公認心理師 2020-77

学級崩壊しかかっている担任教師へのコンサルテーションの問題です。

私自身がコンサルテーションを行うならこういうことを伝えますよ、という内容です。

問77 24歳の女性A、小学5年生の担任教師。Aの学級は、前任からの担任教師の交代をきっかけに混乱した状態に陥った。Aの学級の複数の児童が、授業中の私語や立ち歩きなどの身勝手な行動をしていた。学級のその他の児童たちは知らん顔で、学習にはある程度取り組むものの、白けた雰囲気であった。Aは学級を立て直したいが、どうすればよいか分からない。

スクールカウンセラーがAに対してこの学級についてのコンサルテーションを行う際に、重視すべき事項として、適切なものを2つ選べ。

① 保護者の意見

② 児童の家庭環境

③ 個々の児童の学力

④ 学級のルールの定着

⑤ 教師と児童の人間関係

解答のポイント

学級におけるルールと人間関係の繋がりを理解していること。

学校に属する人間の責任で行うべきことを自覚できていること。

選択肢の解説

① 保護者の意見

教育において、この状況では「保護者の意見を最初に重視すべきではない」ということがわかっていることが何よりも大切です。

まず「前任からの担任教師の交代をきっかけに混乱した状態に陥った」というこの状況において、保護者を含め多くの人が担任の交代によって現状が生じていると見なすのが自然です。

この状況で「保護者の意見」を重視するという姿勢は、各家庭に配慮しているように見えて、実は責任を放棄していると捉えることもできます。

「前任からの担任教師の交代をきっかけに混乱した状態に陥った」「複数の児童が、授業中の私語や立ち歩きなどの身勝手な行動をしていた」「学級のその他の児童たちは知らん顔で、学習にはある程度取り組むものの、白けた雰囲気であった」ということから鑑みて、まずは担任のやり方に関して何かしらの修正を加えようとするのが「学校の責任」です。

「学校の責任」と表現したのは「本状況の対応は、まずは学校に要因があることを自覚、その上で学校が主体的に対応すべき」という明確な認識をもっておくことが重要だからです。

これは学校に限らずですが、それぞれの職域において「自らの責任の範囲」を自覚しておくことが重要です。

本事例の状況で、まず「保護者の意見」を重視するということは、学校が「自らの責任の範囲」を見誤り、その責任を保護者に委ねてしまっていると見ることもできるのです。

保護者の意見を聞けば、その通りに動かざるを得なくなりますが、それでうまくいかなかったときに責任の所在が難しくなります。

まずは学校として、現状の把握と分析を行い、学校としてできることを第一に考えていくという姿勢が何より重要で、それに反する対応を採れば「学校にはこの事態を収拾する力が無い」ということを吐露するようなものなのです。

そうなれば、現在の児童たちの混乱は収拾することはありませんし、保護者の内にも「子どもたちがこうなってしまうのは仕方ない」という諦観を招くことになりかねませんし、そうなれば更に混乱が激しくなることも覚悟せねばなりません。

「責任の自覚」と「責任の範囲で動くこと」は、時にとても厳しいものです。

この事例の場合、24歳というおそらくは新任に近いであろう教員Aにとって厳しい試練となることでしょう。

だからこそ、SCを含めた学校全体で担任Aができること、現状を変えていくやり方について考え、担任Aが担任としてこの状況を収拾するのを支えていくことが重要です。

以上より、選択肢①は不適切と判断できます。

② 児童の家庭環境
③ 個々の児童の学力

これらの選択肢も、選択肢①と同様「学校以外の要因」に帰しているという点では同じですね。

もちろん「児童の家庭環境」が学級の落ち着かなさに影響を与えることは十分にあり得ますし、「個々の児童の学力」も学びの難易度が上がっている5年生という状況を踏まえれば、理解が追い付かない児童から落ち着かなくなることも考えられます(「複数の児童が、授業中の私語や立ち歩きなどの身勝手な行動をしていた」という点はそれによって生じることも多いですね)。

「前任からの担任教師の交代をきっかけに混乱した状態に陥った」ということも、自我が出始める5年生だからこそ生じた問題であるという、児童の発達と絡ませて考えることもできなくはありません。

しかしながら、「学級のその他の児童たちは知らん顔で、学習にはある程度取り組むものの、白けた雰囲気であった」という、他児童の我関せずという在り様は、端的に学級運営がうまくいってないために生じていると見なすのが自然です。

例えば、「児童の家庭環境」や「個々の児童の学力」に問題があり、数名の児童が授業中に私語をしたり立ち歩くなどの身勝手な行動を取ったとしても、それ以外の児童が彼らに対して「不適切なことをしている」という認識を持っているのが自然であり、そんな彼らの認識を支える大人の存在があれば、学級がここまで崩れることはありません。

たとえ教員が強く叱るといった強力な対応を採ったとしても「それは叱られても仕方ないわ」と多くの児童が認識してくれれば、結果として学級が崩れることは無いのです。

「学級のその他の児童たちは知らん顔で、学習にはある程度取り組むものの、白けた雰囲気であった」という状態を、先に「我関せず」と表現しました。

これはきちんと良心や規律をもっている子どもに生じる反応の一つです。

担任や学校に、この現状を変えることができないという諦観が子どもたちにあり、彼らは内に育ててきた良心や規律の大切さと、それを平気で損われている状況との間で苦しい胸中が生じます。

こうした状況で、少しでも自らの内面を守るために「我関せず」という白けた雰囲気になってしまうのです。

また、小学校5年生という年齢を踏まえれば、自身の良心や規律よりも、それらからの開放を選択する児童も少なからずいるでしょう。

こうした徐々に学級が崩れている状況に大人たちが歯止めをかけられなかったという事実が、子どもたちの諦観を交えた「白けた雰囲気」を生むという見方もできます。

いずれにせよ、「児童の家庭環境」「個々の児童の学力」に課題があった場合でも、ここまで学級が崩れた状態になるのは、担任の対応に課題があったからに他なりません。

もちろん担任だけの問題ではなく、この学級が前年度まで何も問題がなかったのであれば(だからこそ新任に近い教員を担任にした可能性がある)、学級の状態が悪化していく途中でストップをかけることができなかった学校にも課題があると言えます。

以上より、選択肢②および選択肢③は不適切と判断できます。

④ 学級のルールの定着
⑤ 教師と児童の人間関係

ここで挙げた選択肢は、別々のものではありませんから同時に説明していきます。

また、ここで挙げられているは「現状を立て直す」という点でも重要ですが、同時に担任Aが年度当初から重視すべき事項であるとも言えます。

まず学級にはルールが必要です。

児童たちは幼いほどルールを窮屈と感じ「自由」に振る舞いたがりますが、自由とは「心の中にルールをもつ者だけが扱える代物」であるという認識が大切です。

この「心の中にルールを持つ」とはどういうことかをまずは考えておきましょう。

私は子どもが乳児だった頃、高熱を出したので車で病院まで行ったことがありました。

この際、緊急ということで赤信号でもアクセルを踏んだのですが、このときに身体が重く感じたことを覚えています。

これは「赤信号ではアクセルを踏んではいけない」というルールが自分の心の中に根付いていたからです。

このように「心の中にルールを持つ」とは、ほとんど生理的なものであり、その生理的な感覚に基づいて自分の行動をセーブすることを指します。

そして、このような「心の中のルールを持つ」状態に至るまでには、そのルールを「守ってきた」という歴史が必要です。

平気でルールを破ってよい環境があれば、そのルールは生理的に根付くことはありません。

そして学級に定められているルールとは、「多くの児童がそのルールに基づいて振る舞うことで、今よりも良い学級になる」というものであり、これは道徳心や倫理観に基づいて構築される類のものです(社会的な道徳心や倫理観は「それを守る人が多くなることで、今よりも良い社会になる」という考え方や行動のことだと私は見なしています)。

ですから、学級にはルールの設定と定着が欠かすことはできません。

しかし、先述のように児童はまだその年齢ゆえの未熟さから、そのルールの価値を正確に認識することはできませんから(その価値を認識できる頃(生理的に根付いた頃)には、そのルールが不要になるという構造的矛盾があるので)、それを守らせるように働きかける守り手が必要であり、それが担任の役割でもあります。

もちろん、それは担任だけではなく、生徒指導担当や管理職、その他の教員も同様に役割を担うことになります。

もしも担任が「好きにさせてあげること」が最も児童の成長に大切であると考え、上記のようなルールの価値を過小評価していたならば、それ自体が学級の綻びとなり、そこから大きく崩れていくことになります。

場合によっては、児童たちとの「人間関係を構築する」という意識でルールよりも子どもたちの「自由」を許容していることもあり得ます。

そのような担任の姿は、学級のルールよりも個々人の好き好きを優先するということであり、児童たちを尊重しているようで客観的には「迎合している」だけであり、児童たちの一時の感情によってルールが歪められる日常になり、当然担任との人間関係も深まることはありません。

その結果、児童たちはルールよりも自身の感情が大切であるという認識を学び、それに従って授業中であっても本事例のように「私語や立ち歩きなどの身勝手な行動」をとるようになっていきます。

こうした状況にならないよう、担任は自身の倫理観と道徳心に基づいた「担任が生理的に持ち合わせている学級のルール」で学級を運営していくことが求められます。

このルールの中には言語化できるものからそうでないものまで様々ですが、とりあえず事例の状況では、全体に対して「立ち歩かない」「授業中に私語をしない」ということの大切さを伝えていくことが重要です。

立ち歩いている児童以外の、傍観者になっている児童たちのことも踏まえると、担任が個別に面接を行い、各児童の現状に対する思いと担任がこれから必要と感じている学級のルールを伝えていくという方法もあるかもしれません。

ただし、「伝えていく」といっても「勉強できないと中学に行って困るから」などと損得と結び付けた伝え方には効果が薄いです。

こうしたルールを設定することの大切さについて「情理を尽くして」「先生がそのルールが大切と思う心の流れをつまびらかにしつつ」そして「反論も含めてやり取りする」ことが大切です。

「反論を含めてやり取りする」のは、担任の示すルールに従わないならクラスの一員として認めないという雰囲気を出さないためにも大切なことであり、それ自体が児童との大切な人間関係とも言えます。

正直、こうしたやり取りをするときに定式は無いように私は感じており、結局はその先生の人間性が見えてないと意味がないんだろうなどと考えたりしてしまいます。

ですが、こうしたやり取りにきちんと反応してくれる子どもがいるのは事実であり、そこからやっと児童たちとの「人間関係」の構築が始まるのです。

おそらくは、上記のように「情理を尽くして」「先生がそのルールが大切と思う心の流れをつまびらかにしつつ」そして「反論も含めてやり取り」したとしても、事例にある「授業中の私語や立ち歩きなどの身勝手な行動」をしている複数の児童の変化は芳しくないでしょう。

それは意味がないという話ではなく、まず変化するのは彼らではなく、その周囲にいる良心と規律を大切にしている児童です。

彼らが大切にしている良心と規律を重視する担任の姿は、彼らの静かな変化をもたらしますし、それは近くにいる担任なら気づけるはずのものです。

そして、彼らの変化に細やかに気づき、声をかけ、その変化に感謝の気持ちをにじませながら適切な評価を伝えることができれば、徐々に担任との人間関係を大切に思う児童も増えてくるはずです。

こうして担任と人間関係を結ぶ児童が増えてくれば、「授業中の私語や立ち歩きなどの身勝手な行動」をしている複数の児童に関して、別の見立てが可能になってきます。

すなわち、多くの児童が落ち着いている環境なのに、落ち着くことが難しいわけですから、教室という環境以外の要因(家族関係や学力など)を見ていくことを検討できるのです。

このように、本問で挙げられている他の選択肢も、実はこういう流れで検討すべき事項なのです。

上記が「学級のルールの定着」と「教師と児童の人間関係」が重要であり、また、これらが両立する流れです。

教育に携わる人は、ルールと人間関係が両立することを理解しておくことが大切です。

よく親しくなると目上でもタメ口になる人がいますが、これはルールと人間関係が両立することを理解していない証拠で、適切な人間関係とは「ルールの中に親しみを込める」ものであることを知っておきましょう。

この事例に対して、SCとしてグループエンカウンターなどを入れることでサポートすることもあり得るのでしょうが、結局は担任が勝負するしかない世界だろうと思います。

以上より、選択肢④および選択肢⑤が適切と判断できます。

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