関与しながらの観察

サリヴァンが記述している以外で、関与しながらの観察について記したものは本当に少ないです。
特に実践として役立つものは皆無と言って良いでしょう。
標語のように示している方はおられますが、あまり実践的ではないですね。

唯一(かどうかはわかりませんけど)、神田橋條冶先生が「治療のこころ 第二巻」の中に、関与しながらの観察の実践における感覚を言語化しておられます。
興味のある方はご一読ください。

さて、私自身にとっても関与しながらの観察について語るのは分を超えた行為です。
というわけで、ここではサリヴァンの引用を列挙し、最後に試験にあたっての留意点を示すに留めようと思います。

精神医学的面接からの引用

関与しながらの観察については、サリヴァンの「精神医学的面接」に多くが書かれています。
資格試験の設問と関連がある部分を抜き出しておきます。

「「精神医学とは科学的方法を適用する根拠を有する領域である」とみなされるようになって以来のことであるが、われわれは「精神医学のデータは関与的観察をとおしてのみ獲得できるものである」という結論に達した。目下進行中の対人作戦に巻き込まれないわけには行かないのである。精神科医の主要観察用具はその「自己」である。その人格である。個人としての彼である。また、科学的検討に適合してデータとなりうるものは過程および過程の変化である。これらが生起するところは…観察者と被験者とのあいだに創造される場(situation)においてである」(p19)

純粋に客観的データというものは精神医学にはない。さりとて主観的データとそのままで堂々と通用するものもない。素材を科学的に扱うためには力動態勢や過程や傾向性をベクトル的に加算して力積をつくらなければならない。力積の作成操作を推論という。推論があちこちに飛び、思いがけない形を見せるところに精神医学研究の困難もあり、実用に耐える精神医学的面接の難しさもある」(p19-20)

「精神科医は面接の中で起こる事態のすべてに深く巻き込まれ、そこから逃れられない。精神科医が面接への自らの関与に気づかずそれを意識しない程度がひどいほど、目の前で起こっていることに無知である度合いも大きくなる」(p41)

“客観的”観察のようなものは存在しない。あるのは「関与的観察」だけであり、その場合はきみも関与の重要因子ではないか」(p141)

「ジェスチャーや信号は、現在進行中の問答に関する面接者の考えをあけひろげにみせるものではないかもしれないが、被面接者に対して「面接者が人間である」ことを示唆する役には立つわけで、それで十分患者の支えになる」(p142)

「何を考えているのかの手がかりを全然示さない人、二人でどのようにしてゆくのが良いのかの鍵を全然与えてくれない人に面接を受けて、人生の大事な一面を検討されるとしたらどんなものだろうね?…要するにわれわれは(そんな能面のような人を相手としていたら)誰も自分の安全を感じないのである」(p142)

精神医学は対人関係を研究する学である。対人関係は対人の場においてしか生じない。…対人の場とは二人の人間が互いに関わり合っている場合をいうのであって、この関わり合いを統合と言っている」(p80)

「些細なこと、どうでもよいこと、精神科医を楽しませるための優雅なお世辞、前に聞いたことの繰り返しなどは、話し続ける気を失くさせる技術の腕を振るってもよい。…精神科医は、技法上は質問する必要のないことを尋ねて自分の好奇心を満足させないようにあらかじめ用心しておきなさい」(p57-58)

【2018-44、2018追加-14】

独特な表現に戸惑わないように

上記からもわかるとおり、

  • 主要観察用具はその「自己」である
  • 科学的検討に適合してデータとなりうるもの
  • 力動態勢や過程や傾向性をベクトル的に加算して力積をつくらなければならない
など、他学問用語が使われていたり、心理療法家を「用具」と表現するなどがなされています。
これらの表現に慣れていないと、資格試験問題で示されるサリヴァンに関する表現で恣意的に誤った判断を下してしまう恐れがあります。

上記のような引用箇所だけでも把握し、慣れておくことが肝要です。

ちなみにサリヴァンの訳をしておられる中井久夫先生も、元々はウイルス学からの転向ということもあり、精神医学的現象を物理学等の用語で説明されることがあります。
その辺の類似性も訳を行うにあたり、何かしらの影響があったのかもしれませんね。

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