公認心理師 2021-152

事例の状況から見て、場面緘黙と思われる児童への支援に関する問題です。

とりあえず、私の考えている場面緘黙事例への対応を中心に述べておきました。

問152 10歳の女児A、小学4年生。Aは、自己主張の強い姉と弟に挟まれて育ち、家では話すが学校では話さない。医療機関では言語機能に異常はないと診断を受けている。Aは、幼なじみのクラスメイトに対しては仕草や筆談で意思を伝えることができる。しかし、学級には、「嫌なら嫌と言えばいいのに」などと責めたり、話さないことをからかったりする児童もいる。Aへの対応について、担任教師BがスクールカウンセラーCにコンサルテーションを依頼した。
 CのBへの助言として、不適切なものを1つ選べ。
① Aの発言を促す指導は、焦らなくてよいと伝える。
② できるだけAを叱責したり非難したりしないように伝える。
③ Aが話せるのはどのような状況かを理解するように伝える。
④ Aの保護者と連絡を密にし、協力して対応していくように伝える。
⑤ 交流機会を増やすため、Aを幼なじみとは別の班にするように伝える。

解答のポイント

場面緘黙の見立てと対応について理解している。

事例の見立て・選択肢の解説

まず本事例Aに対する見立てを述べておきましょう。

「家では話すが学校では話さない。医療機関では言語機能に異常はないと診断を受けている。Aは、幼なじみのクラスメイトに対しては仕草や筆談で意思を伝えることができる」などとされており、一般的に見て場面緘黙症(選択性緘黙)である可能性が高いですね。

基本としてDSM-5の選択性緘黙の診断基準を確認しておきましょう。


A.他の状況では話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況(例:学校)において、話すことが一貫してできない。

B.その障害が、学業上、職業上の成績、または対人的コミュニケーションを妨げている。

C.その障害の持続期間は、少なくとも1カ月(学校の最初の1カ月だけに限定されない)である。

D.話すことができないことは、その社会状況で要求されている話し言葉の認識、または話すことに関する楽しさが不足していることによるものではない。

E.この障害は、コミュニケーション症(例:小児期発症流暢症)ではうまく説明されず、また自閉スペクトラム症、統合失調症、または他の精神病性障害の経過中にのみ起こるものではない。


本事例の緘黙の持続期間(基準C)は不明ですが、基準A(家では話すが学校では話さない)や基準B(クラスメイトとのやり取りが仕草や筆談、からかわれることがある)に関しては明確に該当することがわかります。

また、基準Dについても「医療機関では言語機能に異常はないと診断を受けている」とありますし、基準Eについての記載はないものの10歳という年齢やその他状況から他の疾患が疑われる情報も見受けられませんね。

これらより、医療機関で診断が付くか否かは我々の範疇外の話ではありますが、やはり事例の状況は選択性緘黙であると見なすのが一番妥当であると言えるでしょう。

さて、本問で大切なのは、選択性緘黙についてどの程度理解があり、それに基づいた対応を取ることができるかということです。

ここでは各選択肢の解説の中で、選択性緘黙に関して私が有しているストーリーを述べつつ、説明していこうと思っています。

① Aの発言を促す指導は、焦らなくてよいと伝える。
② できるだけAを叱責したり非難したりしないように伝える。
⑤ 交流機会を増やすため、Aを幼なじみとは別の班にするように伝える。

選択性緘黙が、どういった状況で生じやすいかは他選択肢に回すとして、本症の基盤となるテーマは「安心感」であると思います。

心理学では昔から「「話す」ためには、子どもにとって最も安心できる状況である母親の乳房から口を「離す」ことができなければならない。よって、「話す」ためには、母親の乳房から口を「離し」たとしても大丈夫なくらい(耐えられるくらい)の安心感が内在化していなければならない」という捉え方があります。

母親の乳房云々はともかくとしても、確かに選択性緘黙の重要なテーマとして「安心感」があるのは臨床に身を置いている者としての実感として有しています。

しかも、その「安心感」は、成人言語水準以前のレベルのものであると考えられます。

フロイト的に言えばエディプス期以前ということになりますが、単純に言語をしっかりと身につけていく3歳より前くらいと考えておいて良いだろうと思います。

クライエントが機能的に問題は無いにも関わらず、言葉を発することができないのは、そうした「成人言語習得以前」の段階の安心感に課題があるためと見なして良いだろうと思います。

余談ですが、緘黙児とのカウンセリングで「筆談」は避けた方が良いです。

もちろん、相手がそれに慣れているなら始めは仕方ないですが、「筆談=文字文化」は成人言語水準に該当するものですから、緘黙児のテーマである「成人言語水準以前の安心感」には届きにくいアプローチになります。

遊びや絵、箱庭など、言語を介さないものを活用しながらの関わりが積極的に選択されるべきです。

こういうことを踏まえれば、支援の大枠での目標は「成人言語習得以前のレベルの安心感を高めていく」ということになります。

ここに大きく寄与していくのが保護者がどう関わるかですが、そちらについては他選択肢で示すので割愛します。

ここで挙げた3つの選択肢は、全て学校で対応可能なものですから、そちらの方から考えていきましょう。

支援の基本として「安心感」とは何かを考えておく必要があります。

「安心感」とは「不安がない状態」ではなく、「その発達段階で出合う平均的な出来事に伴う不安に耐えられる自我を有すること」を指します。

この考え方で言えば、「Aが出会う様々な出来事によって生じる不安を支え、収めていく」ことが支援上重要になりますが、それは家庭が中心にやっていく方が好ましいです。

なぜなら、この年齢の子どもにとって、家庭は「居場所」であって、何があってもそこから離れることのない場所です。

対して、学校はどこまでいっても「外部」であり、その「外部」で過剰に不安に出合うことで、その「外部」すなわち学校に行くことが困難になるという懸念もあります。

つまり、家ならば多少の不安な出来事に出合ったとしても「そこから離れる」という選択肢が生じないのに対し、学校では「学校に行かない」という選択肢が出てくる可能性があるため、必然的に与えられる不安の強度が「家庭>学校」という比重で考えざるを得ません。

このことを念頭に置き、各選択肢の対応を見ていきましょう。

まず選択肢①の「Aの発言を促す指導は、焦らなくてよいと伝える」ですが、発言ができないAに対し、それを促そうとする指導はAを不安な状況に置くということになります。

小学校4年生の段階で、周囲が緘黙状態のAとのやり取りに慣れているということは、それなりの期間、緘黙という状態が続いているものと考えられます。

周囲とのコミュニケーションが緘黙ありきになっている状況において、教員が発言を促すことをするのは、不安喚起としては強くなりすぎる恐れがあります。

とりあえずは、現状のコミュニケーションパターンを尊重し、それを積極的に変えるような関わりは控える方が無難でしょう。

担任が焦る気持ちを持つと、その焦りがAに伝わり(緘黙児は、この辺の雰囲気を察知するのが早いし、やや過剰に受け取ることも多い)、それが更なる不安喚起につながる恐れもあります。

また、選択肢②の「できるだけAを叱責したり非難したりしないように伝える」も同様に必要な対応と言えるでしょう。

話すことができないAに対して、それを否定的に捉える児童がいると不安が喚起され、更に話せなくなるという悪循環になりがちです。

選択肢①でも言えることですが、まずは学校が安全な場として機能し、それを維持させることが重要になります。

ただし、「学級には、「嫌なら嫌と言えばいいのに」などと責めたり、話さないことをからかったりする児童もいる」ということも、Aの状態であれば生じ得る現実であるという冷静な視点も重要になります。

別選択肢で後述しますが、緘黙が遷延する事例の多くで、周囲、特に母親が「転ばぬ先の杖」的な関わりによって、「子どもが不安を感じる可能性があることを、先取りして排除する」というパターンが多く見受けられます。

これは先述の不安の概念を間違えている証拠ですが、こういう関わりを続けていくと「本来、Aが体験し、不安を感じ、それを収めていくことで成長につながる出来事」まで排除してしまうことになります。

もちろん、学校においてAを非難する児童に対して多少の指導は必要でしょう。

しかし、彼らが示す反応も年齢を考えれば無理からぬ面もあります。

つまり、支援者に求められるのは、①学校がAにとって安心できるような場になるよう調整する一方で、②周囲が示す「自然な反応」によってAが受ける心理的衝撃を、どう支援に活かすかも考えていく、ということになるわけです。

決して「Aが不安を感じるものを全排除」という頭で行くと、その事例は遷延化する恐れが出てきますから間違えないようにしたいところです。

続いて、選択肢⑤の「交流機会を増やすため、Aを幼なじみとは別の班にするように伝える」は、不適切な対応と言えます。

先述の通り、Aが多少の不安状況を体験すること、それ自体は「必要悪」と言えるものです。

ただ、その「必要悪」をAが体験する際の条件が1つあり、それは「自然発生的な出来事である」ということです。

これはやや感覚的な物言いですが、場面緘黙症の事例において、彼らが体験し成長につながるような刺激は、すべて「自然発生的」であるという特徴を有しているように思うのです。

先述の「本来、Aが体験し、不安を感じ、それを収めていくことで成長につながる出来事」まで排除してしまう親のパターンは、そうした「自然発生的」な出来事まで排除するという意味で反治療的なわけです。

ただ、本選択肢のように「意図的に不安を与えるようなアプローチ」は、上記と同じかそれ以上に反治療的です。

場面緘黙児は、こうした「意図的に不安を与えるようなアプローチ」の裏にある、支援者側の不安状況に引っ張り出そうとする雰囲気を敏感に察知し、その支援者だけでなく、その支援者が所属する機関、これから出会う支援者に対しても拒否感を持つ恐れがあります。

ですから、選択肢⑤のように、わざわざAの安心できる幼馴染と別の班にして安心感を奪ったり、他児童と交流させて安心感を削るというのは勧められない方針と言えます。

事例の状況では、「安心感を削らないこと」「現在、安心できる状況や人との関係を安定させていくこと」などを学校で目標にして関わっていくことが、まずは優先されます。

その上で、次の選択肢で示すようなアプローチのヒントを見つけ、そこを伸ばしていくことで改善を狙っていくことになります。

とりあえず、学校では発言を促す必要はありませんし、叱責や非難は避けるべきですし、安心感を削るような環境調整は勧められないということになります。

よって、選択肢①および選択肢②は適切と判断でき、除外することになります。

また、選択肢⑤が不適切と判断でき、こちらを選択することになります。

③ Aが話せるのはどのような状況かを理解するように伝える。

さて、本選択肢の解説では、どうやって場面緘黙児が改善していくのか、その大枠での方向性を示しつつ、説明していきましょう。

本選択肢のような「Aが話せるのはどのような状況かを理解する」というのは、言い換えれば、Aが安心感を持てる状況・人などを把握するよう勧めるということになります。

学校場面で見られる場面緘黙児の回復では、そうした「話せる状況」や「それが生じそうな欲求の高まり」が重要になってきます。

例えば、以下のような事例があります(創作ですが、よくある話です)。


ある緘黙児。当初は幼馴染と仕草でのやり取りだけだったが、学年が上がるにつれて、本児の仕草を理解できる同級生が増えてきた。多くの同級生と常に一緒にいるが、本児は話さない。だが、周囲は本児の意思を汲み取ることができているようだった。

ある時、本児がいるグループで「ボイスLINE(声を録音して、相手に送る機能)」が流行った。友達がそれでやり取りしているのを見て、本児も(おそらくは)やりたいと思ったのだと考えられる。ある時、本児がトイレで録音した声を、グループLINEで友人たちに送った。友人たちの反応は、外にいる人間には知る由もないが、それ以降、本児は徐々に友人たちと言葉を交わすようになった。


これは私が体験している多くの事例のエッセンスを一つにまとめたような創作事例になります。

この事例から言えることは、緘黙児の改善が学校で見られる場合、①安心できる友人が存在しており、②その友人たちとのやり取りの中で、本人に内から「より明確・綿密な関わり」を求める欲求の高まりが生じる、③その欲求に突き動かされるように、本人から「安心できる人」に対して言葉が向けられる(多分この際、周囲の友人は大騒ぎしてない。あ、そうなんやーって感じで普通に会話にいつの間にか入っているという感じだと思う。そういう気遣いができないと、緘黙児とは友人になれないのではないか)、という経緯を辿ることが多いです。

選択肢⑤がなぜダメかというと、緘黙児の回復は「本人の内から関わりへの欲求が高まってくること」に従って進むことが重要であり、外部的な力でそれを生じさせることは不可能であるという前提に反するからです。

上記の回復過程を踏まえれば、本選択肢の「Aが話せるのはどのような状況かを理解するように伝える」という助言の重要性が分かると思います。

この助言は、Aが「関わりの欲求を高め得る対象や状況」について把握することを勧めており、その把握ができれば、学校内の調整によってその対象や状況との関係を安定したものにしていき、Aの内から「関わりの欲求の増大」が生じることを間接的に促進できるからです。

もちろん、「不自然」や「不公平」な学校内の調整は厳禁ではありますが、Aにとって安心できる状況や対象を理解しておくことは、実はAの緘黙を脱するためにかなり有効なアプローチであると言えるわけです。

以上より、選択肢③は適切と判断でき、除外することになります。

④ Aの保護者と連絡を密にし、協力して対応していくように伝える。

緘黙児の支援において、保護者とのやり取りは欠かせないものと思っておきましょう。

もちろん、カウンセラーとのやり取り、学校での環境調整を以って、Aに安心できる場の提供は可能になります。

ですが、保護者の関わりによっては、安心感が抜けていくようなことが生じてしまい、こっちで安心感を補充し、あっちで安心感を抜くという、終わりのない事例展開になることもあります。

最も問題になる保護者の対応としては「転ばぬ先の杖」的な関わりによって、「子どもが不安を感じる可能性があることを、先取りして排除する」というパターンです。

これは「安心=その発達段階で出合う平均的な出来事に伴う不安に耐えられる自我を有すること」という前提が崩れており、保護者には「子どもを不安にさせてはならない」という思い込みが強く根付いていることが多いです(後述のように、これには過去の支援者が加担している場合も少なくない)。

この「子どもを不安にさせてはならない」という思い込みによって、子どもは「不安を感じはするものの、きちんとした支えがあれば成長の糧にできるような出来事」からも遠ざけられてしまい、結果として不安に脆弱な状態になってしまいがちです。

こうした保護者のパターンは、子どもが緘黙状態になったことで生じたというよりも、もともとの保護者の不安がちな傾向が強くなったと見る方が自然な気がします。

不安がちな保護者の特徴として、子どもの不安を支え・受けとめるという構えというよりも、一緒になって不安になってしまうという印象を受けます(音叉が2つあって、片方の音叉を震わすと、もう片方の音叉も震えるようなイメージ)。

その傾向が緘黙状態になったことで促進され、親が「これは子どもが不安に感じるだろう」と主観的に判断し、現実を加工・隠匿して不安を感じさせないようにしていることが多いです。

具体的には以下のような感じでしょうか(もちろん、これも創作です)。


ある緘黙児(中学生)の母親。ある日、家族が住んでいるアパートで、上の階から住人が落下する事故が起こった。緘黙児は住人が落下し、地面にぶつかる音も聞いていた。

その時、緘黙児は「何があったの?」と母親に聞くと、事情を知っていた母親は「何もないよ。何か物が落ちただけみたい」と誤魔化した。


こういう出来事があったとき、とっさに「不安を感じないように」というパターンが出現していることがわかります。

本来、こういう出来事があったときには、きちんと出来事を伝え、その時の不安反応も含めて受けとめていく役割が保護者には期待されます。

なぜなら、この手の出来事では戸が立てられないので、いずれ本人にも事実が伝わりますが、その際、「一人でその不安を体験することになる」というのがマズいわけです(支え、受けとめられ、収めていくという対象が目の前にいない)。

こういういずれは避けられない現実であれば、きちんと支える対象としての保護者の前で不安を感じ、それを共有し収めていくことが重要になってきます。

それが、先述の「必要悪」としての「自然発生的な出来事」ということになるのです。

保護者には、こうした役割を担ってもらえるよう、助言と支えが必要になってきます。

私の印象では、場面緘黙児の保護者には「話せばわかる人」が比較的多いように感じます。

ただ、場面緘黙に対して中途半端な理解や、長期展望のない対応(不安を取り除いてあげましょう的な)を過去の支援者から与えられており、それが数年続いているというケースも少なからずあります。

私が出会った、最も無理解・反治療的な助言は「本人が喋れない代わりに、お母さんが喋ってあげましょう」です(子どもの不安が極まっているならわからないでもないけど、それでも、これは限定的なアプローチであること言い添えるのが支援者の倫理である)。

こういう保護者に対して、正しく場面緘黙について説明を行い、これまでの保護者の苦労をねぎらい、本人が経験する「自然発生的な出来事」をどう改善に活用していくかという視点を共有することが必要です。

こういう訳で、保護者と連携することを目指す本選択肢は適切と言えます。

なぜなら、学校が「自然発生的な出来事」を積極的に排除しないのに対して、保護者がその排除を求めてくるようであれば、支援が暗礁に乗り上げる可能性があるからです。

ですから、保護者と連携を取り、その中で見立ての共有と支援の方向性を提示し、それを共有することが回復への常道となります。

カウンセラーも学校も一生懸命やっているのにうまくいっていない事例の多くで、こうした家庭とのベクトルの違いが裏にあって、それがブラックホールのように改善の力を吸い取っていることがありますから、その辺注意しておくことが重要です。

以上より、選択肢④は適切と判断でき、除外することになります。

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