公認心理師 2022-149

ドリフト理論の背景にある「中和の技術」に関する問題です。

カウンセラーは「支援」と「現実的視点」の両方をバランスよく持ち合わせていることが重要ですね。

問149 16歳の女子A、高校1年生。Aは万引きをし、心配した両親に連れられて、市の教育相談室に来室し、公認心理師Bが面接した。Aは、2週間前に店でペンを1本盗んだことが発覚した。AはBに、「クラスメイトのCが私のペンを欲しがり、誕生日祝いにちょうだいとしつこくせがんできた。Cと気まずくなりたくないし、自分の物をあげるのは嫌だし、買うお金もないので、盗んで渡すしかないと思った。Cのせいで仕方なくやった」と述べた。
 Aの主張について、G. M. SykesとD. Matzaが提唱した中和の技術によって説明する場合、用いられている技術として、最も適切なものを1つ選べ。
① 加害の否定
② 責任の否定
③ 被害者の否定
④ 非難者に対する非難
⑤ より高次な忠誠心への訴え

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解答のポイント

ドリフト理論の背景にある「中和の技術」を理解している。

選択肢の解説

① 加害の否定
② 責任の否定
③ 被害者の否定
④ 非難者に対する非難
⑤ より高次な忠誠心への訴え

非行理論の古典に位置づけられるMatzaの漂流理論(ドリフト理論とも呼ばれる)は、Sykesとの共著論文である「中和化の技術」論を基礎にして、非行・犯罪に関する実証主義的研究への批判として展開されたものです。

マッツァは、少年たちが先行原因によって常に非行を行う存在であるとか、必然的に成人犯罪者になると考えることに批判的であり、非行少年の多くが朝から晩まで非行行動をしているわけでなく、ほとんどの時間は遵法的な行動をしていること、ある年齢になると特に外部から強制されなくとも非行から引退することなどから「彼ら(彼女ら)が非行を行なっている状態は一種の通過儀礼として遵法と違法の境界を漂流していると捉えるべき」だと考えました。

この理論によると、ほとんどの非行少年は合法的な文化を肯定しておりますが、一方で彼らの自由意思により非行を繰り返したとしても、いずれは更生して自らの意志で合法的・遵法的な文化に帰着するとしています。

要するに、非行少年はつねに非合法的な文化に没入しているのではなく、非合法的な文化と合法的な文化のあいだを漂流していると考えるのがドリフト理論になります(本人らに善悪の区別はついているということになりますね)。

先述のように、理論の基礎となっているのは、マッツァがサイクスとともに1957年に提唱した「中和の技術」であり、これによると非行少年は以下の5つの技術を用いて、非行へ向かったことを正当化するとしています。

  1. 責任の否定:自分はある環境に巻き込まれたのであって、自分には責任がないとする。
    「友達に誘われてやっただけ」
    「家族がケンカをしていて面白くなかった」
  2. 加害の否定:これは遊びやふざけであるので、たいしたことではないとする。
    「万引はしたが、店はこのくらいの損失をはじめから計算に入れているんだから問題ない」
  3. 被害者の否定:この攻撃は受けて当然のものであって、相手にこそ責任があるとする。
    「あいつがえこひいきするから殴ったんだ」
    「強制性交の被害者は、実は男を誘ったんだ」
  4. 非難者への非難:こうした行為を非難する者も問題含みであり、非難する資格はないとする。
    「自分はネコババしたけど、警察官がこの前窃盗したじゃないか」
  5. より高度な忠誠心への訴え:忠誠を誓うべき秩序や大義が荒らされているのだから、見逃せないとする。
    「空港を占拠したのは、外国からの侵略を防ぐためである」

ドリフト理論においては、これらの技術によって非行の事実を中和することで、合法的な文化に戻ることが可能となると捉えられます。

さて、これらを踏まえて本事例を見ていきましょう。

「クラスメイトのCが私のペンを欲しがり、誕生日祝いにちょうだいとしつこくせがんできた。Cと気まずくなりたくないし、自分の物をあげるのは嫌だし、買うお金もないので、盗んで渡すしかないと思った。Cのせいで仕方なくやった」という言説が、中和の技術のいずれに該当するかを考えていくわけですね。

こちらは、自分がやりたくなかったけど、Cが欲しがるから仕方なくやったんだという理屈ですから、責任の否定になりますね。

Cのせいにすることで、自身には責任がないんだと述べているわけです。

自身の加害性を否定しているわけでも、被害者の存在を否定しているわけでもありませんし、非難する人を非難してもいませんし、より高次な忠誠心も見受けられませんしね。

以上より、選択肢②が適切と判断でき、選択肢①、選択肢③、選択肢④および選択肢⑤は不適切と判断できます。

余談ですが、こうした「中和の技術」すなわち「言い訳のタイプ」をしっかりと理解しておき、その背景にどういった心理が働いているかを考えておくことは、非常に重要であると思います。

臨床心理士資格試験の過去問の中に「初心のカウンセラーは、受容することよりも対決することに苦手意識を感じやすい」的な選択肢がありましたが(そしてこれは○でした)、それを実感するいくつかの出来事があります。

目の前の人を受け容れることと、目の前の人が行った問題を正しく認識することは矛盾することではありません。

例えば、目の前の人が「責任の否定」という中和の技術を使ったとしても、「行ったのはその人自身である」という前提を崩さずに対応していくとともに、その人が自身の責任に耐えかねて「責任の否定」を用いているという脆弱性をサポートするという視点も欠かさないことが求められます。

カウンセラーはこの後者の立場に傾きやすく、それを組織の中で前面に押し出せば間違いなく「社会性がないな」と評価されることになります。

重要なのはこの両方の視点をそれ以上突き詰めることなく、同居させておける精神性になりますね。

カウンセラーの多くは「処分を下す側」にならないことが多いようですが、その判断をする上での心理的要素について述べる立場である以上、「私は処分を下す側じゃないから、支援の方をやります」というのは面の皮が厚すぎるという印象ですし、周囲からは「良いとこ取り」と思われてしまいます。

…と「処分を下す側」にいたことのある立場としては思うところです。

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