事例の語りの背景にある幼児期特有の心理的特徴を選択する問題です。
ポイントは、事例の心理的特徴ではなく、事例の語りの背景にある心理的特徴を選択することですね。
問69 5歳の女児A、一時保護所に入所中。Aの両親が事故に遭い入院となった。Aは幼稚園にいて無事であったが、養育者が不在となり、Aは一時保護所に入所した。当初、Aは慣れない様子で不安気であったが、次第に職員に懐き、「パパとママが退院するまで、ここで待っているの」と現状を理解していた。しかし、あるとき、「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」と語った。
このようなAの語りの背景にある幼児期特有の心理的特徴として、最も適切なものを1つ選べ。
① 差次感受性
② 自己中心性
③ 社会的参照
④ 対象の永続性
⑤ 一人でいられる能力
選択肢の解説
① 差次感受性
差次感受性は、HSPという概念と関連して語られることが多い概念ですね(イコールではない)。
HSPをどう定義するかは人によって微妙に異なりますが、「ネガティブな刺激や経験から悪い影響を受けやすく、一方でポジティブな刺激や経験からは良い影響を受け取りやすい人」であり、感受性の高さゆえに、他の人よりも「良くも悪くも」影響を受けやすい人という感じでしょうか。
こうしたHSPが提唱された1990年代後半から2000年代前半にかけて発達心理学の分野から提案されたのが、差次感受性や生物感受性という理論であり、これらの理論でも感受性が単に「弱み」ではなく、環境次第で「弱み」にも「強み」にもなる特性であることが実証的なデータを基に指摘されました。
即ち、差次感受性とは、環境変化などのストレッサーの影響を受けやすい個人は、ネガティブな環境下では脆弱性を発達させるが、ポジティブな環境下ではその利益を享受しやすいという事態を説明した理論であり、Belsky(1997)が提唱した概念になります。
近年のHSPの注目により、HSPの近隣概念として紹介されることが多いものですが、感受性の個人差に関する研究の一つという捉え方が適切です。
ちなみに、こうした「差次感受性理論」(Belskyなど)だけでなく、「生物感受性理論」(Boyce&Ellice)、パーソナリティの理論である「感覚処理感受性理論」(Aronら)なども紹介されており、最近では、これらを統合した理論である「環境感受性理論」(PluessやGreven など)が提唱されています。
さて、本問で問われているのは「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」という語りがどういう論理展開のもとでなされたかを考えることです。
もちろん、事例のAが差次感受性があり、それによって一時保護所の生活に苦慮感を覚えていることは否定できませんが、上記の語りを説明する概念として「差次感受性;良くも悪くも影響を享受しやすい」は採用できませんね。
環境に敏感であることが「母親の言いつけを守らなかったから事故に遭った」という論理づけを行ってしまう、という説明は無理がありますからね。
以上より、選択肢①は不適切と判断できます。
② 自己中心性
自己中心性とは、子どもの思考や発話が自己視点のみに立脚し、他者視点を考慮することができないという状態を指します。
ピアジェは前操作期に見られるような集団の中にいても他者とのやり取りに無関係な発話を「集団的独語」とよび、「自己中心性」の現われと考えました。
前操作期では、物事を相手側の視点に立って捉えるという認識の仕方が育っておらず、物事を自分とは別の位置から見ている人にも、自分が見ているのと同じように見えていると考えてしまいます。
このように視点の移行ができず、自分の側からしかとらえられない現象をピアジェは「自己中心性」と名付けました。
一般的に理解されるような利己主義という意味ではなく、幼児が自分自身を他者の立場に置いたり、他者の視点に立つことができないという、認知上の限界を示す用語が「自己中心性」になります。
自己中心性の概念を有名にしたのは、視点の異なる他者から見える風景が、自分の見ている風景とは異なり、違いがあることを理解しているかを調べる三つ山課題とその研究結果です(この辺に関しては「公認心理師 2018-89」でも解説していますね)。
この研究結果では、前操作期(2歳~7歳)には自己視点が唯一の視点である子どもが多いが、具体的操作期(7歳~11歳)以降になると、自己と他者の視点の協応、すなわち脱中心化が可能になるとされています。
なお、脱中心化とは、ピアジェの「自己中心性」を「脱した」という意味の用語であり、発達に伴い自己中心的状態を脱することを指すわけですね。
さて、こうした自己中心性の考え方によって本事例を説明できるかを考えていきましょう。
事例では、養育者不在の状況になったため、子ども(A)は一時保護所に入所することになります。
こうした状況について「パパとママが退院するまで、ここで待っているの」と述べていることから、入所にあたってきちんと説明を受けており、一応は理解しているような様子が見られたわけです。
ですが、あるとき「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」と語ったということですね。
これは「子どもの思考や発話が自己視点のみに立脚し、他者視点を考慮することができないという状態」である自己中心性という視点で捉えれば、自身の置かれた状況(両親が事故に遭ったこと、それによって両親が不在となり自身が一時保護所にいること)を自分の行った行動(言いつけを守らなかったから)という自らの視点に基づいて述べています。
他者視点を持っていない(客観的に見て、Aの行動と両親の事故には関連性がない。運転の邪魔をしたわけでもなく、Aは保育所にいたのだから)という点で言えば、確かにこれは自己中心性によって説明が可能な状態と言えるでしょう。
というわけで、本問の答えはこの「自己中心性」ということになるでしょう。
しかし、私は実践において、本事例のような状況を決して「自己中心性」という用語で説明するということはないでしょう。
このような事例状況において、カウンセラーが「この現象は自己中心性で起こっている」と説明することに、どのような支援的な意味があるのかを考えていくことが重要です。
自己中心性という発達の概念で説明することは、Aが自分の状況を「自己視点でスタートした思考で捉えている」「それはAの発達状況を踏まえれば自然なことである」と述べるに留まります。
しかし、本事例において大切なのは、Aがどのような心境の中でそうした論理を導いたのかというストーリーです。
Aは客観的な説明とそれに対する言及を行っていたにも関わらず、「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」という説明をしています。
おそらくAは一時保護所で過ごす中で、大きな不安と寂しさを感じていたものと予測できます。
こうした不安と寂しさは、無味乾燥な客観的説明(両親が事故に遭ったので、怪我が治って退院するまでここにいるよ)では納めることができないものだったのでしょう。
これを納めるためにAは「自らと関連付けたストーリー」を欲するに至ります。
即ち、自らの言動が現状を招いたというストーリーを構築することで、納めることができない不安と寂しさに意味付けを行ったわけです。
これは客観的に見れば「自己中心性に基づく思考」になるのでしょうが、このような「自らも絡めたストーリー」をもつ方が、自身の状況を自己関与的に考える方が、精神的には楽になるという面があるのです(たとえ、それが否定的なストーリーであったとしても)。
これは脳が「無意味な音を無意味な音として処理するよりも、有意味な音として処理する方が負担が少ない」という特徴と似ている面があるのかもしれません(幻聴をこうした視点で説明する向きも昔はあった。今は知らないけど)。
要するに、自己が関与しないストーリーでは、今の自分の不安や寂しさを納めるには力不足であるということであり、それよりも否定的なストーリーであったとしても、自己関与があった方がそこに主体性を持つことができ、現状に対する納得感が高まるというわけですね。
さて、そのように考えると、Aに対する支援の方向性が見えてくるはずです。
お気づきの方もいるでしょうが、こうした「自己関与的なストーリーで納得する」というパターンは虐待などの状況でも見られます(自分がこうしたから殴られたんだ、自分が悪い子だからだ等)。
こうした「自己関与的なストーリーで納得する」というのは、その瞬間は楽になるのですが、そうしたストーリーを構築する癖をつけてしまうと、その後の人生に良くない影響を及ぼすことになりかねません。
要するに、自身に起こったあらゆることを、無自覚のうちに、根っこの部分で、自分が悪いという認識を持ちやすくなるのです(この辺のニュアンスは、グッドウィルハンティングという映画を観るとわかりやすいかもしれません)。
ですから、支援としては、先述した「自己関与の無いストーリー:無味乾燥な客観的なストーリー」で、子どもが不安や寂しさを抱えていられるように支援していくことになります。
厳密に言えば、「自己関与の無いストーリー:無味乾燥な客観的なストーリー」では抱えきれない、手に余るような子どもの不安や寂しさを「支援者との関係性の中で納めていく」ようにしていくことが重要なわけです。
この子どもの不安や寂しさを「支援者との関係性の中で納めていく」というアプローチの端的なやり方は、子どもの不安や寂しさを共有し、それを共に抱えるような雰囲気の中で過ごすということになります。
なお、共有の仕方はさまざまであり、言語的に語る場合もあれば、別の媒体(描画や箱庭など)を通して表現されることもあり得るでしょう。
人によっては「そう思ってしまうのは仕方がないけど、あなたのせいではないんだよ」と伝えることもあって良いですが、本質的に言葉は力を持ち得ないと理解しておかねばなりません。
そのように考えておかないと、この言葉は子どもをサポートしているように見えて、実は支援者が楽になりたいだけの言葉にもなりかねないのです。
以上が、私自身がこの事例に対して考える見立てと対応になります。
本来、見立て‐対応には連動性があるものであり、見立てが定まってくれば、対応もおのずと輪郭が見えてくるというものです。
この事例を「自己中心性によるものである」と見なすことは可能ですが、あまりそこから対応が浮かびづらくなるのではないかと思うのです。
また、「自己中心性という客観的な捉え方」をした場合に、「客観的な説明では落ち着いていないA」という存在を前にしたときに、治療の内的構造が誤っているような気がするのです。
つまり、Aという「客観的なストーリー」では自分の内面を納めることができていない事例を前にした支援者が、「自己中心性という客観的な見立て」を行うことは、実はAに客観的な捉え方を押し付けているようにも見えるのです。
そういった思考から、私自身はこの事例に対して「自己中心性」という捉え方を採用することはしませんが、ただ、本事例で起こっている事態に対して「自己中心性」という捉え方をすること自体は正しいことであると言えます。
以上より、選択肢②が適切と判断できます。
③ 社会的参照
乳児は生後数か月間、主に母親との関係で生活を営み、この二者の関係を二項関係と呼びます。
生後6か月前後になると、母親が指さしたり、見たりする対象を乳児も中止するようになります。
これは、母親と乳児が視線を共有し、母親-玩具-乳児という三者の関係が成立するので三項関係と呼びます。
相手と視線の共有が見られるこの三項関係のことを広義な意味で「共同注意」と呼びます。
ブルーナーは乳幼児の共同注意行動に2つの段階があることを示しました。
- 第1段階:
2ヶ月頃の乳児が大人と視線を合わせる行動。
この段階では、外界と関わるやり方として、大人と視線を合わせたりして関わる子ども―大人のやりとり(二項関係)と、モノと関わる子ども―モノのやりとり(二項関係)しかもっていない。 - 第2段階:
9~10ヶ月では、例えば大人が指さした対象(犬)を子どもも一緒に見るといった、外界の対象への注意を相手と共有する行動がみられるようになる。
第1段階が乳児と大人という2者間の注意共有であったのに対し(二項関係)、第2段階では、自分-対象-他者の3者間での注意のやりとりが可能になる(三項関係)。
トマセロは、9~10ヶ月頃の子どもは大人と同じ対象に注意を向けるだけだが、12ヶ月頃になると対象を指さした後、大人を振り返ってその対象を見ているかどうかを確認する行動が出現するとし、これを他者の意図を理解した行動と指摘しました。
また共同注意の発達過程を以下のように分類することも可能です。
- 対面的共同注意:
生後2か月から半年の間に最も顕著に出現する。この時期には乳児の視線が他者の顔、とりわけ目をしっかりとらえ、更に社会的微笑の出現が明確になってくる。この乳児が他者と視線をしっかり合わせる状態を「2者の視線が出会う単純な共同注意」と呼び、共同注意の原型的形態と見なされている。 - 支持的共同注意:
乳児と他者のいずれかが相手の視線を追跡して同じ方向を見たり、そこに存在する対象物を注目したりするときに生じる。このタイプの共同注意では、他者と同じ方向や対象物を見ていることに乳児が気づいているかは不明である。Butterworthらはこの誰かほかの人が見ているところを見ることを視覚的共同注意と呼んでいる。この共同注意は6か月頃より出現する。
更に乳児があるものを凝視したときに、養育者がそれに気づき、その対象物に視線を向けるように作用する。これにより養育者は乳児の対象物に対する意図を感じ取り、それに促されるように一定の行動、例えば、対象物を見せたり動かしたり、手に持たせようとしたり、感情表現に合わせるようにするなど。このような行動は、乳児に対して対象物を目立たせ、母親自身や母親自身とのコミュニケーションチャンネルを浮かび上がらせ、乳児がそれに気づきやすくする方向に働く。このような母親の与える様々な情報に基づいた共同注意を支持的共同注意と呼んでいる。 - 意図共有的共同注意:
生後9~12か月頃より乳児の共同注意に新たな質的変化が生じる。乳児は自分、大人、そしてこの両者が注意を共有する第三の対象物から三項関係をより緊密なものにし、参照的な相互作用に関わりだす。例えば乳児は自分の視線を柔軟に調整しながら、大人が見ているところを確実に見始める。子どもは自分の注意を対象物と大人にしっかり配分させながら共同注意をしている。そこには大人による乳児の意図理解と同時に、乳児による大人の意図理解がある。こうした他者への注意の配分を明確に伴う共同注意行動を「意図共有的共同注意」と呼ぶ。ここで共同注意が一応完成したと言える。これらによって視線追跡、社会的参照、模倣学習といったことが可能になる。さらにこの時期に身振りを使って、自分が関心を持った対象に大人の注意や行動を誘導しようとし始める。指さしの出現である。
このように、三項関係を表す共同注意行動には、指さし(見てほしいものを指差す)、参照視(既知の物を目にした場合にも母親の方を見る)、社会的参照(対象に対する評価を大人の表情などを見て参考にする)などがあります。
社会的参照は、生後8~10か月くらいに生じます。
曖昧な状況において乳児は母親の表情を参照して、自分の次に採るべき行動を判断するというものです。
社会的参照の典型的実験である視覚的断崖では、断崖という明らかに危機的な場面であっても、母親が笑顔などであればに沿って断崖を渡る行動を取りますが、危機的な顔をしている場合に渡る乳児は皆無です。
社会的参照の発達には、単に他者の感情を検出したり弁別したりするだけでなく、他者の感情と環境に存在する事象や物体との連結を理解することが必要になってきます。
社会的参照は乳幼児に限らず、その後の様々な場面で見られます。
大人になると、自分自身の行動・発言について、確証や自信を持っているので、乳幼児が行なうような社会的参照は少なくはなります。
正確には、そもそもこうした確証や自信を持てるようになるほどまでには、社会的参照の繰り返しによって自己の言動への確信を高めたとも言えますね。
しかし、自信がない場面などでは周囲の顔を見回すなどはよくありますね(大学の講義で当てたりすると、よく見る現象です)。
さて、こうした社会的参照ですが、事例ではAが周囲を参照にして何かを述べているという様子は見られません。
事例のポイントになるのは、Aが現状を「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」と理解している事態についてどう捉えるのか、ということになりますが、これに社会的参照が絡んでいるようには見えませんね。
よって、選択肢③は不適切と判断できます。
④ 対象の永続性
対象(物)が見えなくなっても、その対象が存在し続けるという概念ならびにその認識能力のことを指し、表象の発達と関連があります。
ピアジェによれば、感覚運動期を通じて発達するものとされています。
9か月未満の乳児は、物が見えなくなると、その物がなくなったかのような様子を見せますが、1歳を過ぎると、探し出せることができることが明らかになっています。
近年では、赤ちゃんの注視に注目した実験方法が洗練されるにつれ、6か月児でも対象の永続性を認識できる様子が明らかになっています。
こうした「事物は見えなくなってもちゃんとあり続けている」という捉え方が有るか無いかによって、「いないいないばあっ!」という遊びが楽しめるかどうかが変わってくるのです。
つまり、対象の永続性が全くないと「いないいないばあっ!」が怖い体験になることも考えられますが、対象の永続性が明確に出来上がってしまうと「いないいないばあっ!」に対して冷めた反応になってしまいます。
「いないいないばあっ!」が本当に楽しめるのは、こうした対象の永続性が「付き始めたけど、まだ完璧じゃないなぁ」という時期に限定されるということですし、この「いないいないばあっ!」という遊び自体が対象の永続性の発達を促進してくれるという面もあるのでしょう(遊びには、楽しむことと発達を促進するという2つの側面があることが多いものです。特に昔の遊びには、こうした子どもの発達を考慮したものが多いですね)。
さて、こうした対象の永続性ですが、もしかするとAに対象の永続性がないから、子どもが不安がっているのではないか、と考える向きもあるかもしれません。
ただ本事例では、Aが現状を「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」と理解している事態がなぜかを問われています。
目の前に母親がいないことを寂しいと思っているのは間違いありませんが、その寂しさは「目の前から消えた=存在しない」という寂しさではなく、存在するはずの人が目の前にいられなくなっているという寂しさであり、だからこそ上記のような捉え方でその状況を納得させようと自分で工夫しているのです。
ですから、本事例において「対象の永続性」という概念を採用して、本人の語りを見立てていくのは無理があると言えます。
よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。
⑤ 一人でいられる能力
「一人でいられる能力」とはWinnicottが提唱した概念であり、一見すると「孤独に耐えられる能力」と誤解されやすいですが、まとめて言えば「一人でいて二人でいる(内的な環境としての母親を利用できる)ことと同時に、二人でいて(そばに外的な対象がいるときに)一人になることができる(くつろぎの空間を内界にもてる)こと」を指します。
「一人でいて二人でいる」とは、こころの中に親密な他者の存在により現実の一人の状態(孤独)に不安になりすぎないでいられるということを指し、「二人でいて一人になれる」とは現実に親密な他者といたとしてもその人に飲み込まれる不安(自律性を失う不安)を感じすぎることなく、心的に一人の状態(個)を維持できることと言えますね。
つまり、ウィニコットいう「一人でいられる能力」とは、「孤の不安」「個の不安」のいずれも感じすぎないでいられるということを指しているわけです。
ウィニコットは個人の一人でいられる能力について、それが情緒発達の成熟度を共にあるという示す重要な指標であると指摘しています。
こうした「一人でいられる能力」ですが、見ようによってはAがその能力が少ないからこそ、一時保護所で不安を感じていると見れなくもありません。
しかし、問われているのは「私がママの言いつけを聞かなかったから、ママは怪我したの。あの日、ママが早くお着替えをしなさいと言ったのに私は遊んでいたから」という語りの背景にある心理機制です。
こうした論理を展開した理由として「一人でいられる能力」を採用するのは難しいと言えます。
つまり、こころの中に母親の存在が確立しているかどうかによって、上記のような論理展開の語りが出るか否かは左右されないということですね。
よって、選択肢⑤は不適切と判断できます。