臨床心理士 査定面接:H22-78

 久々の更新です。

受理面接、見立てに関する問題になっています。

ちょっと精神分析をかじったような見方もしつつ解説していきましょう。

 小学4年生の女子Jさんは、小児がんのため入院している。幸い化学療法に耐えての入院期間は、7ヶ月目に入ったところである。治療は順調に進んでいて、しばらく前から、化学療法の合間には外泊もできる状態になっている。

 ある日Jさんの母親が、主治医に「Jが、『この頃、考えてもいないことが頭に浮かぶので、頭がおかしくなったんじゃないかと心配。お母さんなんか死んじゃえ!とか、思ってもいないのに浮かんでくる』と言っている」と本人の前で話しかけてきた。

 主治医からの連絡を受けて、臨床心理士も話を聴くことになった。本人も困惑した様子であったが、母親もショックを受けたようで「私は大きな犠牲を払って、一生懸命看病しているのに、どうしてそんなことを言われなくてはならないんだろう」と言っているとのことであった。

この状況で、臨床心理士として、Jさんの状態をアセスメントするために情報を収集する必要がありますが、それにあたって誤っている考え方を選ぶ問題になっています。

Jさんの状態がどのような力動によって生じたのか、という予測も交えつつ考えていくことが大切になります。

a.臨床心理士は、きちんとした時間的枠組みの中で1対1での査定面接を5回は行う必要がある。必要と感じたならば心理検査も行い、十分に検討を加えた報告書を提出すべきである。

最初に「きちんとした時間的枠組みの中で1対1での査定面接を5回は行う必要がある」という箇所について考えてみましょう。

まずは、これを一般的な査定面接のルールとして捉えた場合に適切か否か、という視点で考えてみます。

査定面接は確かに細やかに行っていく必要がありますし、できるだけ現在のクライエントの状態を映し出したものを所見として示すことが重要になります。

クライエントとの面接の全過程を振り返ったときに「初回面接にその経過がすべて内包されている」ということがよく言われます。

それほどに初回面接とは重要なものであり、上記の通り細やかに正確に行っていくことになります。

しかしながら、査定面接に「5回実施する」という明確な決まりは存在しません。

一般的に、カウンセリングに訪れるクライエントは何かしらの苦慮感を抱えていることが多く、場合によっては急を要するものもあるでしょう(例えば、学校に行く行かないで留年の期限が迫っているときとか)。

どのような状況であれ査定面接は「1対1で」「5回」ということは実践の論理に合わないと見なすのが自然ですね。

もちろん、状況が許して、クライエントの見立てが十分にできない場合に、複数回の査定面接を行うこともあり得るでしょうが、それが常と見なすのは不適切です。

上記にある「状況が許して」という点についても検討を行いましょう。

すなわち、本問の事例が「1対1で」「5回」の査定面接を行うことが適切かどうかを考えてみましょう。

後述することですが、本事例でJさんの「お母さんなんか死んじゃえ!とか、思ってもいないのに浮かんでくる』と言っている」という事態について、どのように見立てるかが重要になってきます。

ここにどういう意味があるのかを適切に認識することで、本人へのアプローチのベクトルが見えてくること、そして、ショックを受けた母親のケアにもつながります。

本人も母親も混乱していることから、できるだけ早い段階で査定を終え、本格的な支援につなげていくことが肝要です。

よって、本事例の状況であれば「1対1で」「5回」という悠長なことを言わず、迅速に査定面接を終えることが重要ということですね。

以上より、本選択肢が誤りであり、こちらを選択する必要があります。

b.このような場合には、体の治療や治療に用いられている薬物との関係や、そこから生じる様々な影響因を考慮する必要があるので、臨床心理士も医学的な知識についても得るように努力をする必要がある。

本選択肢の内容に異論のある方はいないのではないでしょうか。

見立てにおいて外因-内因-心因が重要であるという知見に基づけば、外因に含まれる「身体因」や「薬物による反応」についても理解しておくことが重要になります。

「心因に見えるものほど外因があり、外因に見えるものほど心因である」という格言もこの世界にはあり、外因と心因のニュアンスの違いも含めて官能的な理解が重要となってきます。

本事例は医療現場を舞台にしていて医学的知識の重要性が強調されやすいですが、カウンセラーの働く場所如何によって医学的知識の重要性が下がることはありません。

クライエントが示しているものが、ある病理の特異的反応であるのか、それとも非特異的な反応(精神的不調によって全般的に起こりやすい反応。例えば不眠とか)であるのか。

そういったことをキッチリと見立てるためには、医学的知識が不可欠で、それを基盤にしつつ各人がクライエントが示す問題について「一定のストーリー」を創り上げていくことが重要になります。

以上のように、医学的知識を積極的に求めていくことが我々の職業的役割の一つと言えるでしょうね。

以上より、本選択肢は正しいので除外する必要があります。

c.Jさんと母親の関係についてそれぞれからじっくりと話を聴き、行動観察も加えたアセスメントをするが、可能であれば、他職種のスタッフからも情報を得て、客観的なアセスメントを行う。

本選択肢の「Jさんと母親の関係についてそれぞれからじっくりと話を聴き」という箇所については、見立ての可能性の一つとして「母子の関係によって、今回の事態が生じた」を検証していくことが主目的となるでしょう。

Jさんの無自覚な母親への不穏感情が、今回のような形で表出した可能性を考えていくということです。

その検証のために、母子関係についてじっくりと話を聴くこと、行動観察も加えたアセスメントを行うことは自然なことでしょう。

さて、上記以外にもJさんに起こったことの背景を考えていきましょう。

今回の問題は、Jさんの病状が落ち着いてきて、外泊も可能になったという状況で起こっていますね。

子どもが抱える心理的問題は、現実的状況が落ち着いたときに出現することが多く、小児がんという問題がJさんの中で心理的に一段落したという見方もできます。

また「回復する」というのは、実はそう単純な話ではありません。

中井久夫先生は、幻聴が収まった患者さんに「幻聴が無くなって寂しくないか」「どんなものであれ、ずっと付き合ってきたものと離れるのは辛いものだよ」と伝えていたとのことです。

小児がん自体は回復して喜ぶのが自然ではありますが、それは「それまで得ていた母親からの支援」が途切れたり細くなるということも意味するかもしれません。

小さい子どもによく見られることで、一人でおしっこができたことを親が喜んでいると、全然別の場所におしっこをしてしまうということがあります。

「ボクはまだまだ未熟だから、ちゃんと面倒を見てほしい」という内なる欲求が働くのだと考えられます。

子どもにとって「大丈夫になる」とは、養育者からの別れを意味することもあるのです。

本事例の「問題」も、小児がんが一段落したJさんの内なる被養育欲求が生じさせたという見方もできなくはありません。

上記の見方がいずれも正しいか否かを判断できるまでの情報は現時点ではありません。

ただ、いずれの場合においても「それまで培ってきた母子関係」が影響することは間違いありませんので、母子関係について見立てていくことが重要になりますね。

さて、「可能であれば、他職種のスタッフからも情報を得て」という箇所についても、当然大切になります。

当人たちからだけの陳述だけでなく、より日常的な親子のやり取りを見ている第三者からの情報は重要です。

当人の陳述は自覚無く歪められることや、認識のズレが常態化してしまっている可能性もあります。

そこで様々な患者とその家族を見ている他職種の目に、Jさん親子がどのように映っているかを聴取することには、この母子関係を見立てていくうえで大切であると言えますね。

以上より、本選択肢は正しいので除外する必要があります。

d.Jさんの治療がこのところどのように進んでいるのか、それについてJさんにはどのように伝えられているのか、外泊のスケジュールとの兼ね合いについても、主治医や看護師に話を聞くことは重要である。

「がん」と聞くと、やはり大病であること、死の可能性があることは、小学校4年生のJさんにもわかるでしょう。

こういう死の恐怖は状況から言って自然なものと言えますが、それが適切な形で消化されていないと、その恐怖が別の形となって表出されることが起こり得ます。

母親との精神的密着度が高ければ、自分が死ぬという恐怖が「母親が死ぬ」という形に移り変わることも考えられるでしょう。

もっとも本事例の場合、「母親が死ぬ」ではなく「お母さんなんか死んじゃえ」ですから、母親への不穏感情も含まれている感じもありますね。

この辺は複合されていると見なすのが自然でしょう。

そしてこのような恐怖については、自分の状態について適切な情報を与えられないと膨らみやすいものです。

苦しい治療を経験してきたJさんは、自分の状態が「こんな治療が必要なほどのものなのだ」ということはわかりますが、それ以上の情報がなければ、今後について不安を感じるのは当然のことと言えます。

もっと悪くなるかもしれない、また苦しい治療をしなければならないかもしれない、などのように、適切な情報がなければ悪い方悪い方に考えが偏っていくのが自然です(現に苦しい体験をしているわけだから、予測としては当然であり、現実検討が機能した結果の予想と言える)。

こういう「正しい情報が無いが故の、ネガティブ方向への偏り」が生じると、不安が強まり、その不安が様々な形になって現れることが考えられます。

冒頭で示したとおり、死への恐怖が母親に転化するということもあり得るでしょう。

それを防ぐためにも、本選択肢のように正しい情報の提供や、今後の適切な見通しを伝えていくことが重要になってきます。

「一寸先は闇」という状況を作らないために本人の理解力に合わせて状態を伝えることは治療にあたっている人間の責務であり、それがJさんを1人の人間として尊重するということでもあります。

以上より、本選択肢は正しいので除外する必要があります。

e.まず、Jさん自身とじっくり話をする。ベッドサイドで話をする際には、話の内容はもちろんであるが、ベッドサイドに置かれている本や玩具、日用品や写真などについても観察し、必要に応じてその話をしていくことが、本人の生活状況や家族関係、友人関係などを知るうえで重要である。

他選択肢でも述べてきたように、Jさん自身としっかりと話をすることは大切になります。

本選択肢では、その際にJさんの周辺にあるものを話題に出しつつ情報を集めていくことの価値について問うていますね。

まず、本事例のJさんの言動がどういう力動で生じているかは様々な可能性が考えられるので一概には言えません。

ただ、Jさん自身が自分の観念に対して自我違和的な思いを抱いていることなどから、Jさん自身の無自覚な欲求が影響していると見なすのは不自然ではないでしょう(精神分析的な見方ですね)。

そして、こうした無自覚な欲求が働いて何かしらの「症状」が出ている場合、当人がその無自覚な欲求に気づくと自我が揺さぶられるために、気づくことなく「症状」として出しているという見方が大切です。

本事例についても、Jさん自身が気づくと混乱するような思い(例えば、母親への拒否感とか)が背景にあり、それが問題となっている言動として顕在化した可能性があるということですね。

さて、このときのJさんとの関わりとして大切なのが、「気づくと混乱するような思い」であるという認識を持って関わることです。

つまり、こちらが核心を突くような話をしたとしても、それ自体が「気づくと混乱するような思い」なので、より意識できない領域に引っ込んでしまう恐れがあります(こうした不適切なアプローチを、フロイトは「乱暴な分析」と呼んだりしていますね)。

そのため、アプローチとして「ベッドサイドに置かれている本や玩具、日用品や写真などについても観察し、必要に応じてその話をしていく」という手法をとることで、Jさんの話しやすい内容から関係を築くことがしやすくなります。

そして、そういう入りやすいところからの話題から、Jさんの安心感が高まり、支えられている感じを持ってもらうことで、Jさんが「気づくと混乱するような思い」を受け容れるだけの心理的ゆとり・支えが高まっていくことも狙うことができます。

心理的アプローチにおいて、核心を突きたがる人を散見しますがそれは下策です。

料理が濃い味から薄味にできないように、濃いアプローチから薄いアプローチに移行することは不可能です。

まずは軽く・浅いアプローチ(表面的なこと、本人の自我が拒否しないような内容に関わることなど)から入り、そこから本人の状態に合わせて濃い味(当人が認識したくない思い、人格の有様に関わることなど)に移行していくというのが、心理支援のマナーの一つと言えます。

それに「軽く・浅いアプローチ」をしっかりと行っている間に「濃いアプローチ」を実践できる準備がクライエントの内に育っていることも覚えておきたいところです。

本選択肢では「本人の生活状況や家族関係、友人関係などを知るうえで重要」という程度の説明にしており、それも正しいのですが、心理療法の導入としても必要な視点ということにもなります。

以上より、本選択肢は正しいので除外する必要があります。

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