分離不安

分離不安は不安障害群の一つに挙げられています。
過去問での直接的な出題はなく、除外される選択肢として挙げられた程度です。

そのいずれも(2018追加-64および2018追加-146)が、DSMやICDのような診断基準を把握することよりも、事例の中で分離不安であるかどうかを判断させるものでした。
分離不安は、医療で会うこともあるでしょうが、その問題の表出の主は学校になります。
以下では、学校で出会う分離不安を示す子どもの特徴等を交えて、その支援の方針について述べていきます。

分離不安とはどのような問題なのか

「臨床家が見通しと計画とをもって治療を進めていくためには、ひとつの物語を必要とする。その「やまい」のなりたち、本性、治癒の道筋などを含むとりあえずつじつまのあうストーリーである」
これは神田橋條冶先生の言葉です。

我々臨床家は、自分が臨床実践で関わる問題に対して、何かしらの「物語」をこしらえる必要があります。
それは単なる決めつけ、偏見、規制、不自由になるものではなく、多少の曖昧さと柔軟さを含んだ、支援を行う上での羅針盤のようなものです。
以下では、私なりに分離不安という現象について説明していきます。

絆の形成

生後しばらくたつと、それまでは母親と常に一緒にいて外界を母親と体験してきた子どもが、自らの力で外界に関わるようになっていきます。
そういう身体的能力と、精神的能力(興味関心など)が生じてくる。
それは「自分の一部」だった母親が、そうでないと認識することとも関連があります(この辺は甘え理論に関する説明を読めば理解できるかもしれません)。
すなわち、母親と自分が「別の生き物」であることがわかってくるわけですね。

さて、発達が進むにつれて、自らの力で外界と関わることができるくらい身体的能力が向上し、更に興味・関心も高まってきます。
子どもが初めて外界と関わろうとするわけですが、この際、ある程度の不安が生じます。
それまで一心同体だった母親から離れることに種々の不安を覚えるのが自然ですね。

だから、以下のような現象が見られやすくなります。

  • ちょっと離れては振り返り、母親の表情を確認する。優しく微笑んでいると安心して動き出す。
  • やっぱり不安になってくっついてくる。しばらくくっついたら、再び外界に向けて動き出そうとする。
  • 何となく不安なのか、毛布やタオルを持ち歩きながら母親から離れる(いわゆる移行対象、ですね)。
これらの行動は、彼らが分離の痛みを感じている証拠であり、それ自体は健康的な反応と言えるでしょう。
そして、こうした行動の繰り返しによって形成されるのが「人と人との絆」です。
というよりも、これに類するような他者との関わりが「絆の原型」と言えます。
こうやって、人は人との絆を形成し、深めていくのです。
では、こういう繰り返しによって何が生じるのかを考えていきましょう。

同行二人

お遍路さんの服や編み笠に「同行二人」と書いてあるのを見たことがありますか?
たった一人で歩いていても「同行二人」なんです。
あれは「弘法大師と常にともにある」という意味があります。

前記の「絆の形成」によって生じるのは、こうした「同行二人」の世界です。
母親のような重要な他者との「絆の形成」によって、お遍路さんが自分の内に空海が居るように感じるのと同じで、母親が自分の内側に居るようになっていくのです。
有体に言えば「こころの中にお母さんがいる」という状態になるということです。

これを精神分析では内的対象と呼んだりします。
もちろん、内的対象が「ある程度」良いものであることが、精神的健康において重要になるとされていますね。

分離不安では、こうした「同行二人」の世界が何らかの理由で生じにくくなっていると考えます。
不安の感じやすさ、不安を抱える力にはある程度の個人差があるので、常に環境要因が大きいとは言えないでしょうけど、やはりほんの小さい頃からどのような分離体験、絆の形成の過程を歩んできたかは大切な事でしょう。

私は近年見られるようなスマホを見せる、動画を見せることで乳幼児を大人しくさせることには明確に反対しています。
本来、その瞬間は周囲の大人、特に母親や父親とのやり取りが生じるはずだった瞬間のはずです。
それが生じないということは、「やり・とり」の世界が非常に少ないという結果を生み、それは子どもたちの精神的地盤の緩さをもたらします。

「絆の形成」を通して「同行二人」の世界を育んでいくためには、こうした「やり・とり」の積み重ねが欠かせません。

勘違いされることが多いのですが、重要なのは「やり・とり」があることです。
「楽しく」とか「笑って」などという点に限定することはないのです。
もちろん、怒られたり、抑え込まれたりということばかりではダメですが、そういうネガティブな体験も大切です。
むしろ「躾」をすること、その中で生じる子どもの不快感情を受けとめ、抱えることが子どもの精神的発達に非常に大切になります。

要は、手を掛けさせる体験をたくさん積むことが重要ということです。
きょうだいで、手がかかってどうしようもなかった兄は大人になってしっかりと元気に社会生活を営めているのに、しっかり者で両親とともに兄の面倒をみていた妹はなぜか元気がない、ということもよく見られます。
これは、「手が掛かった兄」と「手を掛けさせなかった妹」という枠組みで見るとわかりやすいかもしれないですね。

躾について、ルールについて、その人を守るということについて

具体的な支援に移る前に、精神的支援において重要な「安全な場所」について考えておきましょう。
九州大学系、特に学生相談の領域でよく使われる概念として「居場所」があります。

私自身、ある大学の学生相談室長として奉職していた際、そういう「居場所」について考える時期がありました。
そこで確信しているのが、「好きに使っていい場所」「自由にできる場所」が居場所になるわけではないということです。

例えば、フリースペースを提供すれば、そこに学生が集まるかというとNoです。
大切なのは以下の条件が整っていることです。

  • 普段すごしている状況よりも緩い場所であること。
  • 誰かがその場所を守っていること。
  • その場所の枠組みを軽々には変えないこと。

この辺は居場所論で示されているかどうかも知りません(別にその辺の論文等は読んでいないので)けど、私の実感としてはこれらが大切です。
特に2つ目の、誰かがその場所を守っていることが大切になります。

それはどんなに緩くても、その場所には「ルール」があるということです。
それは紙に張り出されるようなルールではなく、守り手の身体感覚・内的感覚から発されたルールです。
困った振る舞いをされると「なんか気持ちがわるい」と感じ、それをもとに抑制していく中で形作られた枠組みです。

そもそもルールとは何なのか。
それは、幼児が横断歩道を赤信号で飛び出そうとするときに掴まえる手と同じです。
つまり「その者には、まだ枠組みを守る身体的・精神的能力が備わっていないから、それを外部にいる守り手が代わりに行う」ということです。
赤信号をわたってはいけないということが理解できないので、それができるようになるまで、こちらが専制的にそれを行うということ。

そのように考えると、ルールを作ること、躾を行うこと、そしてその人を守ることは地続きであることが理解できるかと思います。
だから「躾」の中で叱る事も大切なのです(ただし「躾」は怒ること、責めることとは違いますよ)。

支援について

さて、上記を踏まえて分離不安への支援を考えていきましょう。
一応、以下の支援の方針については、分離不安を生じさせやすい小学校1年生前後をイメージして述べていきます。
当然ですが、分離不安を示す子どもたちは学校に行きたくないという現われ方を並行して示すので、その辺の対応も含めて。

【五感を使うような甘え】
まず支援を行う者として、そして日本で支援を行う者として、土居健郎先生の「甘え」についてはしっかりと理解しておきたいところです。
それを理解せずに「甘えさせましょう」などと助言するのは、非常に無責任な行為です。
斎藤環先生が述べておられますが、ひきこもり事例に身体接触などを促すのは良くない結果をもたらしがちです。
甘えという概念を活用するならば、どういう事例にならば甘えを促して良いのか、その見極めができることが支援者として求められる力になります。

土居先生が明示しておられる甘えの定義は「人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」です。
こちらは「「甘え」理論再考-竹友安彦氏の批判に答える」で明確にされています。
この論文自体が、他者と議論すること、批判的に議論するということのお手本と言えるくらい素晴らしいものです。
この定義からもわかるとおり、実は絆の形成の過程自体が、甘えという体験と並行していることが見て取れます。

分離不安の支援において、特に幼い子どもの支援において、甘えの受け容れは重要になります。
ピアジェの理論の感覚運動期では外界を感覚器を通して把握していくように、幼い子どもが重要な他者との「絆の形成」を行っていく上では、感覚器を通して甘えることが大切になります。
例えば、肌に触れ、においをかぐような甘え方です。
上記の同行二人の世界は、対話などのやり取りに先んじて、こうした触れ合いの中で形成される面が大きいと思われます。

さて、甘えをテーマにする場合、それをどうやって引き出すかが重要になります。
この辺の知見は、書籍等でほとんど示されていないと感じますので、私自身が実践していてうまくいくことが多いものを列挙していきます。

  • 保護者の中には「この子は甘えてきません」という人もいるが、それは保護者が引いている甘えの受け容れラインを子どもが読み取って遠慮してあげているだけ。保護者が「この子は甘えたいけど遠慮しているのかも」「甘えてくるかもしれない」と認識しながら過ごすだけで、ほとんどの子どもに甘えの表出が生じてくる。
  • 保護者の方から猫なで声で、赤ちゃん扱いして「甘えにいく」のではない。そうすると実は、子どもが親を「甘えさせてあげている」という構図になってしまう。甘えは植物に水をあげるのに似て、「欲しいときにあげる」ことが重要になる。幸いにして、植物と違って子どもは自分が甘えたいときに近づいてきてくれる。
  • 特に母親が「何もしていない時間を作ること」が重要になる。スマホをいじっているのはダメ。ただぼーっとテレビを見ているなどのときに、子どもが寄ってくることが大切で、そのときの子どもの表現に合わせて対応することが重要になる。
    父親の出番は、ここで家事などを引き受け、母親がぼーっとする時間を作ること。
  • 何かしらの要求に対しては、その要求通りにすることが甘えの受け容れになるのではない。イメージとして、要求というお皿の上に、甘えという感情を載せていると考える。大切なのは甘えを受け取ることであり、要求というお皿は返しても良い。それを同時に行う方法は「困りながら断ること」になる。困りながら、というところにすでに甘えを受け容れるという働きがある。

これらが甘えを引き出す具体的方針となります。
こういう方法を通して甘えを引き出し、それを受け容れていくことが大切になります。
一緒に寝ていなかった子どもが、一緒に寝たいと言い出すなどは幼い分離不安を背景とした事例では、たいていは良い傾向ですね。

【不安な状態に対する支援】
上記の支援法については、家庭内で行うことが多いものになります。
これに対して、学校でできることも考えていきたいところです。
分離不安が生じやすいというか、困った事態として現れやすいのは学校内ですからね。
ただし、以下で示すのは家庭内でも意識しておいた方が良い事柄になります。

まず、不安がるからといって「学校に行かなくていい」という類の方向づけは厳禁です。
そもそも不登校臨床において「学校に行かなくていい」「学校なんて価値が無いよ」などと伝えることは、長い目で見て確実にマイナスになります。

これは「学校に無理やり行かせる」ということとも違います。
そもそも「学校に行け」も「学校に行かなくていい」も、方向づけという視点で見れば同じであり、いずれも当人の主体性を尊重していないと言えます。
どうしても行けない瞬間というのもあるでしょうし、親の仕事の都合でどうしても学校にいてもらわないといけない瞬間もあるでしょう(特に小学校低学年の子どもだと、一人で家に居させるわけにいかないことも多い)。
その辺を葛藤しつつ、結果として学校にいる、いないということが生じるのみです。

さて、わざわざ「学校に行かなくていい」なんて告げなくてよい他の理由として、絆の形成の部分でも触れましたが、絆の形成は安全な場所から離れるという不安と抱き合わせで形成されていくものであり「不安を消す」という対応で絆の形成は生じません。

といっても、分離に伴う不安が強くなっているから「分離不安」と呼ばれるわけです。
どのような対応が考えられるのか、列挙していきましょう。

  1. 不安場面に安心できる対象が居ること
  2. 安全基地を中心に活動すること
  3. 不安場面に安心を挿入すること
  4. 不安な状態が有限であることを示すこと
  5. こころの中で安心できる対象のことを感じさせ続ける工夫をすること

これらが考えられます。
以下に詳しく説明していきましょう。

第1項の「不安場面に安心できる対象が居ること」は、具体的には母親が教室の後ろで控えるという対応が該当します。
この際、どんなに子どもが平気そうでも決して勝手にいなくならないこと、離れても良いときは教えてほしいと一度だけ伝えることはあり得ること、母親が保健室などの別室に控えるという対応もアリなこと、などが重要になります。
ただし注意も必要で、それは「母親の方が離れられない場合」です。
こういう場合は、分離不安の顔をした別の問題、とも考えられます。

第2項の「安全基地を中心に活動すること」は、例えば、保健室にランドセルをおいて休み時間のたびに帰ってきて、そこから再び教室に向かうような対応です。
特に最初はこれを許容することは悪くないでしょう。
一方で、やはりそれが難しい場面があります。
例えば、インフルエンザが流行っている時など。
むしろ、そういう「どうしようもない状況の力」「偶然の力」を良い機会と捉え、残念だけど今日はここにランドセル置いとけないからといった態度で本人とやり取りするのが良いでしょう。

第3項の「不安場面に安心を挿入すること」とは、昼休みに母親の携帯電話に連絡して、会話をすることで安心感を高めるというやり方です。
このやり方の一つに移行対象を活用するという方法もあります。
例えば、母親のハンカチといった持ち物をもって学校で過ごすということです。
最近は子どもたちにタオルをもたせることも多いので、母親のタオルをもたせることもアリでしょう。
ただ、こういう移行対象については「子どもの側から欲しがる」ことが重要なようです。
こちらから与えても「母親から離れるのが嫌なのに、そんなもので誤魔化そうとしないで!」ということになってしまいます。

第4項の「不安な状態が有限であることを示すこと」とは、例えば、迎えに来る時間をしっかりと約束するなどの対応を指します。
そうすることによって「不安な時間には終わりが来る」「母親という安心できる対象と、また会うことができる」という長期展望による安心感を育みます。
これは家でもできる対応ですから、子どもをおいて出かけるときには「○時には帰ってくるね」と伝え、遅れそうならば事前に連絡してあげましょう。
特に出かけたときに、頻繁に「何時に帰ってくる?」と聞いてくるような子どもには実践してあげてマイナスはありません。
もちろんですが、迎えに来る時間を意図的に遅れて「長く学校にいさせよう」とするのは厳禁です。
約束を守ることで安定した人物として重要な他者が機能することが大切です。

第5項の「こころの中で安心できる対象のことを感じさせ続ける工夫をすること」は、第4項と絡みながら生じることになります(大切なことなので分けて論じていますが)。
例えば、帰ってくる時間や迎えに来る時間を伝えることで、不安な状態のときに「母親のことを考え、待ち続ける」ということが生じます。
これは、安心できる対象のことを考え続けることであり、実は同行二人の世界を作る工夫となります。
デートでも、時間に遅れていろいろ心配しながら待っていて、やっと来たらホッとしますよね。
あんな感じが大切なんです。

以上が私なりの分離不安に関する物語であり、それに基づく支援の例となります。
現実はもっと複雑で、その場でのアイデアをもって対応していくことになりますが、基盤としてある程度の物語をもっておくと大きくは混乱せずに済みます。
ただし、「分離不安に見える他の問題」もかなりあるので、その辺の見極めができることが求められますが。
さて、以下には診断基準を述べていきましょう。

DSM-5における診断基準

A.愛着をもっている人物からの分離に対する、発達的に不適切で、過剰な恐怖または不安で、以下のうち少なくとも3つの証拠がある。

  1. 家または愛着をもっている重要な人物からの分離が、予測される、または経験される時の反復的で過剰な苦痛
  2. 愛着をもっている重要な人物を失うかもしれない、または、その人に病気、負傷、災害、または死など、危険が及ぶかもしれない、という持続的で過剰な心配
  3. 愛着をもっている人物から分離される、運の悪い出来事(例:迷子になる、融解される、事故に遭う、病気になる)を経験するという持続的で過剰な心配
  4. 分離への恐怖のために、家から離れ、学校、仕事、または、その他の場所へ出掛けることについての、持続的な抵抗または拒否
  5. 1人でいること、または愛着をもっている重要な人物がいないで、家または他の状況で過ごすことへの、持続的な抵抗または拒否
  6. 家を離れて寝る、または、愛着をもっている重要な人物の近くにいないで就寝することへの持続的な抵抗または拒否
  7. 分離を主題とした悪夢の反復
  8. 愛着をもっている重要な人物から分離される、または、予期される時の、反復する身体症状の訴え(例:頭痛、腹痛、嘔気、嘔吐)

B. その恐怖、不安、または回避は、子どもや青年では少なくとも4週間、成人では典型的に6カ月以上持続する。

C. その障害は、臨床的に意味のある苦痛、または社会的、学業的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。

D. その障害は、例えば、自閉スペクトラム症における変化への過剰な抵抗のために家を離れることの拒否;精神病性障害における分離に関する妄想または幻覚;広場恐怖症における信頼する仲間なしで外出することの拒否;全般不安症における不健康または他の害が重要な他者にふりかかる心配;または、病気不安症における疾病に罹患することへの懸念のように、他の精神疾患によってはうまく説明されない。

ICD-10における診断基準

診断の鍵となるのは、愛着の対象(通常両親あるいは他の家族成員)から別れることを中心とした過度 の不安であり、さまざまな状況に関する全般的な不安の単なる一部分ではない。この不安は次のような 形をとりうる。

  1. 強く愛着をもっている人に災難がふりかかるという非現実的な、現実離れした心配に心を奪われる。あるいは彼らが去って戻らないだろうという恐れ。
  2. 迷子、誘拐、入院、あるいは殺されるという災難によって、強く愛着をもっている人から引き離されてしまうという非現実的な心配に心を奪われること。
  3. 分離の恐れのために、(学校での出来事を恐れるというような他の理由からでなく)登校を嫌がり、あるいは拒否し続けること。
  4. 強く愛着をもっている人が近くか隣にいなければ、眠るのを嫌がり、あるいは拒否し続けること。
  5. 1人で家にいること、あるいは強く愛着をもっている人なしで家にいることへの持続的で度の過ぎた恐れ。
  6. 分離に関する悪夢を繰り返す。
  7. 身体症状(悪心、胃痛、頭痛、嘔吐などの)が、強く愛着をもっている人からの分離をともなう状況の際に繰り返し起こること。例えば家を離れて学校に行く場合。
  8. 強く愛着をもっている人からの分離を予想した時、その最中、あるいはその直後に、過度の悲嘆を繰り返すこと(不安、泣くこと、癇癪、みじめさ、無感情、あるいは社会的引きこもりとして現れる)。

分離を伴う状況の多くはまた、他の潜在的なストレスや不安の原因を含んでいる。
この診断では、不安を生み出すさまざまな状況に共通する要素が、強く愛着をもっている人からの分離という事情であることを示さなければならない。
これは最もふつうには、おそらく登校拒否(あるいは「恐怖症」)と関連して現れる。

登校拒否はしばしば分離不安の現れだが、時には(とくに青年期に)そうでないことがある。
青年期に登校拒否がはじめて起きた場合は、最初に分離不安が作用しており、そしてその不安が、最初に就学以前から明らかに異常であった場合を除いて、ここに分類すべきでない。

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