公認心理師 2021-47

公認心理師の基本的なコンピテンシーに関する問題です。

現任者講習会テキストを持っている人は、かなり解きやすい問題だったでしょうね(読んでなくても解きやすいけど)。

問47 公認心理師の基本的なコンピテンシーについて、最も適切なものを1つ選べ。
① 科学的な知見を参考にしつつも、直観を優先して判断する。
② 要支援者への関わり方や対応の在り方を自ら振り返って検討する。
③ 普遍的な視点に立ち、文化的背景を考慮せず、要支援者を同様に扱う。
④ 専門職としての知識と技術をもとに、最低限の実践ができるようになってから職業倫理を学ぶ。

解答のポイント

認心理師現任者講習会テキストにも取り上げられている「コンピテンシーモデル」を把握している。

必要な知識・選択肢の解説

本問は公認心理師現任者講習会テキストにも取り上げられている「コンピテンシーモデル」からの出題となっております。

以下では、この内容について述べ、その上で選択肢の解説に入っていきましょう(このテキスト、毎年少しずつ値上がりしてますね。ページ数の増加に伴ってでしょうか…)。

コンピテンシー(Competency)とは、専門職業人がある状況で専門職業人として業務を行う能力であり、そこには知識や技術の統合に加えて倫理感や態度も求められます。

これは、もって生まれた能力ではなく、学習により修得し、第三者が測定可能な能力とされています。

なお、コンピテンシーは地域や文化によって異なるので、日本の文化に即したコンピテンシーを理解しておくことが重要です。

従来のカウンセリング訓練ではどの科目を何時間勉強したかといったカリキュラム重視という批判がありましたが、公認心理師では訓練を受けた結果「どのような知識や技能を身につけたか」というコンピテンシーに重きを置いているという流れだと思います。

個人的には、公認心理師のカリキュラムの方が「ガッチガチ」に固められていて、教育する方の自由度が極端に少ないという印象です。

実は、この「教育する側の自由度」ってものすごく大切なことで、これがある程度ないと、教育する側の「このことはどうしても伝えておかねばならない」という切迫したニーズを伝える力が減ってしまいます。

たぶん、上の方は「どうしても伝えておかねばならない」ということをカリキュラム化しています、という言い分なのでしょうが、それは失敗に終わるでしょう。

教育ってそういうものではないし(そういうものではないという理由を述べると終わらないのでここまでにします)、金太郎飴みたいに同じような教育を受けた支援者ばかりを育成しても、人間という多様な側面を持つ対象に常に対応できるとは思えないのです。

さて、話をコンピテンシーに戻しましょう。

心理職のコンピテンシーには、以下から構成される立体的モデルが示されています。

公認心理師現任者講習テキストにあるのは、これの日本語訳なので、ちょっと違う部分もあります。

【基盤コンピテンシー:基本的な姿勢のようなイメージ。図形の上部分】

  1. 専門家としての姿勢:心理職の価値観と倫理に基づく言動
  2. 反省的実践:自己の言動を振り返り、他者に対する自己の影響の認識や、自らを評価する
  3. 科学的知識と方法:科学的な研究から得られた知識を尊重し、効果的に応用する。
  4. 治療関係:個人やグループ、共同体と効果的に意味のあるやり方で関係を作る。
  5. 文化的ダイバーシティ:様々な価値、文化的背景などをもつ個人、集団に対する敏感さと配慮
  6. 他職種協働:他の専門家と効果的に協働作業ができる。
  7. 倫理・法的基準と政策:倫理的概念や法に関する知識を個人や集団に対して適用できる

【機能コンピテンシー:専門的な技能を指す。図形の正面部分】

  1. 心理的アセスメント:客観的な心理アセスメントと解釈、手法の理解と活用
  2. 介入:クライエントの特徴にあった介入計画、知識とスキル、成果の評価
  3. スーパーヴィジョン・教育:専門的知識やスキルの教授を受ける
  4. 研究と評価:研究とその方法への理解。知見の効果的な活用。
  5. 管理・運営:メンタルヘルスサービス、事業の管理と組織運営への関わり。
  6. コンサルテーション:リファー元に対する専門家としての助言や支援。
  7. アドボカシー:権利・利益を擁護し、代弁する。社会、政治、経済、文化的に影響を与え、個人、集団、システムの変化を促進する。

【職業的発達:訓練や実践の水準。図形の右部分】

  • 博士課程教育
  • 博士課程の研修
  • 博士課程後のスーパーヴィジョン
  • 就職後の研修
  • 継続的なコンピテンシー
    ※Rønnestad&Skovholtは、臨床家の職業的発達は生涯続き、職業的自己と個人的自己が統合していくプロセスを示しているので、こちらも参考にしておきましょう(「公認心理師 2020-110」で出題がありました)。

本問を見てもらえればわかる通り、上記の基盤コンピテンシーからの出題となります。

これらを引用しつつ、解説していきましょう。

① 科学的な知見を参考にしつつも、直観を優先して判断する。

こちらは基盤コンピテンシーの「科学的知識と方法:科学的な研究から得られた知識を尊重し、効果的に応用する」を引用したものになります。

後半の「直観を優先して判断する」というのが手を加えてある箇所であり、こちらが不適切な内容になっているわけですね。

ただ、「直観で判断する」こと自体は、かつてから臨床実践で起こり得ることとされていました。

有名なのはロジャーズで、セラピストの最良の状態を規定する上で「うちなる直観的な自分の近くにいること」「自らの未知なるものに触れていること」「クライアントとの関係の中で、変性意識状態にあること」を挙げています。

ロジャーズが1986年(彼の死の前年)に出した論文の中で、「成長を促進する関係の特質」として「受容」「共感」「純粋性」の3つを取り上げて説明した後で、「もう一つの特質」という節を設け、そこで直観に関する内容を載せているのです。

つまり、第4の条件として「直観的なもの」に関することが述べられているわけですが、その後の私信の中で「私がもし、直観は必要条件の一つだと言い始めたら、セラピストたちがこぞって、自分は直感的でなければならないと考えるようになる恐れがあります。それは不幸な結果を招きます。私が今ハッキリいけることはただ一つ、直観は、セラピーがベストな瞬間に至った時、しばしば現れる特質だということです」と述べています。

私の印象では、「直観」とは、それまでの知識、経験などカウンセラー自身にも自覚できていないレベルで渦巻いており、それが目の前のクライエントとの関わりの中で意識的な判断を超えて発揮されることだと思っています。

目の前のクライエントへの「表面的に正しい対応」ではなく、そのクライエントの真のニーズに基づいた、無自覚レベルの膨大な知識や経験を背景にした対応であり、多くの場合は「名人芸」などと称されることが多いものです。

中井久夫先生が、ある患者を前にゴミ箱に入って対応したというのがありますが、なぜかそれが必要だと「直観」としてあったのでしょう。

ただ、こうした「直観」は、先述のように膨大な知識や経験を背景にして生じるというのが個人的な意見なので、ロジャーズが言うように初心者の時から「直観的に考える」ことをしていては、単なる思い付きでやってるだけという素人と変わらないものになります。

このように、本選択肢に「直観」が含まれているのは、背景があると考えておくことが大切です。

明らかな科学的知見があるにも関わらず、「直観を優先して判断する」というのはもちろん問題があります。

ただ、長く実践をしていると「エビデンスでは〇〇という対応が良いとされているのだけど、どうしてもこのクライエントにそれが合うようには思わない」という状況もあり得ます(ただ、直観的な判断は、こうした思考を介在させないような即時的なイメージもあります)。

こういう時に、きちんと「目の前のクライエントに〇〇が合わないと感じる理由を言語化できるようにしておく」ということが大切な手順だろうと思います。

個人的な意見ではありますが、こうした積み重ねが「なぜか、いつもはしない質問をクライエントにしていた」「体が勝手に対応した」というような、思考を超えた、しかし、それが功を奏するという流れに繋がっていくのではないかと考えております。

私自身に「なぜか、いつもはしない質問をクライエントにしていた」「体が勝手に対応した」ということが起き、それが功を奏したり、クライエントへの理解が後から追いついてくるような体験をし始めたのは、ここ数年でごく稀に生じるというレベルですから、上記の考えも正しいかどうかはわかりませんが、現時点での理解を捉えていてください。

いずれにせよ、本選択肢にある「科学的知見<直観」という認識で臨床実践を行うのは不適切な構えと言えますね。

よって、選択肢①は不適切と判断できます。

② 要支援者への関わり方や対応の在り方を自ら振り返って検討する。

こちらは基盤コンピテンシーの「反省的実践:自己の言動を振り返り、他者に対する自己の影響の認識や、自らを評価する」を引用したものになりますね。

当たり前のことのようで、実は心理職にとっては難しい内容です。

まず、人の心理に関する事柄では「理論的に正しいけどうまくいかない」ということが往々にして見られます。

こういう時に、「理論的に正しいから問題ない」としてしまうパターンがけっこうあり得るのです。

きちんと、「理論的には正しいはずだが、気が付いていない要因がないか、うまくいってないのだから必ず何かあるはず」と考えて、うまくいかなかった要因を探っていくことが大切になります。

ですが、こういう時に意外と多いのが「クライエントの要因に帰する」というパターンによって、自身の反省を行わないという支援者です。

「あのクライエントは〇〇だったからうまくいかなかった」という感じですが、専門家にとって大切なのは「〇〇という要因を見立てて、どう対応を工夫するか」を考えることです。

とにかく、支援者も知恵がついてくると「自分を守るための理屈」をたくさん持てるようになるということであり、これを跳ね除けて反省的実践を行うのはなかなか難しいことだと理解しておきましょう。

そして、反省的実践を行ったら、それを当のクライエントに伝えるという習慣をつけると「目の前のクライエントから得た知見を、目の前のクライエントに返す」ということが可能になりますし、反省的実践の「実践的応用」になるわけですね(要は、クライエントに「ごめんね」と言うような状況をもつということですね)。

いずれにせよ、本選択肢は反省的実践の内容として正しいものと言えます。

よって、選択肢②が適切と判断できます。

余談ですが、「反省しすぎている人」に関する一意見を述べておきます。

端的に言えば、「反省しすぎている人」は変わりません。

反省することが「うまくいかなかったことへの対応」とすり替わっており、クライエントに対して「何をすべきだったか」ということへの意識が薄く(見かけはともかく)、その後に類似の状況に出会ったとしても対応を変えることがないか、その状況を避けるという形になりがちです。

これは教育者側にも要因はあるでしょう。

反省することを以って「きちんと伝わった」と認識するため、学生側にも「反省すれば対応した」というパターンが埋め込まれてしまうのです(もちろん、学生側にも多大に要因はありますが)。

個人的には、教育者の伝えたかったことが伝わっていたかどうかは、「教育の受け取り側のその後の言動の変化」で見るしかないかなと思っています(年単位の変化も含めて)。

私は、上記のような教育者が喜ぶような反応をしてあげられない人間(わかりやすく反省したり、泣いたり、納得した様子を見せられない)だったので、「反省的実践をしないやつだ」と思われていただろうと思います。

ですが、大切なのは「うまくいっていない事実を自分の責任に帰する」という心持だろうと考えています。

③ 普遍的な視点に立ち、文化的背景を考慮せず、要支援者を同様に扱う。

こちらは基盤コンピテンシーの「文化的ダイバーシティ:様々な価値、文化的背景などをもつ個人、集団に対する敏感さと配慮」を引用したものになります。

ダイバーシティとは、多様性・相違点・多種多様性などを意味しており、当然のことながら、臨床実践ではこうした文化的背景を「踏まえた対応」が重要になりますね(選択肢内の「文化的背景を考慮せず」は誤り)。

本選択肢にある「文化的背景を考慮せず、要支援者を同様に扱う」というのは一見、もっともらしいですが(なんか同様に扱ってるから良いじゃん、的な感じを抱かせる)、これは不適切な内容です。

こちらは言わば「男女平等とは、男女で同じことをすること。平等なんだから力仕事も女性もやるんだよ」という考えに近くなってしまいます。

私は平等というものはイデアだと思っていますし、平等って何ぞやと今でもよくわからないのですが、少なくとも上記のような一次元的に考えることではないと思いますし、「違いを考慮した上で均しく扱う」ということだと思います(絶対的平等と相対的平等みたいな感じですね)。

それに精神的問題には「文化普遍的」であるものと、「文化によって異なる反応を示す」ものがあります。

例えば、統合失調症の発症率は「文化普遍的」であるとされていますが(だから統合失調症には、人類が生き残るために必要な遺伝子が含まれているという捉え方がある)、その症状に関しては「文化によって異なる」という面があります(例えば、日本で統合失調症の症状に幻視は少ないとされているが、インドではかなりの割合で見られる)。

こういう「違いを考慮して」支援を行わなければ、日本での治療経験を基盤に考えると、上記の例では「む、幻視を示すということは統合失調症にはあまりないことだ。別の視点でも考えてみよう」とインド人の患者に思ってしまうかもしれないですよね。

ですから、文化によって異なる部分を考慮し、それを踏まえた支援が重要になります。

コミュニケーション力は「意見が異なる者」「大きく立場が異なる者」「自分の苦しみは理解されっこないと思っている者」などとのやり取りの中で、その真価が問われるものです。

ですから支援者には、「様々な価値、文化的背景などをもつ個人、集団」とやり取りでき、それを踏まえた対応や配慮ができるという本当の意味でのコミュニケーション力が求められているということになりますね。

以上より、選択肢③は不適切と判断できます。

④ 専門職としての知識と技術をもとに、最低限の実践ができるようになってから職業倫理を学ぶ。

こちらは基盤コンピテンシーの「倫理・法的基準と政策:倫理的概念や法に関する知識を個人や集団に対して適用できる」を引用したものになります。

引用と言っても、かなり改変を加えてあって原型を留めていないほどですね。

当然、不適切な内容になっているのですが、その箇所を細かく見ていきましょう。

本選択肢の文意を説くと「専門家としての知識・技術と、最低レベルの実践ができるようになってから職業倫理は学ぶんだよ」と述べているわけです。

これが不適切なのは、公認心理師の職業倫理を把握すれば理解できると思います。

ざっと挙げると…

  • 秘密保持義務
  • 支援に関する説明と同意を行う
  • 適切な記録作成・保管
  • 自己研鑽
  • 自身の範囲を理解し、その範囲で支援を行う
  • クライエントと個人的関係を結ばない
  • 適切な連携

…などになります。

本選択肢の内容は、こうした職業倫理を「実践がある程度できるようになってから学べばいいよ」と言っているわけです。

もちろん、不適切であると言えますよね。

そもそも本選択肢の内容には構造的矛盾があって、「職業倫理を学んでいない人は、最低限の臨床実践もできない」わけですから、「最低限の実践ができるようになってから職業倫理を学ぶ」というのは不可能だと言えるのです。

言うまでもないことですが、倫理を初学者のころから意識した実践が重要になります。

もちろん、こうした選択肢が設けられているのにも理由があって、臨床心理士のトレーニングの中に明確に倫理に関する学びがあったかと言われれば、そうでもないような気がしています。

もちろん、個々の授業の中で扱われてはいましたが、カリキュラムとして倫理が出だしたのは最近になってからだと思います。

個人的な記憶で曖昧なのですが、京都文教大学大学院が立ち上がったころ、倫理について鑪先生がしっかりと授業したと聞き及んでおります。

こうした背景があったので、きっちりと倫理をカリキュラムに含めつつやっていこうということになっているのかもしれませんね。

いずれにせよ、職業倫理は学び始めから認識しつつ、それを踏まえて知識も入れていくことが重要になります。

よって、選択肢④は不適切と判断できます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です