢を急に切断した場合、ないはずの四肢の存在を感じることがある。
こちらは幻肢、幻影肢、幻影像肢などと呼ばれる現象です。
傷病のため手足などが切断された後も失われた部分がまだ存在するかのようにありありと感じたり、痛痒・しびれ・温冷感・運動の感覚を経験したりする現象のことを指し、四肢切断後の患者の80%以上はこうした感覚を知覚するとされています(乳房や陰茎、眼球などの切除後にも幻身体は現れることがあります)。
幻肢や幻肢痛は、手足の切断後だけでなく、神経傷害や脊髄損傷などによって手足の感覚と運動が麻痺した場合にも現れることがあります。
対象がないにも関わらず感性的経験が生じるので幻覚の定義と重なる面はありますが、本人の精神状態や発生機序の点で幻覚とは区別されます。
幻肢は四肢切断でなくても、脳卒中、脊髄損傷や末梢神経損傷などの運動麻痺や感覚遮断によっても発症し、これらは余剰幻肢と呼ばれます。
その他、四肢切断時の年齢が低い(幼児)と幻肢痛は起こりにくく、年齢の増加とともにその発症頻度が増加するなど、年齢との関連もあるとされています(この背景には、脳の可塑性が高いなどが考えられている)。
一般に、四肢切断前に疼痛を知覚している患者の切断後に現れる幻肢痛の性質は四肢切断前から知覚している疼痛の性質に類似しており幻肢痛の発症には疼痛の記憶が関与していると考えられ、四肢切断時に意識が無い(=疼痛を自覚していない)患者では幻肢痛の発症頻度が低いことも報告されていますが、この点に関しては反証もあるなど議論の余地を残しています。
東京大学医学部属病院緩和ケア診療部の研究グループは、健康な手と幻肢を同時に動かす両手協調運動課題という手法を用いて、幻肢の運動を計測し、幻肢の運動と幻肢痛との関係を調べました。
その結果、幻肢を運動できるほど幻肢痛が弱く、幻肢を運動できないと幻肢痛が強いことを見出し、幻肢痛の発症には幻肢の随意運動の発現が直接的に関連していることを明らかにしました。
自分の身体全体または身体の部分の空間的関係に関するイメージを成立させる意識下の働きを「身体図式」と言います。
自分の身体が空間内でどのような位置にあり、どんな姿勢を取っているか等、身体の部分の関係がどのようになっているかという認識は身体図式をもつからであり、これによって着衣等の適切な空間行動が視覚に頼らなくても可能になります。
幻肢痛が発症するメカニズムとして、脳に存在する身体(手足)の地図が書き換わってしまうことが報告され、幻肢は身体図式の存在証拠ともされていましたが、このような身体の地図の書き換わりを引き起こす要因については明らかにされておらず、幻肢や幻肢痛の発症メカニズムに関する定説はない状態と言えます。
このように、本選択肢の現象は幻肢として存在しますが、その発生機序に関してはまだ定説がなく、議論の余地を残していると言えますね。
よって、選択肢④は正しいと判断でき、除外することになります。