公認心理師 2020-128

「感情と文化の関連性」とありますが、感情と文化がどのように関連しあっているかは感情心理学の重要な研究主題ですから、感情に関して学べばおのずと「感情と文化の関連性」を学ぶことになります。

こちらの問題は過去問をしっかりやっておけば20秒で解ける問題ですね。

問128 感情と文化の関連性について、不適切なものを1つ選べ。
① 各文化にはそれぞれ特異な社会的表示規則があり、それによって感情表出が大きく異なり得る。
② 社会的構成主義によれば、それぞれの文化に固有の感情概念や感情語によって、感情経験が大きく異なり得る。
③ 日米比較研究によれば、見知らぬ他者と同席するような状況では、概して日本人は表情が乏しくなる傾向がある。
④ 日本で優勢とされる相互協調的自己の文化では、米国で優勢とされる相互独立的自己の文化に比して、怒りや誇りが経験されやすい。

解答のポイント

感情心理学における代表的な知見・概念について把握している。

選択肢の解説

① 各文化にはそれぞれ特異な社会的表示規則があり、それによって感情表出が大きく異なり得る。

こちらについては「2018-86 選択肢③」ですでに出題および解説済みですね。

このような過去問で明らかにカバーできる選択肢は落としたくないですね。

こちらはEkmanの基本感情説に関する内容となっています。

エクマンら(イザードなど)は、表情研究からヒトは系統発生的に連続した、文化普遍的な「基本感情」を持つと主張しました。

基本感情の種類は、怒り・嫌悪・恐れ・幸福感・悲しみ・驚きの6種類(最近は軽蔑も加えて7種類)とされています。

エクマンの「神経文化説」は、基本感情は文化普遍的だが、どのような場面でどのような表情をするかは集団によって異なるという考え方です。

それぞれの文化で感情表出のルールを学習し、それに従って表出するとし、このルールのことを「表示規則」と呼びます。

つまり、基本感情は異文化であっても共通していますが、その文化での表示規則があるため、ある感情がどのような状況で表示されるかは文化によって異なるということですね。

これは選択肢①の内容と合致しますね。

よって、選択肢①は適切と判断でき、除外することになります。

② 社会的構成主義によれば、それぞれの文化に固有の感情概念や感情語によって、感情経験が大きく異なり得る。

こちらも選択肢①と同じく「2018-86 選択肢③」ですでに出題および解説済みですね。

もともと感情の起源に関しては進化的な見方と文化的な見方が対立的な構図で語られることが一般的でした。

進化的な見方を代表するのが、ダーウィンの進化しそうに由来する、いわゆる基本感情理論です。

Izard(イザード)、Ekman(エクマン)、Plutchik(プルチック)は、ヒトは系統発生的に連続した文化普遍的な「基本感情」を持つと主張しました。

エクマンらは、複数の国々で調査を行い、文化の違いに関わらず怒り・嫌悪・恐れ・幸福感・悲しみ・驚きの6種類の基本感情が存在することを主張しています。

この研究では、6つの基本感情と顔面表情が異文化間であってもほぼ普遍のものと識別されました。

このような異文化間であっても普遍的に存在する感情があるとするのが、こうした進化論的な見方です。

これに対して、文化的な見方としては、元をたどればボアズの文化相対主義に帰着する、いわゆる構成主義的感情理論(例えば、AverillやHarre)があります。

Averill(エイヴェリル)の「感情の社会的構成主義」は、主観的情感が文化特異な感情概念や感情語などに規定されてある、あるいは各種感情が文化固有の社会化の産物であるとする考え方です。

この理論では、感情語も感情体験も文化によって多様であり、感情は個々の文化に限定的な社会的役割を持っていると見做します。

つまり、進化論的な見方では感情の表出と認識に広く認められる文化共通性の証左をもって各種感情の生得普遍性の正当性を主張してきたのに対して、文化論的な見方では感情経験や感情概念などの文化特異性の証左をもって各種感情の社会・文化的構成の正当性を主張してきたということです。

社会構成主義もこうした文化的な見方に属するものであり、伝統的な客観主義や本質主義に対して「現実は人々のあいだで言語を媒介にして構成される」と考えます(ちなみに構成主義と社会構成主義では、社会構成主義が心と外界のいずれの存在も自明視しないという点において異なる点はありますが、ここでは取り上げません)。

自己意識的感情に代表される高度に社会性を帯びた感情の性質により、文化的な見方が対象となってきた経緯はありますが、進化論的な基盤の存在も無視できないのは自明です。

そもそも、進化と文化は本来、人の心や振る舞いに対して相互排他的な関係をなしているのではなく、むしろ相補的な関係をなしているという捉え方が自然ですね。

以上より、社会構成主義の立場では、それぞれの文化に固有の感情概念や感情語によって、感情経験が大きく異なり得ると考えます。

よって、選択肢②は適切と判断でき、除外することになります。

③ 日米比較研究によれば、見知らぬ他者と同席するような状況では、概して日本人は表情が乏しくなる傾向がある。
④ 日本で優勢とされる相互協調的自己の文化では、米国で優勢とされる相互独立的自己の文化に比して、怒りや誇りが経験されやすい。

選択肢④にある「相互協調的自己」および「相互独立的自己」とは、文化心理学を基盤とする概念であり、Markus&Kitayama(1991)によって考案されました。

彼らは、数多くの日米比較実験の成果を踏まえて「文化的自己観」の理論を提唱しました。

文化的自己観は、ある文化において歴史的に作りだされ、暗黙のうちに共有されている人の主体の性質についての通念のことです。

彼らは、自己についての心理的過程の背後には少なくとも二通りの「自己観」が潜在していると仮定し、その一方を「相互独立的自己観(independent construl of self)」と名付け、もう一方を「相互協調的自己観(interdependent construl of self)」と名付けました。

相互協調的自己観は「人間はまわりの人たちから期待されるように行動するのが自然である」という前提をもち、人は周りの人や社会からその人に求められている役割や期待といったものに突き動かされている存在であるという自己観です。

そして、相互独立的自己感は「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するものである」という前提のもとに成る自己観であり、人間のとる行動はその人に備わった性格や能力、才能、動機といった内的要因に帰属するのであるという考え方です。

そして、相互協調的自己観が東アジア文化的な自己観であり、相互独立的自己観が西洋文化的な自己観とされています。

こうした自己観に違いがあることによって、彼らの現在の状況に関する個人的意味の評価は、たとえそれらの状況が似通っていたとしても異なってくる可能性があります。

その点の研究として、共有された計画における過ち(例えば、予定されていた会議や集まりに欠席すること)に対する人々の感情反応が検討されました。

相互協調的自己観を背景にもつ人種と、相互独立的自己観を背景にもつ人種では、計画がうまくいかなかったとき、前者は悲しみを多く経験し、後者は怒りを多く経験したことがわかりました。

こうした違いが生じるのは、この状況において、相互協調的自己観ではその過ちが共有された損失とみなすので悲しみが生じるのに対し、相互独立的自己観ではその過ちは本人が個人として対処すべきものとして見なされるためです。

つまり、相互協調的自己観と相互独立的自己観では、同じ状況であっても異なる感情が生じるということになります。

上記はネガティブな状況での比較でしたが、ポジティブな状況での比較も行われています。

相互協調的自己観の文化圏において良い気分は友好的な感じといったような対人的な関わりに伴うことが多いのに対して、相互独立的自己観の文化圏では良い気分は優越感や誇りを感じるといったような対人的な関わりのないことに伴うことが最も多いとされています。

この事実は、人々の喜びの源が、彼らの文化で関係性や社会的価値を評価する仕方に依存していることを示唆しています。

おそらく、人々の自己の見方や個人的目標が、相互協調的自己観あるいは相互独立的自己観を反映していると思われます。

上記に関しては「感情を生み出す文化の差異や個人的な重要性の評価の差異」に関してでしたが、「どのような感情を、どのようなタイミングで出すべきか」といった規定に関する影響も研究されています。

この代表的な例として、顔の表情に関する表示規則では、アメリカ人に比べると、日本人は、他者がいるときにしばしば微笑で嫌悪経験を隠そうとします(選択肢③のような状況かと言えますね)。

また、誇りを表出する時にも、日本のような集団主義的文化よりも、アメリカのような個人主義的文化の方が受容されていることが見いだされています。

この背景には、個人主義的文化(上記で言えば、相互独立的自己観の文化)では、感情は個人の主観的な内的世界を反映するものとして受け取られており、「特定の個人に属する」と考えられているということが考えられます。

これと対照的に、集団主義的文化(上記で言えば、相互協調的自己観の文化)では、感情は客観的な現実を反映するものとして受け取られ、「関係に属する」ものと考えられているので、人々はそれらの文化に合わせて「ジェンダー化」すると捉えられます。

以上より、日本人は見知らぬ他者と同席する時に、感情を表出しないようになる(否定的感情を表出しないようにする)ことがわかります。

また、怒りや誇りは、相互協調的自己の文化に比べて、米国で優勢とされる相互独立的自己の文化で出やすいことがわかりますね。

よって、選択肢③は適切と判断できるので除外します。

また、選択肢④が不適切と判断できるのでこちらを選択することになります。

5件のコメント

  1. この解説、とても興味深く読みました。

    某テキストでは、「どちらの文化であっても 感情表出が違うだけで、怒り・誇りのような感情経験に差があるわけではない」が、④が間違いな理由として書かれていましたが、これは間違っていますよね?

    1. コメントありがとうございます。

      そのテキストの内容を知らないので何とも言えませんが、Markus&Kitayamaの知見を踏まえれば、ここで述べたような内容が正誤判断として使えると考えております。
      いずれが正しいかは答えかねますが、私は自分が解説として適切と考えていることを述べている、とまでしか申し上げられません。

      返答になっていれば幸いです。

  2. お世話になります。
    「以上より、社会構成主義の立場では、それぞれの文化に固有の感情概念や感情語によって、感情経験が大きく異なり得ると考えます。

    よって、選択肢②は不適切と判断でき、除外することになります。」
    とありますが、
    「よって、選択肢②は適切と判断でき、除外することになります。」
    ではないのでしょうか。

    1. コメントありがとうございます。

      ご指摘の通りですね。
      修正しました。

      この手の誤植は後を絶ちません。
      気が付いた時点で直していくことにします。

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