親であることの精神的要件

二世タレントの不祥事が出るたびにその親が謝罪をし、「もういい年齢なんだから、親が出てこなくても」という言説がありますね。
私はその意見に与しません。
しかしそれは「親には育てた責任があるんだから、謝れよ」という意味ではありません。

親であるとは何なのか?
私は子どもに対して「責任を感じずにはおれない」ことだと思っています。
子どもの問題に際し、親として責任を感じて、何かしら謝らなければならない、謝るような相手がいない場合でも何か申し訳ない気がしたり、子どもに対して「そのように育ててしまってごめんね」という気持ちが湧いてくる。
それが「精神的に親である」ということだと考えています。

子どもが障害をもって生まれたとき、重い病気になったとき、如何ともしがたい事故に巻き込まれたときに「こんなふうに産んでごめんね」「守ってあげられなくてごめんね」と思うことに論理性はありません。
でもそう思ってしまう。
論理性がなくてもそう思ってしまうのは、その人が精神的に間違いなく親だからです。

私はこれが満たされていれば、若かろうが血の繋がりが無かろうが、その人は精神的には間違いなく親であると思います。
逆に、例えば小学生の子どもが万引きをして「お前がやったことなんだから、お前一人で謝りに行けよ」という人は、生物学的に親であっても精神的には親ではありません。

こういう人が異口同音に振りかざすのが「自立」という言葉です。
「本人の責任ですから」「自分のやったことを自分で処理させるのが自立への道」「自分のことは自分で責任を取れ」「あの子と私は違う人間です」など。
これは「自立」ではなく「孤立」への道です。

子どもに責任を取ることはできないのです。
子どもが万引きした分の金銭を稼いで返すようなことは社会的に不可能です。
そして、そもそも「金を返せば済む話」でもありません。
「金を返せばいいんだろ」という人は、「ナイフで刺されて、その傷口がきれいに治ったし、そのぶんの治療費や社会的損失をちゃんと支払ってくれたから許してあげる。現状復帰してくれたからそれでいいよ」と言っているようなものです。
でも刺されたときの痛みや恐怖は絶対に消せないですし、そこが重要なのです。

いや、子どもだけでなく、親にも責任を取ることは不可能だと思います。
繰り返しますが、社会経済的な損失は補てんできても、「起こったこと」による歪みは絶対に修復不可能です。
また、どんな風に関わっても100%子どもを統制できるということはあり得ませんし、どんな状況であれ「絶対に同じことは起こらない」と保証することなどできないはずです。

そんな「謝っても謝りきることができない状況」「責任を取りきれないような場面」において親にできることは何なのか?
それは、子どもの行ったことに対して責任を感じて、その責任を果たそうと努めることだと思います。
親が子どものしでかしたことに対し、一緒に謝ったり、もう二度とこんなことが起こらないようにしますと伝えたりする。
まだ責任の所在や範囲を知らない子どもに対し、親が自分の責任の範囲を把握・理解し、それを果たそうとすること、その姿を見せることが「躾」の一形態であると思うのです。

この「躾」によって目指すのは、子どもが自分の責任の範囲を知ること、その範囲の中で行動すること、その中での責任を進んでとるようになること、だと思います。
子どもは、そのどれもが未成熟です。
だから、時にはそのラインを踏み越えてしまうことだってあるでしょう。
そこで親が「自分の責任の範囲を把握し、責任を感じ、責任を取るべく行動する」ということを実践することが大切であり、この背中を見て子どもは成長していくわけです。

そういうことをされていない子ども、すなわち一緒に責任を持ってもらっていない子ども、二人三脚で支えられていない子どもの心象風景は「孤立」と表現されるものになります。
自分の責任の範囲を知らない子どもがしでかしてしまったことに対して、何のサポートもない状況に放り込まれ、本来解決できないことを解決するよう求められるわけです。
彼らが「追いつめられると嘘をつく」「責任から逃げる」のは当然の帰結であるように思います(最近、そういう子どもや親が増えましたね)。

もちろん、ある一定の年齢を超えたとき、社会的には親に責任はありません。
しかし「親として申し訳ない」と思うことが、親としては自然な感情なのです。
社会的には何もすることはできないし、すべきこともないけど、それでも「なんだか申し訳ない気がする」のが親という生き物なのだと思います。

だから私は、いい年の二世タレントが不祥事を起こし、その親が謝っていることに対して「親が出てこなくても」とも「そうだ、もっと謝れ」とも思いません。
彼らが何に謝っているのかはわからないですし、きっと彼ら自身もわかっていないのかもしれませんが(それでいいのですよ)、「とにかく申し訳ないという気持ちになる」のは理解できます。
だから彼らに対しては「そういう気持ちになるよね」と思うのみですし、彼らが謝るのは「そうせずにはいられない」からだと思っています。

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