公認心理師のトレーニングのひとつである、スーパービジョンや教育分析に関する問題です。
また、成長モデルについても出題されましたね(現任者講習テキストが役立ちましたね)。
過去問とのつながりもあった問題ですから、きちんと押さえておきたいところです。
問110 心理臨床の現場で働く公認心理師の成長モデルとスーパービジョンについて、不適切なものを1つ選べ。
① 自己研さんの1つとして、教育分析がある。
② 公認心理師の発達段階に合わせたスーパービジョンが必要である。
③ 自己課題の発見や自己点検といった内省の促進は、スーパービジョンの目的である。
④ M. H. Rønnestad と T. M. Skovholt は、カウンセラーの段階的な発達モデルを示した。
⑤ 経験の浅い公認心理師のスーパービジョンにおいては、情緒的な支えよりも技術指導が重要である。
解答のポイント
教育分析、スーパービジョン、臨床家の発達モデルに関して把握している。
選択肢の解説
① 自己研さんの1つとして、教育分析がある。
教育分析とは、ある特定の学派の精神療法の専門家になろうとする人が、自分が被分析者になって(つまり、クライエントの立場になって)、その学派の先達から精神療法を受けることを指します。
つまり、スーパービジョンとは異なる概念であり、精神療法のうちでも、無意識を扱う精神療法とくに精神分析学や分析的心理学(ユング派)では、治療者が自分自身をよく知ることが必要とされ、教育分析の重要性が強調されていて、その学派の中で資格を得るための必須条件になっています。
精神分析学では、特に逆転移(カウンセリング中に感じるカウンセラー側の感情体験。やけに同情してしまったり、拒否してしまうなどの背景にあるとされている)の把握の重要性と併せて教育分析の必要性が語られることが多く、フロイトは「教育分析を受けても自分の無意識に開かれてない人は、精神分析をやっても無駄」とまで述べています。
教育分析を受けると葛藤がなくなって上等の人間になれるという錯覚を持つ人がいますが、それは誤りで、実際には「自分の内に起こってくる感情をよりよく意識し、平静にモニターできる」ということですし、これ自体が良い治療者の条件と言えますね。
ただし、実際には教育分析をしてくれる人は少ないですし、教育分析者の選定を誤ると一生の不作になりかねません。
神田橋先生は「優しい人よりも厳しい人、特に自他に平等に厳しい雰囲気の人が望ましい。そのような人からは静かな暖かみが伝わってくる」という基準で教育分析者を選ぶと良いだろうと述べていますね。
なお、初心者やまだ若い臨床家が教育分析を受けたいと話しているのをよく目にしますが、私は初心者があまり早くから教育分析を受けることは勧めない立場です(もちろん、異論はあるでしょうし、それはそれで尊重します)。
私は、教育分析以前に理論や治療の実際について学ぶべきことはたくさんあると思っているので、まずはそれらを学びながら、また臨床経験を積み重ねながら、自分の中に問題が感じられて、治療者としての必要性が感じられるようになってからでよいのではないかと思っています。
若い臨床家が受けたいと語るときに、どこか「自分のことを知りたい」という動機があるように見受けられ、これも一概に悪いことではないのですが、やはり知識と経験の蓄積を踏まえて「治療をするときに、自分の何らかの特徴が治療過程に影響を与えているように感じる」等を実感した時が良いのではないかと思うのです(そもそも「自分のことを知りたい」ということを、真っ先に他人に委ねるようなことはしない方が良いのではないかと思います)。
いずれにせよ、教育分析は特定の学派とは言え自己研鑽のひとつと言えますね。
以上より、選択肢①は適切と判断でき、除外することになります。
② 公認心理師の発達段階に合わせたスーパービジョンが必要である。
③ 自己課題の発見や自己点検といった内省の促進は、スーパービジョンの目的である。
⑤ 経験の浅い公認心理師のスーパービジョンにおいては、情緒的な支えよりも技術指導が重要である。
臨床心理学は実践領域を多く含む学問であり、カウンセリングは実用の学です。
どんなに技術が優れていても、それを扱う人間が未熟では適切な効果を得ることは難しいものです。
ですから、カウンセラーには、知識・経験・人格・コミュニケーションの力が必要になります。
※よく勘違いされている人がいますが、「コミュニケーションの力」とは、自分とは何の接点のない人とも関係を維持できる力のことを指します。決して「仲良く」「楽しい」関係を維持することではありません。その端的な傍証が、ひきこもりで他者とずっとネット通信をしている人が「コミュニケーションの力」があるかと問われればNoなわけです。彼らは「ゲーム」や「ネット」といった「共通の接点」がある状況でしかコミュニケーションをスムーズに行えないことが多く、これは先の「コミュニケーションの力」の定義には該当しない状況ですね。
昔から熟練した専門家を養成するための一般的手段として、実際的指導者に就くことが広く行われています。
これは知識だけでは専門家としての技量が身につかず、優れた手本を実際に見ながら体験することが、学習のいちばんの早道であることが経験的にわかっていたからです。
特にカウンセラーを志す人を養成するにあたっては、優れた専門技術をもち、人間的な修行にも付き合える指導者の存在が必要とされていて、この指導者をスーパーバイザーと呼び、指導を受ける側をスーパーバイジーと呼んでいます。
スーパービジョンの意義としては、まずは臨床的見立ての指導が挙げられます。
見立ての力の向上には、豊富な知識と臨床体験と1ケースをカウンセラー自身の創造的な見方で再理解する態度が重要になります。
スーパーバイザーはその豊富な知識と臨床体験をもって、バイザーが持ちえないような見立てを伝え、それを学んでいくことになります。
こうした技術の指導を第一と考えている人もいますが、同じく重要なのが、初心者が臨床実践に向かう不安の軽減になります。
ケースを担当することへの不安、責任感の重さを感じるなどについては、それを保持し抱えることが大切ですし、スーパーバイザーがそれを情緒的に支えていくことがスーパービジョンの意義のひとつと言えます。
もう一つ、スーパービジョンの代表的な意義として、スーパーバイジーの心理的課題の発見や内省を深めることが挙げられます。
この意義に関しては教育分析を被る部分があるように思いますが、私はスーパービジョンの場合、「ケースを介してのやり取りで出てくるスーパーバイジーの課題をテーマにする」というイメージを持っています。
ただし、この場合は「ケース・スーパービジョン」と呼ばれることもあるので、一概には言えないだろうと思います。
ただ、あまりスーパービジョンの場が、スーパーバイジーの個人的な話に終始したり、バイジーのカウンセリングのようになってしまうのは好ましくないと個人的には思っているので、その辺は「ケースを介して発見された」という制約があった方がお互いにとって良いのではないかと思うのです。
他にも、スーパービジョンによってスーパーバイジーの業務の管理、監督、調整を行うという意義も挙げられます。
初心者の場合特に、「良かれと思って」倫理に反したことをしていないかのチェックは重要です。
大学院教育では、毎回のカウンセリングの経過をその都度確認しているわけではないので、定期的に行われるスーパービジョンの場で、それらを監督してもらうことも大切です。
私が教員でいたころ、ある社会人経験(相談機関で勤めていた)学生が、大学院のカウンセリングセンターのクライエントと会い、そのクライエントが以前その学生が勤めていた相談機関に通っていたことを知り、知り合いの名前などを「親しみを感じやすいように」という意図を込めて「悪気なく」話したことがありました。
もちろん、これは重大な倫理的問題がありますが(秘密保持義務とかですね)、学生はそのことを理解していませんでしたし、伝えても理解に苦しむ様子でした(自己流でやっていると、この辺の理解が難しい場合が多いですね)。
実践的な見地から見た場合、上記のような行いに対してクライエントがどう考えるか、例えば、「この人は他所の話をする。だから、私のことも他所で話すだろう」「自分のことが筒抜けになるかもしれない」などと考えるかもしれません。
もちろん、上記の学生が狙ったような「親しみ」として感じてくれる可能性もありますが、大切なのはあらゆる可能性を広く見渡したうえでの対応ですし、この可能性の「視野の広さ」が専門家の力の多寡を示す要素でもあります。
スーパービジョンでは、こうした管理的な機能も備えており、それによって上記のような「臨床家としての視野の広さ」を鍛えていくということになります。
せっかくなので、私自身が体験したスーパービジョンの意義について述べたいと思います。
コロナの関係もあって最近は受けていませんが、その前までは私が尊敬する先生からスーパービジョンを受けていました。
個人的には「尊敬できる」という点が重要で、明らかに今の自分の知識・経験では及ばない「何か」を持ち合わせている先生でないと、ひねくれものの私は素直にスーパービジョンの場で話されることをきけないのです。
私が考えるスーパービジョンの意義は、むしろスーパービジョンの外で生じました。
月に1回のペースでスーパービジョンを受けていたのですが、日々の臨床実践の中で自分の内に湧いてくる小さな引っかかりに敏感になったのです。
これは「来月のスーパービジョンでは何を話そうかな」と思っているのが大きな要因であり(別に話題を探そうとかそういう話ではない。話そうと思ってなくても、大事なことは勝手に出てくる)、「自分ならこうしたけど、あの先生ならどう対応するだろう」という感じで心に留め置くことが多くなるのです。
臨床実践は個人で行うことも多く、多職種と連携していても心理職は一人ということも少なくありません。
ですから、知らず知らずのうちに自分のやり方が全てになってしまい、それ以外の可能性を考えるという思考が生じにくくなりがちです。
スーパービジョンがあることで、普段の臨床実践に対して良い意味での葛藤や戸惑いが生まれ、それをスーパービジョンの場にもっていき助言をもらうのです(これはカウンセリングでも同じかもしれませんね)。
また、カウンセラーにも発達段階があり、それぞれに合わせたスーパービジョンを受けることが望ましいとされています(こちらについては、2018追加-3の選択肢③に同じことが示されていますね)。
心理臨床大事典(p250)には、各段階における留意点について記載されています。
初心者の場合は以下の通りです。
- 見立ての指導と不安の軽減。
- コンプレックスに触れるか否かはバイザーのタイミングをはかる技量に委ねられる。
中級者の場合は以下の通りです。
- 自身のカウンセリングに対する枠組みができあがり、どこかマンネリの状況が漂ってくる時期に多い。
- 自分を超えたクライエントが続くときに受けると良い。
- 自分の課題を示すケースに集中して受けるのもいいし、すでに終わっているケースをもう一度初めから検討するような形も良い。
- 複数のバイザー、性別の異なるバイザーにつくなども視野を広げる良い体験になりやすい。
上級者の場合は以下の通りです。
- バイザーになっているような段階でも、SVはやはり必要。
- 上級者にとっての最大のバイザーはクライエント。カウンセリングをクライエントから学ぶ、と言えるのは上級者になってから。
- 上級者では、人間のみならず、自然や動物、異文化や古典などのあらゆるものがバイザーに成り得る。
以上のように、それぞれの習熟段階に課題があり、それに応じたスーパービジョンがあります。
上記の通り、選択肢②および選択肢③は適切と判断でき、除外することになります。
選択肢⑤に関しては、少し補足が必要かもしれませんね。
初心者のカウンセラーにとって、技術指導も情緒的な支えも同じく重要なものです。
先述の通り、スーパーバイザーによってはスーパービジョンの意義を技術指導のみと捉えている人がいますが、これは適切ではなく、やはり情緒的な支えの二本の柱となるだろうと思います。
もちろん、その濃度はスーパーバイジーや、その状況によって異なってくると言えますね。
以上より、選択肢⑤が不適切と判断でき、こちらを選択することになります。
④ M. H. Rønnestad と T. M. Skovholt は、カウンセラーの段階的な発達モデルを示した。
まず読み方からですが、ミッチェル・H・ロンスタット&トーマス・M・スコウフォルトです(試験には関係ないかもしれませんが、試験問題を「読めない」のは不便ですからね)。
Rønnestad&Skovholtは、臨床家の職業的発達は生涯続き、職業的自己と個人的自己が統合していくプロセスとして、以下の6期モデルを示しています。
- 素人援助者期:心理援助の訓練を受ける前の状態。自分の体験をもとにアドバイスをしがちである。
- 初学者期:訓練をうけることへの熱意はあるが、自信に乏しく不安が強い。学ぶ対象の情報量に圧倒される。出来るだけ簡単に学べ即効性のスキルを求める。
- 上級生期:博士課程相当にあたる。1人前になろうと完璧主義的になりがちの時期。臨床家を理想として学ぶ。特定の臨床心理学モデルや手法に固執しがち。
- 初心者専門家期:実践経験が5年程度の時期。受けた訓練を見直す時期になる。クライエントとの関係性を重視し始める。1つの理論よりクライエントに合うものに注意を向けるようになる。
- 経験を積んだ専門家期:実践経験が15年程度の時期。多角的に柔軟に理論や経験を使いこなし困難な状況に遭遇しても落ち着いて対処できる。自己の価値観・特性を反映させていく時期。柔軟で粘り強いアプローチがとれる。
- 熟練した専門家期:実践経験が20年以上の時期。自身の臨床家としての力を現実的に認識する一方で限界も謙虚に受け入れる。職業的人生を振り返り、満足を感じる一方、知識の発展に冷めた見方や職業への関心が薄れることもある。
職業的発達段階を理解することで、自分自身の段階を評価し、その時に直面する課題の対応にも役立つとされます。
また、職長的発達を促すだけでなく、「仕事に対する関心とやる気を維持し、職業的なウェルビーイングを高めるためのセルフケアとしても効果がある」と考えられています。
このように、Rønnestad&Skovholtはカウンセラーの段階的発達モデルを示したと言えますね。
以上より、選択肢④は適切と判断でき、除外することになります。
お世話になります。
公認心理師 2019-121では、
②スーパーバイジーへの心理療法を行うべきではない。
について、問題点の1つ目は、関係性の混乱が生じることです。問題点の2つ目は、スーパーバイザーが上記のような対応を取ることを「見せる」ことが挙げられます。問題点の3つ目は、SVで「個人的な問題」にまで踏み込むことはしないのが一般的です。
そのために、②は適切とされています。
しかし、
公認心理師 2020-110では、
⑤ 経験の浅い公認心理師のスーパービジョンにおいては、情緒的な支えよりも技術指導が重要である。
に対して、「初心者のカウンセラーにとって、技術指導も情緒的な支えも同じく重要なものです。
先述の通り、スーパーバイザーによってはスーパービジョンの意義を技術指導のみと捉えている人がいますが、これは適切ではなく、やはり情緒的な支えの二本の柱となるだろうと思います。」とされています。
これは、上記2019-12②の「問題点の3つ目は、SVで『個人的な問題』にまで踏み込むことはしないのが一般的です」
と矛盾するように感じます。
いかがでしょうか。
コメントありがとうございます。
どうやら「バイジーの個人的な話は扱わない」ことと「情緒的な支えを行う」に矛盾を感じているように見受けられますが、こちらに全く矛盾はないと考えております。
まずSVは基本的に「バイジーが担当しているケースに対するSV」と捉えてよいでしょう。
そして「情緒的な支えを行う」とは、バイジーがケースを担当するにあたって感じている過剰な不安等を支えていくということになります(カウンセラーとして感じなければならない不安はそのままでもいいでしょうけどね)。
現実には、バイジーが感じている過剰な不安は、バイジーの個人史に由来するということも大いにあり得るわけですが、原則としては「SVはバイジーに対するカウンセリングの場ではない」となります。
あくまでもケースを巡るさまざまな情緒的反応を支えていく、ということですね。
お返事になっていれば幸いです。
ご回答ありがとうございます。
例えば、私Aの支援Bに対して、同僚CからDとすべきという批判を受けて悩んでいると仮定します。この場合、スーパーバイザーはBかDかについては支援を行うが、A・C間の葛藤については支援対象としない、という受け止めで良いでしょうか。
ご多忙のこと路、済みません。
お返事が遅れて申し訳ありません。
AC間の葛藤であれば仕事の範疇(職場でのことだから)と捉えることも多かろうと思います。
「クライエントにどういう支援を行うか」「その支援を実行するのをしにくくする要因」として扱うことができるものだと考えられるからです。
どこからが仕事でどこからがプライベートかは曖昧ですが、例えば、家庭での悩みを相談する等は該当しないと見なすのが一般的でしょう。
お返事になっていれば幸いです。