公認心理師登録証の番号について思うこと

公認心理師の登録証が発送され、手元に届いた人が出始めているようです。
私の周囲にも、登録証が届き「今日から公認心理師を名乗れます」という方々がおられます(公認心理師法第28条~第30条の規定にありますね)。

不特定多数の臨床心理士が集まる会合があり、その中の会話で「第○○○号でした」と登録証に記載されている番号を言われる方がおられました。
どうしてこの人たちはわざわざ番号まで言うのだろう?
そして、番号を明らかにしている人たちは、その番号が若いのです。

例えば、刑務所の囚人に付される番号(実際に付されているのか知りませんが)ならば、個体識別という意味があり、刑務所というプラットフォームにおいて意味があるものになります。
ですが、登録番号で個体識別をできるようなシステムも見当たりませんし、そもそも目の前に本人がいるのに個体識別も何もないわけで。

よく聞いていると、この人たちは「番号が今回の公認心理師試験の順位」と捉えているようでした。
実際に付されている番号が成績順であるかどうかはわかりません。
そんなことは公表されてないんですから。

ですが、このような番号を成績順と捉えて公表している人たち、特に自分の番号が若いことを示そうとする人たちは何をしたいのか?
私は彼らが、自らが良い成績を取ったと誇示したいのだという論理しか発見することができませんでした。
もしかしたら「なんとなく発表しただけ」という方もおられるかもしれませんが、「なんとなく」の背景にある動因について多少なりとも思いを馳せるのが我々の仕事でもありまして。

これ以降は「公認心理師登録証の番号を成績順位だと思って誇示する人」に対する、私の連想になります。
私はそういった人たちに対して強い違和感を覚えます。

彼らには、自分よりも番号が嵩んでいる人に対する配慮がありません。
また、これから受験を志す人に対して「公認心理師の中には、こうやって成績で自分の能力を誇示する人がいるのだ」という認識を与えることへの懸念が見られません。
更に、今回の受験で落ちた人の心情に慮るゆとりもないのだろうと思います。

人間の欲は他者を巻き込むほどに、際限がなくなるという性質があります。
番号で自分の優位性を示したいという人は、自分の欲求のために多くの人を巻き込んでいることに気がついていません。
彼らによって「下」と見做される人たちは多く存在することになりますが、人は「下」に見られることによって有意にパフォーマンスが下がります。

「下」に見られることによって、ちょっと身体が重く感じたり、いつものような豊かな連想が湧かなくなったり、仕事終わりの疲れがちょっと大きかったり。
ハラスメントの「ハラス」は元々、猟犬に襲われて深い絶望感や徒労感を味わっている獲物の心情を示しています。
上下関係の「下」と定められる不快感は、上記のような「ハラス」に共通するものがあります。

ちなみに「それは受け手がそのように感じなければ大丈夫でしょう」という反論があるかもしれませんが、それは違う。
こちらに「そのつもり」がなくても、先方が「そのつもり」ならば、すでに傷つきは生じています。
人の自尊心や尊厳というものは、その人個人の中に存在するものではないからです。

自尊心や尊厳は、他者によって「この人に畏怖を覚える」と認識されたときに生じ、「こいつは程度が低いやつだ」と認識されたときに消滅するものです。
こういった感情は、対人関係があるところに生じる社会的概念だと私は考えています。
「気にしない」という人もいるでしょうが、そういう人は「気にしない」ために結構なエネルギーを費やしているのですよ、実は。

私は、公認心理師資格試験の解説をしていくにあたって「こういう表現をすると、この問題を間違えた人が傷つくかもしれない」ということを考慮に入れつつ進めています。
だから「この問題は○○に関する基本的事項です」などと書くのはけっこう勇気がいります。
間違えた人からすると「基本的なことを間違えた…」と認識することになりかねないからです。
(そして○○が基本的な事項だと考えるのは、私の歪んだ認識よる可能性もありますね)

私は「自分の言動によって、自分が想定し得るあらゆる立場の人がどのように感じるのか」を考慮に入れつつ自身の言動を統制するのが、成熟した大人の機能の一つだと考えています。
誇示のために番号を公表している人への強い違和感は「どういった姿を成熟した大人と捉えるのか」という点において、私の考え方と大きな乖離があるからなのかもしれないですね。

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